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22.あなたは誰。

 夜も遅いのでいくら自宅の神社であっても、外に出ることは親にばれたら怒られると、涼子と成実はこそこそっと部屋を後した。家は境内の敷地内にあるので、玄関を出ればそこは目と鼻の先。玉砂利を踏みしめできるだけ静かに歩き、目的の狐たちの姿を視界に入れた成実と涼子は、またもや目が点になってしまい、そのままぽかんとした。

 数時間前に見た朧は、生傷を作って目許が腫れていたが、今の朧はそれ以上に傷を作り、唇が切れたのか血を滲ませている。いつも無造作に括りあげている黒髪がすっかり乱れに乱ればさりと下ろされているし、一体何をどうしたらこうなるのかというくらい甚平もぼろぼろで、月明かりに惚れ惚れするような陰影を作る、背中や肩の褐色の肌がむき出しになっていた。

 何も言えなくなった人間二人の前で、朧は蓮太郎に向けるには少々厳しすぎる色を赤い瞳に宿らせて、風に靡く黒髪を乱暴にかき上げながら半ばはき捨てるように口を開いた。

「こいつほんっまになんとかせな、俺の身が持たんわ!」

 そう言って、自分の足元にしゃがみこんでいる蓮太郎を睨む。しゃがみこんでいる蓮太郎は――正確には縄のようなもので縛り上げられていて動けないからしゃがみこんでいるのだが――無言のまま金色の瞳を持ち上げて、兄である黒い狐を見つめていた。優しい色を滲ませていた蓮太郎の瞳は、妙な澱みを湛えたまま、眉間に皺を刻んで微動だにすることなく朧に止められている。成実も涼子も存在すらしていないように、関心そのものがないように、髪の毛の先ほども見てはくれない。

 じっと睨みあっている狐たちのことを、成実は何も言えないまま見ているしかできなかったが、やがて涼子が、こちらも眉間の皺を深くしたまま朧に問いかけた。

「朧、何で蓮太郎縛ってるの?」

「あ? そんなもん暴れて抵抗するからやないか」

 苛立ちを現した赤い瞳は涼子にまで遠慮なく突き刺さる。しかしこの狐と付き合いの長い少女はさして気にしていないそぶりで言葉を続けた。

「なんで暴れるの?」

 落ち着いた様子の涼子の言葉に、朧が呆れ返った眼差しで蓮太郎を見下ろす。それにも蓮太郎は何も言わない。

「撫子の傍離れたないて言いよんねん。……あほか」

 心底呆れ返った声音の朧は、むっとしたまま視線を外して夜空を見上げる。星たちの瞬きが、明かりの少ないこの神社からはよく見える。

「蓮太郎……」

 幾日かぶりに呼びかけたその名前は、不安を隠しきれないように震えたものだった。今はもうすっかり好きな音のつながりになっている名前なのに、呼ぶだけでこんなに不安に駆られることも初めてで、成実自身が一番驚き、ひゅっと息を呑んだ。

 蓮太郎は、白く大きな耳をその声に反応させてぴくりと動かした。それから声の主を探すように視線を揺らめかせて成実へと止めるが、やはり特に反応らしい反応もなく、すいと逸らした。

 それはやはり悲しいことでもあるのだが、成実はそれ以外に悲しく思えた。

 あの蓮太郎の瞳が優しさを湛えていないことが、何よりも悲しい。時には太陽のように、時には月のように、時には春風のように、蓮太郎の瞳はとても明るく柔らかく、初めて会ったときから成実を見ていた。成実だけではなく、涼子にも朧にもサクラにも、その瞳は微笑し、穏やかにそれぞれを映してきた。白銀の睫毛の下の金色の瞳が、成実の何よりも好きなものだった。

 だが、今このときを映しているそれは、暗く曖昧な、光ともいえないものしかなかった。端整な顔に翳りを落とした濁り。蓮太郎の人柄を丸ごと包み込み、まるで別人にしてしまっているものを、成実は悲しく思う。

 こんなの蓮太郎じゃない。

 そう思えば思うほど、純粋にいつもの蓮太郎に会いたくなる。朧に比べるとおとなしく穏やかな白い狐は、いつでも笑顔が似合うのに。こんな暗い澱みを滲ませている瞳は蓮太郎には似合わない。――――自然に、涙が零れていた。

「成実さん……?」

 ぽろぽろと涙を零している成実を、涼子がやるせなさそうに見つめ、愛らしい瞳が歪む。それを見ていた朧も眉根をきゅっと寄せて、社に向かって厳しい目を向け声を張り上げた。

「おいサクラッ!」

 刺々しい声が木々に吸い込まれるように消えていくと、赤い光がふわりと社から滲み、赤い装束の神が銀色の瞳をうるさそうに眇めて姿を現した。

「お前、ご主人様に向かって口の利き方なってないなぁ」

「こんな時にそんなもん気にしてられるかッ。ええからさっさと蓮太郎治せやっ!」

 現れるなり文句を言うサクラに、朧は負けじと言い返す。狐の乱暴な言葉の投げかけに、サクラは雅な眉をひくっとひきつらせ、手にしていた幾何学模様の繊細な鞠を振りかぶって思い切り投げつけた。成実も涼子も、「あ」、と思ったときにはそれはすぱーんッ! と、朧の腹に命中していた。朧はそれを何とか受け止めたが、しかし痛かったのか顔をひきつらせながらうずくまる。生傷以上にそれの方が効いた様子なのは明らかだった。

「誰に口きいてんねんあほ狐。ええ加減にしとかなほんまにヤッてまうぞ」

 陰惨な微笑を湛えたサクラは、そのまま視線を蓮太郎へと廻らせる。生気の抜け落ちた狐の顔をじっと見つめた後、らしくないほどに大きなため息を落とした。

「のほほんとしてる方が可愛いで、蓮太郎」

 白くほっそりした手で、サクラは蓮太郎のいくつも飾り房や三つ編みで彩られた白銀の髪を撫でる。柔らかな仕種のそれを、蓮太郎はぼんやりとしたまま見返して、何かを考えてるような顔つきになる。少しして、その綺麗な形の唇が静かに声を零した。

「なでしこ、おらんのですか?」

 声音はそのままに、しかし蓮太郎の心からの言葉ではないような違和感を感じさせるそれに、成実は聞きたくないと顔を背け、涼子は悲しそうに愛らしい瞳を再び歪める。重たい沈黙が全員を包み込んだ時、少し離れた場所で腹を押さえながら立っていた朧がどかどかと足音も荒く歩み寄り、蓮太郎の頬を殴り飛ばした。蓮太郎の頬骨が鈍い音を立てて、しゃがみこんでいた長身の身体が派手になぎ倒される。

「朧!?」

 成実は息を呑んで言葉を失い、涼子が慌てて朧の腕にしがみつき止めに入った。朧は厳しい目で蓮太郎を睨みつけたまま、怒りをコントロールできない様子で、だが涼子を振り払ってまでは蓮太郎に対してそれ以上手を上げようとはしない。縛られたまま倒れた蓮太郎は、何とか鈍い動きで身体を起こし、何かを言うわけではなく俯いたまま小さく息を吐いた。成実の耳には、先ほどの音がこびりついたように離れない。

 いくら朧が普段から口が悪くても、誰かに、まして蓮太郎に手を出すなどとはサクラにとっても初めてだったらしく、銀色の瞳を丸くして、ぽかんと口を開けて赤い瞳を見ていたが、そのうち困ったような表情で朧に向かって口を開いた。

「……朧、それはやりすぎや。蓮太郎が自分の意思で動いてないことくらいお前かて分かってるやろ?」

「……そんなもん、分かってるわ」

 朧は眉間の皺を解かずに口を開く。立ち尽くしたまま、視線は蓮太郎から決して離そうとはしない。

「せやかて、コイツが無防備に撫子の企みにはまったからこんなことになったんちゃうんか? あほみたいにのんきにしてるからこんなことになるねん」

「まぁ、そうかもしれんけどやな。でもこうなってしもうてんから、今の蓮太郎責めても無駄やないか。それやったら今から元に戻してやるから、そっからしばいたらええんとちゃうか?」

「元に戻ったから言うてなんやねんなッ!」

 穏やかに、口調はよくないが諭すようなサクラの言葉に、朧が蓮太郎に止めたままだった視線を忌々しげにゆがめて声を荒げる。

「成実の気持ち考えてみぃなッ。まだなんもしてへんくせに、なんも言うてへんくせに綺麗さっぱり忘れやがって。挙句に成実の前で他の名前呼んでふざんなッ! お前のとりえは優しいことやろ? まじめなところちゃうんかい。周りのもん悲しませるのだけは俺は絶対許さへんからなッ」

 社の輪郭をなぞるように朧の声が浸透して響く。朧は赤い瞳の中に苛立ちを滾らせ蓮太郎を睨み下ろしているが、やはりその言葉も朧の思いも、蓮太郎には届いていない。ぼんやりとした金色の瞳は、ここではない異世界の撫子を想い、その姿を確認できないことに不安なのだろう、儚いほど揺らめいてる。

 何をこんなに怒っているのだろう。そんな風に見える蓮太郎の視線が、不意に成実を捕らえる。涙をためた成実を不思議なものを見るように見つめ、殴られた頬の痛みも感じていない蓮太郎は、無表情で言葉を零した。

「あなたは、誰?」

「…………え?」

 蓮太郎の言葉に、成実の思考は完全に止まる。涼子も驚き唇が意味もなく動く。サクラはこれも分かってたことだろうか、小さくため息をついただけだった。

「おまえ、何言うてんねん……」

 ぎりっと奥歯をかみ締めていた朧が、腹の底から搾り出すように問いかける。涼子がしがみついている腕にも力が入るのを止められないのか、大きな手がぐっと握り絞められていく。成実がそれを滲む視界の端に入れ、膝から抜け落ちそうな力をとどめておくだけで精一杯でいるところに、蓮太郎が再び言葉を投げる。

「僕、あなたのこと、知らないです……誰ですか?」

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