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二章 (2)

    1


 何をしても、苦痛なんてなかった。

 抱きかかえた自らの背に爪が突き立てられようとも、強く唇を噛み締めようとも。

 普段は痛みを感じることにさえ、何の感覚も持たない。

 それは不思議と、心にまで侵食していた。

 さっきまではあれほど苦しかった『死』への恐怖。

 何よりも辛くて苦しくて、どう足掻いたところで救われることのない。知っていたけど向かい合えなかったこの運命に対しても、今は大した恐怖さえ感じられなかった。

 震えはいつしか消え去って、己を抱きしめる腕からは徐々に力が抜けていた。乱れた呼吸は知らぬ間に平常に戻っていて、漠然とした恐怖は消え去っている。

 不謹慎かもしれないけど、気持ちは自然と楽だった。

 何かが麻痺していると思った。

 闇が全ての苦痛を喰らっているとも思った。

 ただ、それがよかったのか悪かったかのなんて、たけるには解るはずもなかった。

 楽になれた。苦痛から逃れられた。

 それだけが事実であり、今岳の置かれている状況でもあった。

 岳はゆっくりと背に回した手を下ろす。さっきまで放したくなかった温もりは、意外にもあっさりと、その場を離れていく。丸めた上体をゆっくり起こすと、背骨が微かに軋んだ。痛みはないのに、何故か億劫だった。

 顔を上げ、天を仰ぎ見る。そこはやはり、闇に覆い尽くされていた。夜空よりも遠く、どこまでも続いているようで。そして何もかもを飲み、喰らっているかのようだった。穴なんてないけれど、ここは確かに、ぽっかりと開けていた。そして岳は喰らわれ、飲み込まれていた。

 ふぅと長い息が、漏れる。

 目を瞑ってもそこは闇に覆われていて、もう自分は逃れられないのだと岳は悟った。

 どこを見ても、闇がある。

 どこへ逃げようとも、闇は追ってくる。

 ああ、そうか。

 今更足掻いた所で、何の意味もなさないんだ。

 自分は、これから死ぬ。

 確かめたわけではないけど、でもそれはきっと、紛れもない事実なんだろう。

 諦めにも似た感情が、岳の中で芽生えていた。

 勿論今だって怖いし気持ち悪いし、そういう感情を拭いきることはできやしない。

 でも、どうしようもないこともあるって、知っている。

 これはどうしようもないことの、一つだ。

 ――後は、なるようになるしかない。


「どうやら心の支度は、できたようだね」


 静けさを割って聞こえてきた声は、若い男のもののようだ。

 今まで誰も見当たらなかったこの空間に、まさか他に誰かがいるとは到底思えない。何の前触れもなく現れたその声に、岳は背筋を跳ねさせた。

 振り返ってみると誰もいなかった空間に、一人の青年がいるではないか。

 下に着ている服もその上に纏っているローブも、闇と同じ漆黒で、オフホワイトのジーンズと服の襟に入った白いラインが妙に浮いている。ローブを止めるためか、複雑に絡まった鎖が首から下げられており、そこには碧色の十字架が揺れていた。二重螺旋の鎖には彼の背丈をはるかに越す、鈍色の鎌が吊るされている。彼の頭上後方で、鎌首が生々しく輝きを放っていた。

 彼はそんな格好をしているにもかかわらず、岳に向かって。まるで邪気のない、不気味な笑みを浮かべていた。

 岳の背は、まるで見えない刃物をあてがわれているかのように、ピンと伸びる。

 物事を悟ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 こいつ、死神――?

 大きな鎌が禍々しく光っている。

 ああ。俺、とうとう死ぬんだ――。

 肩の下で切りそろえられた彼の髪が、静かに揺れる。

 一歩ずつ、でも確実に。近づいてくる青年を岳は拒むことも忘れて、見ていた。

 ……いや、違う。目が離せなかったんだ。

 岳は思わず、生唾を飲み込んだ。

 彼は岳の前に来て、ぴたと止まった。

「もう君は、僕が死神だっていうことを解っているようだね」

 薄ら笑いを浮かべている彼はそう言うと、くすくすと笑っている。

 冷ややかな空気が、微かに震えた。

 岳は言葉もなく、頷いた。

「でも、君は一つ大きな勘違いをしている。……それが何か、解るかな?」

「……まったくもって、解りません」

 考えた末、今度はちゃんと口を開いて言う。

 しかしその声は岳自身でもよく解るほど、震えていた。

 気味が悪い……。こいつが、俺を殺す以外に一体何をするというんだ。……勘違いをしている? この状況で何を勘違いする必要があるよ。

 彼の目はどこまでもまっすぐ、岳を見据えている。まるで穢れを知らない瞳は、だからこそ今まで見てきた何よりも恐ろしかった。

 何もかもを見られているようで、恐ろしかった――。

 一歩後退ろうと、岳は足を引こうとした。

 が、どうしてか足はピクリとも動きやしない。

 神経なんて抜かれたことはない。けど、それみたく足には力が入らなくて……。岳は動くどころか、望んでもいないのに、その場に座り込んでしまった。

 一気にいろんなことが起こりすぎて、岳は混乱した。

 見上げた視線の先で、彼はじっと岳を見ていた。

 あの、瞳で。

 ヤバイヤバイって本能が悲鳴をあげている。

 それなのに、身体は岳の気持ちとは相反して、焦れば焦るほど力が抜けていく。

 どうしたらいいのかなんて、考えるのも億劫なほどに身体はだるい。

 でも岳はそれさえも無視して、思考を必死に巡らせた。

 眼前で彼は、あの鈍色の鎌を揺らめかしている。

 彼の双眸は闇を含んで、密やかな微笑を浮かべていた。

 もう何に対してゾッとしているのか、解らない。

 心も身体も精神も、何もかもが震え上がっているような気がしてならない。

 彼は、岳の前にしゃがみ込んだ。

 目の位置を岳と合わせると、彼は今まで以上ににっこりと顔をほころばせた。

 その顔はまるで人形のように美しく、感情がなかった。そして――

「君はこれから、罪を償うんだよ」

 彼の声は、あまりにも澄み渡っていた。



「罪……?」

 岳は思わず、聞き返していた。

 それもそのはずだ。岳はこんな所に送られるような罪など、犯した覚えもないのだ。それにあるとしても、せいぜい幼少時に誰もがやったような、幼稚な悪戯や喧嘩くらいだ。他には何もない。償う罪なんてものはないのだ。

「そう。罪だよ」

 それでも彼は、躊躇いもなしに首肯している。

「君はその罪を償わなきゃいけないんだ。……死ぬなんてこと、君には許されていない」

「許されないって、じゃあ……」

 何で死神がいるんだよ。死なないんだったら、何で死神なんかが?

 混乱した脳内には、やはり混乱にまみれた言葉が駆け巡っていた。同じ言葉が、同じ疑問が。何度も何度も頭の中に浮かんでは過ぎ去っていく。

 身を包む黒装束から雪のように繊細な肌を覗かせている彼は、そこにある漆黒の双眸でじっと岳を見つめていた。分けられた長い前髪が、風もないのに時折ふわりと揺れていて、与えているのは黒いオーラというよりも、むしろ幻想的なものだった。

 だが、その幻想的な雰囲気も、心を和ませるようなものではないのだ。出ているのはもっと別の。……差し詰め、心を凍らせるようなものだった。

 岳は胸がざわめくのを覚えた。

 勿論彼は、顔も身体も骸骨じゃないし、見た目だって、普通の人間と変わりはない。

 だけど彼は、確かに死神そのものだったのだ。

 纏っている物から雰囲気から。

 全てが全て、誰もが想像する、死神そのものだった。

 光もないのに、あの鈍色の大きな鎌はぬらりと不気味な輝きを放っている。その切っ先は朝露にでも濡れているかのごとく、一際輝いていた。

 漆黒のローブが、やはり風もないのに大きく靡いた。

 闇に覆われたこの空間。

 ピンからキリまで、普通とはかけ離れていた。

 岳の腹の底は、どんどん冷たくなってくる。

 死をつかさどる者。

 それが死神じゃないのか――?

「……さっきも言ったけど。君はやっぱり、間違った思考を持っているようだね」

 困ったように――けれど楽しそうに。彼は微笑みかけながら言葉を紡いでいく。

「言っちゃ悪いけど、死神は何も、人の魂魄を冥界に送るだけが取り柄じゃないんだよ」

 彼はそう言うと、座り込んでいる岳に手を差し伸べ、岳を立ち上がらせた。足元にしっかりとついているはずの足は、しかしどこか覚束ない。

 だが、それよりも――

「岳くんだってそうでしょ? 学生だからって勉強しかしないわけじゃない。部活もやれば、友達と息抜きだってする。……バイトとかする人も、生徒会の活動とかをする人もいるだろうね。結局はそれと同じで、僕ら死神も他に仕事がいくつかあるんだよ」

「ちょっと待てよ! お前……何で俺の名前、知ってるんだよ。それに……」

 それに何で俺の聞きたかったことを――?

 岳が困惑に狼狽える中、彼は口元に手を当て、クスリと笑った。

「君の名前は『上岡岳』。六月二十四日生まれの十五歳で、高校一年生。家庭環境は恵まれており、部活動は野球部に所属。持って生まれた才能からか、入部したてにもかかわらず、現在はスポーツの名門と呼ばれる高校にて、既に一軍に籍を置いている。去年は夏の中体連の大会で全国優勝の実績を持ち、その実力はプロ並みと称された。今注目ナンバーワンの投手」

 何だよ、こいつ……。

「……僕くらいの死神になら、これくらいは解るんだよ。勿論、今岳くんが考えていることとかも、ね」

 彼の瞳が、不気味に揺れた。

 漆黒の彼の瞳は、まるで底なしの泉のようだった。

 そこからは何もかもを見透かされているのに、こちらから相手を窺うことはできない。

 一方的な攻撃だった。

 自然と呼吸が、荒くなっていく。

 どうしようもない。

 怖い。

 漠然とした恐怖が、でも確実に。岳の身を蝕んでいた。

 身体が震える。

 声が出ない。

 それなのに視線は彼に向けられたままだ。

 放すことが、できなかったのだ。

 彼は今も笑っている。

 何もかもを見透かして、岳の心理を探り続けて。

 少年のように、ありのままに。

 彼は感情を露にしているのだ。

「岳くん。逃げようだなんて、思っちゃいけないよ」

 闇はどこまでも広がり続けている。

 彼は少し前かがみになり、岳と視線を合わせた。

 すると彼は手を伸ばし、ふわと岳の頭をひと撫でした。

 目も瞑ることなく、ただ息のみを潜めて。

 岳はそれに耐えていた。

 撫でた彼の手は、やはり人間のように温かった。

 そして。

 彼はその手をゆっくりと放した。

 だがそこに残るのは、冷たい恐怖だけだった。

 彼はにっこりと微笑み、

「罪を償いきるまでは、君は囚われの身なんだから」

 すると突然、身体がだるくなった。

 視界は霞み、頭はくらくらとして……。

 朦朧とする意識の中、彼はずっと微笑んでいた。

 闇の端には。

 もう一つの人影が、あった気がした。




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