一章 (2)
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桜の花も盛りを越えてきた。
それでも校舎から少し離れた場所にあるグラウンドにまで、桜の花は花弁を散らしている。風にその身を預け、淡い桃色を広げあいながら。ひらりひらりと。
彼はその手を大きく振りかぶった。
試合は九回表、出塁なしでツーアウト、ワンストライク。そしてノーボール。
春の陽光に照らされる中、野球グラウンドは緊張に包まれていた。
二・三年が集う中、マウンドにいるのは、まだ入部したての新一年生。
おろしたてのユニフォームは、まだ色褪せていない濃紺で、アンダーシャツの黒も真新しい。試合中、土のついた白いズボンでさえも、どこか光り輝いていた。
彼の振りかぶった手から、白球が放たれた。
まっすぐに突き進む白球は、高校生が放つものとは思えないほど速く、そして鋭い。誰も寄せ付けないと言うかのような、そんな強ささえ秘めていた。
――パァン!
「ツーストライク!」
キャッチャーミットに突き刺さる音さえも激しい。
桜の花弁が舞い散り、淡い香りがグラウンドを包み込む中。
主審の声が響き渡った。
「あー……。頭痛ぇし、背中も痛ぇ」
日曜日の午後。晴れ渡った東京の空の下は、今日も賑わいを見せている。
そんな中「災難だ……」と呟きながら、岳はとぽとぽと家路をたどっていた。
勿論背中に背負っているのは、明らかにお疲れブルー。
「ドンマイ、ドンマイ。きっと痣にはなってないから安心しとけ」
「いやいや。これは絶対痣になっているって。痛ぇもん、すっげぇ」
共に歩くのは、従兄弟の勇一だ。
整ったその顔には、心配色たっぷりの苦笑が浮かんでいる。「んな簡単にはならないって」とか言ってはみるものの、それが一体誰に向けての言葉であるのかは、定かでない。本当に岳に対して言っているのかもしれないし、はたまたそんなことはないと、勇一自身に言い聞かせていたのかもしれない。
結局、真実など勇一本人にしか、解らないのだ。
しかし従兄弟同士とはいえ、よくもまあ外見はこれ見よがしに似て、中身の能力はまったくもって異なったもんだと、常々感心してしまう。
というのも、外見で二人が違う所といえば、髪と瞳の色と、あとは身長くらいだ。岳は漆黒の髪と見る者を吸い込むような黒い瞳に、平均的な身長をしている。だがそんな岳とは違って、勇一は小麦色の髪に、水のごとく澄み渡った碧眼。それでもって長身だ。他はちょっと長めの髪から顔の形やパーツまで、何から何まで本当によく似ている。双子は無理でも、兄弟には十分に見える。実際、兄弟に間違えられることも少なくない。
ただ、中身だけはまるで違う。実技教科が得意な岳とは打って変わって、勇一はオールマイティーにこなすのだ。勉強なんか、全国で一・二を争うほどの実力者である。そこの所が平々凡々以下な岳にとって、ちょっとしたコンプレックスであった。それだけに、アレは絶対に竹原の遺伝子だと、岳には宣言できるのだった。上岡の遺伝子にはきっと、勉学の文字など入っていないんだ。うん。
「まあ、手荒い歓迎だったもんな。あれ」
勇一は空を仰ぎ見ながら、でもやっぱり苦笑を浮かべて、そう呟いた。
というのも、勇一と岳はバッテリーを組んでいて。勇一は嫌でもその光景を、間近で見ざるをえなかったのだった。これまた嫌でも鮮明に覚えている。
見た限りでは、一軍ナインにいた先輩どころか二軍ナインの先輩まで、岳の元に近づいては叩いていた。頭も肩も、そして背中も。平手でグーで、叩いていた。時に髪をぐしゃぐしゃと撫で回していて。痛い痛いと岳は叫んでいた。痛いッスよ先輩。ちょっとは手加減して下さいって――。
さすがの岳も困惑していて。ホームベース後方にいる勇一へと、秘かに視線のみで助けを求めていたのだ。俺を助けろと。それは直球よろしく、着実に勇一の元まで届いたのだ――が、勇一はあえてスルーしてしまったのだった。
……いや、違う。『遠くから見守る』ことを心に決めたのだ。
勇一は岳からの痛い視線を感じながらも、すくっと立ち上がるとミットを取ってそのまま立ち去ろうとして、
「オイ、コラ。待て勇一!!」
岳は勿論、黙ってはいなかった。このままじゃ鰹ならぬ『岳のたたき』にされちまう!
身を乗り出す勢いで、岳は勇一を止めようとした。が、叩くのに夢中だった先輩がそれに気付き、逆に岳は押しつぶされる勢いで身を乗り出されてしまったのだ。さっきまで活躍をしていた者への扱いでは、最早ない。
ギャッと微妙な悲鳴が、先輩たちの中心で聞こえた。先輩たちは真顔で聞こえないフリをした。
「なー、竹原ァ。お前んトコの旦那が助けを求めているぞー」
「いいのかねぇー。亭主関白じゃないのー、お宅?」
先輩たちはそれはそれは楽しそうに、岳を押しつぶしながら勇一を見ていて。その表情からして、今後の展開を心待ちにしていることは明白だ。
勇一はマウンド上の人山を見つめて、それから青い空を見つめて。
「すいません。うちはカカァ天下なんで」
サイン送らないとボール、投げませんしね。と言い残すと、勇一はグラウンドの端へと消えていった。数秒の後に悲しい投手の役割を理解した先輩は、カカァ天下だと爆笑していて。
遠く勇一に見守られながら岳が叩かれ続けたのは、言うまでもなく……。
岳は半眼で恨めしそうに、勇一を見つめた。
さっきのことを根に持っているのは、もう変えようのない事実で。
「手荒いで済ませられるか、コノヤロウ」
「落ち着けって、な?」
「落ち着けるかよ、コノヤロウ」
大体アレは、手荒いどころの問題じゃない。手荒い歓迎くらいだったら、何でこんなに身体のいたる所が痛くなるんだ? 手加減も容赦もないだろう、絶対。
チクショウ。こんなことになるんなら、監督の「本気でやれ」なんていう指示になんか、従わなきゃよかった。だって、ほれ見ろ。完全試合なんかしたらさあ、このざまだよ? 全身ありえないくらい痛いよ?
ぶつくさと念仏のように呟きまくっていた岳の声は、空しくも都会の空へと消え入ってゆく。途中、幾人もの人にすれ違いざま、不審なものを見る目を向けられた。
勇一的にはこういう時ほど居心地が悪くなるのだが、生憎岳にやめろと言っても無駄なのは、百も承知。どこまでもイン・ザ・マイワールドでゴーイング・マイウェイなのだ、岳は。
「なァ、勇一。痣になってねえか? この辺」
そう言うと、岳は肩の辺りを指差した。が、見えるのは当たり前のごとくグレーの学ランオンリー。超能力でもなけりゃ、素肌が見えるわけもない。
「あー、大丈夫だよ大丈夫。万が一に痣ができていたとしても、死にゃあしないって」
「何だよそれ。それじゃあまるで、俺がバケモノみたいな言い草じゃん」
並んで歩く勇一を、岳は切れ長の目で睨みつける。と、今度は本当に笑いながら、
「まーな。お前はバケモン投手だよ。捕手の太鼓判つきのね」
「なんじゃそりゃ」
ほんと、わけが解らない。
岳は悪戯っぽく笑いながら、勇一の脇腹を肘で小突いた。痛いとか悪かったとか勇一は言っているが、いっそこの際気にシナイ。それどころかグレードアップしてしまいたい気分だ。岳は聞こえないふりをして、勇一を小突き続ける。
すれ違ったオバサマが、微笑ましそうに二人を見て、笑っていた。
あー……。また兄弟と見間違えられたな、こりゃ。
よくあることとはいえ、不愉快なのは否めない。
風が一つ吹いた。前髪が目にかかってうっとおしい。
「最っ悪」
岳は呟きながら前髪を掻き上げると、八つ当たり気味にさっきよりも強く勇一を小突いた。
――許せ勇一。
車道は赤いラインが途切れることなく続いている。
学校にいた時とはまったく違う、排ガスにまみれた風が忙しなく駆け抜けていき。
高層ビルとの間では、その存在を主張しあうかのように甲高く、時に低い声をあげながら風は吹き抜けていった。
車と同じように赤い光を点している信号を前に、二人は立ち止まった。
色はついさっき変わったばかりのようで、しばらくは待たされそうだ。
勇一を小突くのをやめてから、バカみたいな日常会話もぷっつりとやむ。
親と同年代くらいのスーツに身を纏ったオジサンやデパートの紙袋を提げたオバサン。二人のような部活帰りの高校生など、多くの人が信号を待って、密集している。
その中で岳と勇一は、少しは息苦しくない車道側にいた。
それでもタバコや香水やポマードの混ざり合った、何とも形容しがたいにおいは、容赦なく襲いかかってくる。これはもう、無視するしかなかった。
走り去る車は、高速道路と間違っているんじゃないかってくらいのスピードで、集団の横を通り抜けていく。
ビュンと一台が通るたびに、長めの髪が眼前へと現れては力なく戻っていった。
それを何回繰り返しただろう。
視界の端で、隣の歩行者信号が赤くなった。
自動車用の信号も続けとばかりに色を変えていく。
数秒の後、こちら側の信号が一斉に青に変わった。
知っている奴なんかそうそういやしないのに、気持ち悪いほどぴったりと息を合わせ、集団はわさわさと歩き出す。
アスファルトに描かれた白線は、一歩一歩確実に、飲み込まれていく。
…………はずだった。
皆が足を踏み出した瞬間、空気を割くようなクラクションの音が、あがった。
驚いた彼らは、踏み出したその足をビクリと止める。
クラクションは今もなお、響き続けていた。
わけが解らない。
一体何があったんだ? と岳は勇一の顔を見ようとして、
――何故か右半身に衝撃があった。
多分一瞬の出来事だったはずだ。
なのに、そこにいた多くの人々の、多くの恐怖に歪んだ顔が。
岳の視界いっぱいに、一気に飛び込んできたのだ。
――え、何?
その後は何も解らなかった。
一瞬の間に、多くのことが起こりすぎたんだ。
岳の足は地面から離れた。
同時に脇腹にあった衝撃はありえないくらいの熱を帯びて、呼吸ができなくなる。
肺から一気に空気が奪われていった。
熱は激痛に変わって、岳に襲いかかってきた。
激痛はじわじわと、岳の身体を蝕んでいく。
声に出すことのできない悲鳴が、頭の中を駆け巡った。
咽喉の奥から、熱いものが込み上げてくる。
――血?
ギュッと目を瞑る直前、誰かがアスファルトに倒れるのが見えて――
建ち並ぶビルの間で、悲鳴が反響した。
ざわめく集団は倒れている二人を遠巻きに見ている。
赤い海が広がり続ける中、彼らは身動き一つしない。
無残に散らばった部活の道具が、だからこそ非日常的だった。




