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三章 (2)

    2


「この子、……どうしたの?」

 連休中に何があったというのだろう。集中治療室に入ると、全身包帯巻きの子がいた。

「あ、葉柳はやなぎさぁん。上岡かみおかくんの担当ですかぁ?」

「まあ、そうなんだけどね。でも……」

 何でこの子はこんな怪我をしているんだ?

 確かに病院に勤めていれば、こういう怪我をする人との対面も少なくはないのかもしれない。けれど、まだ勤めてこの方二年ちょいの看護師――葉柳はやなぎ鈴子りんこにとっては、未だかつて遭遇したこともない状況であった。…………でもだ。

「なんかですねぇ、事故に遭ったらしいんですよぉ」

 何でこいつはこんなにも冷静でいられるんだ? と、鈴子は後輩看護師を見やった。

「事故?」

「そうなんですよぉ。一週間前に運ばれてきたんですぅ」

 眉根を寄せながら怪訝そうに聞けば、後輩看護師はそう間延びな声で答えてきた。ついでにいえば、鈴子にカルテを押し付けて。

「容態は書いてあるとおりなんですけどぉ、もうほんとすごかったんですからぁ。なんてったってぇ、上岡くんってば有名な子でしょぉ? それに都心でこんな事故が起こったっていうのもあってぇ、もう大変ー。マスコミとかがおしかけてきてぇ、病院中がてんやわんやだったんですからぁ」

 とか言うわりには、全然大変だったようには聞こえない口調だ。っていうか、ぶりっこ語をくっちゃべる口元に手なんか持ってきているし。

 どっちかっていえば「もぉー、すっごいわくわくしちゃいましたよぉー」……とか言い出しそうな雰囲気である。本人を前にして、なんとも不謹慎極まりない。よく看護師でやっていられるなと褒めてやりたいくらいだ。

「へぇ……。あの野球少年のね」

 でもそんな後輩のことなど、どうでもいいのだ。問題なのは今まさに目の前にいる、この野球少年なのである。

 助けられるのか、られないのか。その瀬戸際に立たされている、この少年なのだから。

「でも可哀想ですよねぇ。……なんかぁ、助からないらしいっていうかぁ」

 そう言うと、彼女はちらと岳のほうに視線を向けた。

 ……確かに。こりゃあ相当な重体患者だな。

 ぺらぺらとカルテをめくりながら、鈴子も岳をちらと見た。

 そこにいるのは、とても十五歳の少年とは思えなかった。……いや、少なくとも一週間前まで元気に走り回っていたであろう少年には、到底思えなかった。というべきか。

 全身に巻かれた包帯は、所々血や血漿けっしょうで赤や黄色に染まっている。片方しか見えてない目は固く瞑られているし、動く気配もまったく感じさせない。彼の隣には重々しい生命維持装置なんかがあるし、彼はそれにつながれているし。……とてもじゃないが、見ていられないような状態だ。

 医者でもない若造な看護師から見ても、この子が助かるようには見えなかった。いざ助かったとしても植物状態か、よくて後遺症に苦しむか……。

 ヤバイな。とんでもない子の担当になったぞ、こりゃ。

 カルテと岳を交互に見ながら、鈴子は心中そう呟いた。



 本当のことに気付くのに、大して時間はかからなかった。

 包帯を巻き直してくれと岳の主治医に言われて、大量の包帯とガーゼと消毒液を抱えると、鈴子は緊迫している集中治療室内を進んでいった。

 それもそのはずだ。ここに入った患者は、もうみんな危険な状態なのだ。緊迫しないわけがない。解っている。でも、鈴子はこの空気が、正直あまり得意ではなかった。

「上岡くーん。包帯取り替えるよ」

 って、言ったところで返事は返ってこないのだ。言って目覚めるんなら、小難しい治療なんて必要ないし。でもそれが看護師の義務っていえばそうなるわけで。鈴子はまったく目覚める気配のない岳に声をかけてから、包帯を換え始めた。

 とはいえ、本当にこの子は何をしたのだろうというくらいの怪我だった。

 打ち付けた時に、ぱっくりと裂けてしまったんだろうか。

 頭に巻いてある包帯は、取れば取るほど血に染まっている。それも、最初のほうは血も乾いて赤黒く固まっていて。だが、下層部にいけばいくほど、まだ微かに湿っていて、赤い色も鮮明なのだ。一週間も経っているのに血が固まらないだなんて、何か別の病気にでもかかっているんじゃないかとしか思えない。

 手に色付く血は、冷たかった。

 鈴子はそれでもぐるぐるぐるぐると包帯を取って――思わず息を呑んだ。

(うそ。冗談でしょこれ――)

 額の左側には、それこそ大きな傷跡があった。どれくらいだろう。そこは何針も縫われていて。血は止まっているが、やっぱりちょっと湿っていた。それに赤黒い血の痕や瘡蓋の下は、紫色に染まっている。

 ……いや。それだけじゃない。

 その紫色に鬱血した肌は、先ほどまで隠れていた左目の、その下の頬にまで侵食しているのだ。しかもそれだけに留まらず、痛々しい擦り傷が、広がっている。目なんて、もう見えなくなるんじゃないかって。そうとしか思わせないような傷で……。

 思っていたよりも酷い状況だったのだ、この子は。

 きっとこんなことになる前は、いくら有名だろうが、何だろうが。毎日が楽しかったのだろう。この年頃ってのが、一番楽しかったと思えるのだから、きっとそうに違いない。でも、こんな状態になって、回復しないかもしれないだなんて。……そんなの、酷すぎる。

 脱脂綿に消毒液を含ませながら、鈴子は唇をギュッと噛んだ。

 スーッとするような消毒液の独特なにおいが、鼻腔をくすぐっている。

 ピンセットでそれを持って。この傷口に当てるのかと思うと、心が痛んだ。

 痛いんだろうな。

 意識がないからといっても、きっと痛いんだろうな。

 沁みるんだろうな。

 だけど、これはやらなきゃいけないこと。

 いくら痛かろうが沁みようが、そんなことは関係ないんだ。

 妙な感傷なんて、生んじゃいけない。

 看護師の義務として。

 この子を救う手助けとして。

 鈴子はそっと、傷口に脱脂綿を当てた。

 岳は……身じろぎ一つ、することはなかった。

「…………」

 鈴子は消毒液を塗っていく。時折ピチャピチャと、微かな水音をたてることもあった。

 消毒液に濡れた脱脂綿は、乾いた血を吸って、赤くなっていく。

 覗き見なくても、岳の顔は鈴子にはよく見えていた。

 傷だらけになった左顔面の、そこにある瞼はやはり瞑られている。下方を見やれば、それこそ包帯だらけだし、勿論動きもしないのだ。

 本当に、この子が生きているようには見えなかった。

 だが、岳は確かに生きている。上下に揺れ動く胸と温かな体温、そして波長を記す心電図。それらが岳が生きているということを、確かに証明しているのだ。

 鈴子は岳の左顔面に真っ白なガーゼを当てると、一度手を止めて。それから包帯をその手に取った。

「ちょっと我慢しててねー」

 空しいくらいに、鈴子の声は大きく聞こえた。

 悲しい微笑をその顔に浮かべながら、鈴子は岳の頭に包帯を巻き始めた。

 白い包帯は巻かれるたびに、するすると小さく声をあげた。



 心にはぽっかりと穴が空いたみたいだった。痛いのか吸い込まれそうなのか、それさえも解らない。ただ、この子は助かるのだろうか。そんなどうしようもない疑問だけが、鈴子の心に大きな穴を広げていた。

 鈴子ははぁと息をついた。

 さっきからてきぱきとやっているはずなのに、作業のほうはほとんど進んでいなかった。

 いや。ほとんど進んでいるように、見えないのだ。

 それだけ、岳の怪我が酷いということなのだろうか。

 右手首の包帯を取り外しながら、鈴子はそんなことを感じていた。……でも、そのとおりなのかもしれない。だって鈴子は、右手だけでもう二回も包帯を巻いているのだ。そして手首で三回目。異常すぎるほどだ。

 しんと静まり返った治療室の中は、心電図の音と鈴子の作業する僅かな音に包まれていた。窓から射し込む陽光は、白いブラインドの合間をくぐり抜けて、室内を淡く照らしている。そんな閉鎖された異空間の中に、二人はいた。

 するっと儚い音をたてて、包帯は岳の手から離れた。眼前に現れたその手首は、痛々しいほどに腫れあがり、赤黒く変色していた。折れてないとはいえ、一目で無事ではないことが窺える。

 だが、それにしても。と、鈴子は思うのだった。

 さっきから包帯を巻いていて解ったのだが、岳の体つきはさほど常人と変わらないのだ。中学生でプロ並みと称されたのだからマッチョなのかといえば、全然そうでもない。どこにでもいそうな男子高校生の体つきと、ほぼ一緒。違うのは掌にある、ほんの些細な肉刺くらいなもんだ。

「この子から実は、百五十キロ超というボールが放たれるんだよ」

 なんて言われたって、これじゃあ到底信じられない。野球なんて大して知らないけど、そんな鈴子だって、まず信じやしないだろう。それによく見れば、野球選手にしては岳は小柄な体躯だ。よくこれで肩を壊さないと、正直不思議でならなかった。

 湿布を貼ってから、鈴子は再び包帯を巻く作業に入る。男にしては細いであろう手首は、本当によく折れなかったなと褒めてやりたいくらいだ。

 するすると慣れた手つきで、鈴子は包帯を巻きに巻く。きつくもなく緩くもない巻き方は、もう慣れたもんだ。

 巻き終えると留め金で包帯を留め、紙テープを留め金の上に貼り付けた。全ての包帯を巻き終えた右腕を、鈴子はそっと身体の横に戻す。そして残っている両足のほうを見やりながら、岳に向かって何となく話しかけていた。

「ねえ、マウンドに立つってさ、どんな気分なの?」

 勿論返事が返ってこないことなど、承知済みだ。それでも鈴子は話し続けた。

「ボール投げるんでしょ? あそこから。キャッチャーに向かってさ、バビュンって」

 よく投げられるよなー、あんな限られたスペースに。と、鈴子は言いながら、岳の手を握った。やっぱり野球をしているとは思えないほど、その手は細かった。

「この手で投げるんでしょ? あんな速い球。どうやって放っているのか不思議でならないよ。ほんとにさ」

 室内は穏やかだった。閉鎖されていても、隔離されていても。

「今日もいい天気だよ。外で暴れたいくらい、いい天気だよ」

 ブラインドのほうを見やれば、陽光が僅かな光を、窓辺に落している。陽だまりの中で、小さな塵がキラキラと輝いていた。

 時間はまるで止まったかのようだった。それでも、時は緩やかに流れている。

「早く治しなよ」

 鈴子は岳の手を、そっと握った。

 岳の手は、微かに動いた。

「――!?」

はっと鈴子は振り向いた。これが虚なのか現なのか。それさえも解らなくなって、思わず叫びたい気持ちを押さえ込んで。鈴子は自分が今握っている岳の手を、凝視する。と、その手は僅かな力ながらも、反応を見せていた。指先が微かに動き、鈴子の手にその力を伝えているのだ。

 え。これ本当ですか? とか、一瞬脳内がパニックになりながらも、鈴子はナースコールを押していて、

「先生いるッ?」

 感極まって、思わず大きな声をあげていた。



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