二章 止められた時間
気が付けば、そこは今までに見たこともないような、ひどく寂しい場所だった。
見渡すかぎり一面が、闇をも喰らうのではないかというほどの漆黒の空間で、それはどこまでもどこまでも続いてる。まるで果てがないかのようだった。
そこに岳は一人、寝そべっていた。
他には、誰もいない。
ぼんやりとする意識の中、岳はゆっくりと、その場に立ち上がった。
……そういえば、目覚めてからずっと違和感を感じる。
真っ暗な闇は四方から忍び寄っていた。まるで岳を飲み込まんばかりに……。
目を開けてからというもの、一向に変化を見せない空間は、この上なく気味悪かった。
自分一人しか存在しない不安や恐怖が、真っ先に岳の心を覆い尽くした。
背筋に緊張が走り抜けていった。
思えば、身体中に感じていた激痛は嘘のように引いている。今や痛みのカケラさえ、微塵も残ってはいないのだ。
どうなっているんだよ。と、岳は眉根を寄せ、ぐるっと辺りを見渡した。
しかし、風景はどこを見ても、変わることなどない。
岳は掌で、顔を覆った。
覆ったところで、状況は何も変わらなかった。
それにしても……何とも奇妙な場所だった。
闇のように真っ暗かといえば、そういうわけではない。
確かにどこを見渡しても、黒以外の色彩など、存在しないのだ。しかし自分自身の持っている色彩は、まるで明るい所にでもいるかのごとく、はっきりと認識することができる。真っ黒に塗りたくられた箱の中に、閉じ込められているような気分だった。
ぞくぞくした。マウンドに立つ時のようなものじゃなくて、もっと別の。……言葉にすれば、畏怖とか驚怖とかに分類されるような、不愉快な悪寒。掌にはじっとりと、嫌な汗が纏わり付いていた。
それに何だ……? この浮遊感と安定感とが混ざり合ったような感覚。
車や船に酔った時の気持ち悪さというよりもだ。感じるのは、むしろジェットコースターで落ちる時みたいな、あの内臓的な物が浮いているかのような気持ち悪さだった。微妙な嘔吐感が断続的に現れている。吐けば楽になるのだろうが、嘔吐感が弱すぎて、それさえも叶わない。もどかしさと悪気分でイライラした。
「ちくしょう……ッ」
周囲と同色の足元を、岳はおもいっきり蹴りつける。
実際自分は浮いていて、蹴ったりしたらスカして転ぶんじゃないか……。そんなくだらないことを、岳は足を振り下ろした瞬間に、頭の片隅で思った。だが幸いにも、ちゃんとした足元があるようで、スカさず済む。心なしか、ホッとした。
ただこれを足元と呼ぶのは、他でもない。岳の立っているこの場所が、明らかに地面とは異なる物だったからだ。そして何より、認めたくもなかったから……。
岳は大きく息を吸い込むと、もう一度辺りを見渡した。
そこにはやっぱり誰もいない。
孤独という言葉が形として現れたような場所だった。
……何て所に来てしまったんだろう。こんな心苦しくなるような、悲しみに溢れている場所に。何で来てしまったんだろうか……。
岳は途方に暮れ、何もない漆黒の闇を仰いだ。
すると、あの時の光景が、岳の脳裏をよぎったのだった。
自らの身に起きた、あの忌々しい出来事が――。
(……そうだ。あの時俺は、確かに撥ねられたんだ。あの時は何も解らなかったけど、それは変えようのない真実で、実際にこの身に起こったこと)
冷静に考えてみれば、ここは多分生物の行く末なんだろう。今まで感じたことも見たこともないわけだ。だって一度しか行けない場所なんだから。
痛みを発していたはずの身体に、もう痛みはない。
出血していたはずの傷口も、今はどこにも見当たらない。
それは嬉しいようで。……でも、途轍もなく遣る瀬無かった。
あまりにも無傷な己の姿が、どうしてもいたたまれなくって――
「……っ…………」
何を欲すれば、何をすれば。
一体何が己を救うであろうか。
すべきことが解らない。
何を求めているのかも解らない。
ただ、目の前に突きつけられた、あまりにも残酷な運命が。
どうしようもなく受け入れがたくて……。
岳は必死に、己の身体を抱きしめた。
包み込んでくれる者なんて、ここには誰一人としていやしない。
どこまでも広がる孤独の中で、岳は一人、震えていた。
これから直面するであろう、最後の試練に。
どれくらいの時が過ぎたんだろう。
時計もなければ陽の光も空腹感も、この場所にはなかった。ただ無造作に時が流れているのは紛れもない事実なのだが、それが一体どれくらいなのかは、皆目見当もつかない。岳には最早時間の感覚さえ、なくなっていたのだ。
……いや。そもそもにしてこの場所に『時間』というものが存在するのだろうか?
こんな場所に時間というものがなくたって、何ら不思議じゃないではないか。
そういう場所なんだよ、ここは。
足は微かに震えている。
腕に抱き、丸めた背中があまりにも弱々しい、その風貌。
漆黒のこの場所で、岳は唇を噛み締めて耐えていた。
長い間、ずっとずっと耐えていた。
いつまでもこうしているわけにはいかないけど。今だけはこのまま……。
長い息を吐き出して、岳はギュッと目を瞑った。
闇は何かを、喰らっていた。




