三章 (3)
3
鼻を衝いたのは、消毒液の微かなにおいだった。
目は覚めていないけど。
だからこそそれは鮮明に伝わってきた。
身体はやっぱり億劫で。
感覚もやっぱり鈍っているようだった。
もう一度寝ようかとも思った。
でも。
誰かに呼ばれているような気がした。
耳元で聞こえる穏やかな声。
言葉はまったく聞き取れやしないけど。
何故か自然と温かかった。
もう起きよう。
ぼんやりとする頭が、そう呟く。
そうだ、起きよう。
入らなかった力が、今入る。
重たい瞼を持ち上げると。
うっすらと光が、射し込んできた。
4
すぐに廊下は騒がしくなった。
扉が開かれると、岳の主治医と数人の看護師が入ってくる。
「先生ッ!」
「反応が見られたのは、本当か?」
「はい。今も指先が動いています」
話を聞きながら歩み寄ってきた主治医は、二人の手を見て、すぐに岳の顔を窺った。
「意識は?」
「まだです」
「モニターはどうだ?」
「正常値です」
一瞬前まで静かだったとは思えないほどの豹変っぷりだった。室内はあっという間に慌しくなっている。ただ、それは悲しい騒動ではなかった。だって反応があったのだ。一時は回復することはないと言われていたけれど。でもこのままなら、意識が回復するのもそう時間はかからないだろう。
だから頑張れ。
言葉にはしないけど、鈴子は心中で岳に囁きかけていた。
頑張れ、頑張れ。
これしか祈る言葉はないから。でも、精一杯の気持ちを込めて。鈴子は握る手に、少し力を込めた。岳の手にも、少し力が篭ったような気がした。
「先生! 上岡くんの瞼が!」
「何っ?」
一人の看護師の声に、みんなが反応する。全ての視線が、岳の顔に向けられていた。
と、確かに岳の瞼が微かに動いたのだ。意識が戻ってきているのだと、誰もが思った。
「上岡くん、頑張って!」
つい声に出してしまった、この気持ち。
室内に大きく聞こえたそのあと、誰かが続けて「頑張って」と言っていた。
小さな声の頑張ってコールは、何度も何度も聞こえてくる。
そして岳は、その瞼をゆっくりと持ち上げた。
光は完全に、岳の双眸に入っていた。
集中治療室にいた者全員は、その顔をほころばせていて。そしてすぐに、緊張を纏うと診察に入るのだった。
ブラインド越しに、鳥の影が飛んでいくのが、確かに見えた。
痛い所はないのかとか、そんなことを言われたって……。と、岳は正直に困った。
だって痛いのは全身だし、答えようにも渇いた喉からは声も出ないし。挙句の果てには動かそうにも、身体はまったくもって動かないのだ。これで一体どうしろというのだ。
……とか何とか考えている間に診察は終わっていて、岳は鈴子と再び二人っきりになっていた。鈴子は今、岳の左足の包帯を巻き変えていた。
室内には追い出された静寂が舞い戻り、堂々と居座っている。しかし決して居心地の悪くない、そんな静寂だった。が、それも長いと飽きてくる。
重っ苦しい生命維持装置は外されて、でも心電図だけは未だつなげられている。とはいえ呼吸器がないだけまだマシかと思い、岳はぼんやりと天井を眺め見ていた。
するすると、鈴子が包帯を巻いている音がはたとやんだ。
「よしっ、終わったよ」
「あ。ありがとうございます」
いつもなら馬鹿みたいに、へこへこと頭を下げているのところなのだが、生憎今の岳は身体を動かせるような状況になどあるわけもない。何といっても、重傷患者なのだから。
岳は頭を下げるような素振りを見せると、かすれた声でへこへことお礼を言った。ありがとうございます。どうもスンマセン。岳はかすれた声で連呼した。だが鈴子は、岳の隣まで来ると突然その場にしゃがみ込み、
「いいのよ、別に。これが私たちの仕事だしさ。それに、これがなきゃ私、失業しちゃうよ」
とか何とか抜かしつつ、あははとそりゃもう壮大に笑っていた。
ちょっと心配だなこの人……。などと感じて苦笑して。そうですよねーと岳は呟いた。
「ところで、本当にもう大丈夫? 痛い所はいっぱい?」
「ええ、そりゃあこれだけ怪我しているようですし。痛いって言えば痛いですよね」
「あ。やっぱりそういうモンなんだ」
「はい。そういうモンですよ」
視界の端で、心電図が同じような波を繰り返し繰り返し作っている。黒い画面にエメラルドグリーンの波がちょっとカッコいいなと、岳はふと思った。
室内はどこまでも穏やかで。初対面だというのに岳は鈴子とすっかり意気投合している。
「上岡くんはどこ高校なの?」
「長尾高校ッス」
「へー、やっぱりあのスポーツの名門校に行ったんだ」
「はい。やっぱ甲子園、行ってみたいんで」
岳はおもいっきり笑っている。
「ってことは、やっぱり野球好き? 甲子園って憧れるの?」
「そりゃそうッスよ。野球は大好きですし。それに甲子園って言ったら、高校球児の夢であり聖地ですからね」
岳はその瞳を輝かせ、力説した。
甲子園って本当に高校球児の夢なんだと、鈴子は岳を見て思った。
言葉の一つひとつが弾んでいる。
「マウンドって、緊張するの?」
「まあ、それなりには。でもそれがたまらないッスよ。いい感じの緊張具合が」
「どんなにすごい人でも、緊張はするんだ」
「これでも一応は人間ッスからね」
「そうだよね、ごめんごめん」
笑いながら鈴子は謝った。
いいッスよと、岳も笑っていた。
「ところで葉柳さんは何で看護師に?」
「何でだろうねー。気分っていうか、なりたかったんだよ」
「勉強とか、大変でしたか?」
「当ったり前よ。だって私、高校時代の成績、相当悪かったからね」
えへんと咳払いをして、鈴子は笑った。
胸を張って言う場面じゃいないですよと、岳は苦笑した。
「見えませんよー。そんな風には」
「お褒めの言葉、ありがとな」
鈴子は岳の頭をくしゃっと撫でた。
痛いッスよ。と岳は笑って呟いた。
「葉柳さん。看護師って大変ッスか?」
「まあね。辛い時もありゃ悲しい時もあるよ」
鈴子は棚に肘をつき、ブラインドの上がった窓の外を見やった。
「でも、こうにさ。人が助かっていくのを見ると、たまらなく嬉しいね。どんな辛い時でも意欲が湧くよ」
その顔は生き生きとしていて、声もだんだんと弾んでいく。
それだけ、この仕事が好きなんだ。
気分なんかじゃなくって、真剣に決めたんだなと。
妙な確信が岳の中に芽生えていた。
「そういうモンなんスか?」
「そういうモンっすよ」




