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一章 日常との交差点

 この春めでたく、上岡かみおかたけるは高校生の仲間入りをした。

 制服はグレーの学ランで、それほど回数を重ねていないためか、糊がきいてぴんとしていた。着こなしだって、先輩たちと比べれば初々しさも然ることながら、ただその存在だけでも新一年生だと一目瞭然である。

 例えば校則に沿った制服のきっちり具合だとか。

 例えば持ち慣れてないケータイ電話だとか。

 例えばその顔に浮かぶ不安と期待の色合いだとか。

「んじゃ、部活に行ってくるから」

 入学してから最初の日曜日。

 期待に胸を躍らせながら、岳は外へと飛び出していった。


    1


 岳には秘密と言えるものがあった。

 みんなも持っているような小さいものは、いっぱいいっぱいある。

 けど、本当はどれもこれも、秘密か解らないようなどうでもいいこと。

 ただその中でも、大きなものはふたっつあった。

 一つは将来の夢が明確に決まったこと。

 もう一つは、岳にメル友ができたということだ。



 入学式を数日後に控えた、ある日のことだった。

 その日は特に何があったというわけでもない。

 マンションの隣部屋に住んでいる、幼馴染で従兄弟の竹原たけはら勇一ゆういちと、いつもみたいにふざけ半分に話をして。その後はぼんやりと外を見てみたり、はたまた寝てみたり。

 いつもと何一つとして変わらない。そんな日だったんだ。あの時までは。

 天高くに昇る太陽が、光を存分に地上へと降り注いでいて。代わり映えも何もない、穏やかな昼下がりだった。

 遊び疲れたためか睡魔に襲われた岳は、これぞ春休みの特権だと言わんばかりに、青い空が広がる下、ぐっすりと眠りについていた。

 だがそんな岳の安眠も、カタカタと聞こえるバイブ音に破られてしまったのだった。

 小さな呻き声が、岳の口から漏れる。

 起きた時には、空の色は水色から茜へと、すっかり変わってしまっていた。

 相も変わらずに五月蝿い、外界の喧騒。

 眠気眼をこすりながら机の上を見やれば、ケータイがメール受信のランプをのんきにぺかぺかと放っていた。

 誰が俺に何用だ? と睡眠を邪魔されてか。いつもはメールが届くだけでも嬉しいはずなのに、岳は渋々とメールを確認しようとして。

 しかし届いたメールは、岳の知っている誰からでもなかったのだ。多分。

 というのも、送信者名がまったく解らないからだ。

 無題のタイトル、知らないメールアドレス。

 一体、誰からなんだよ……。

 眉間に深い皺を刻ませながら、岳はケータイとにらめっこをして。慣れない手つきで本文を開いた。

 …………と、


『あなたには、大切なものがありますか?』


 そこにはたったの一文しか、書いてなかったのだ。

 岳の眠気もすっかり覚めてしまい、その目は再びケータイの画面へと釘付けになっていた。

 いきなりなんだよ……。

 というのが岳が送信者に持った、正直な第一印象だった。

 まさか間違いメール? と疑ってみたものの、岳のメールアドレスを登録している人でない限り、間違えようもないだろうし。それに誰かが教えたのだとしても、名前を書き忘れるなんてことはなかろう。しかも投げかけが『あなた』だし。

 でも確かにここには誰宛てかも解らない、無名のメールが一通届いているわけであって。少なくともそれは事実であるのだ。

 しばらく岳は、バカみたいにケータイの画面とにらめっこをし続けていた。

 勿論、状況が変わるわけでもなければ、相手の名前が解るわけでもない。変わっていくのは時間だけなんだ。……知っている。

 無情にも過ぎ去る時間の中。

 眉間の皺は、深くなる一方で。

 岳は生唾を一つ飲み込むと、おもむろにボタンを押し始めたのだった。


『俺には大切なものはあるよ。

 ……ところで君は、何で俺なんかにメールを送ったの?

 もしかして間違えていたとか?』


 そこまで打ち込むと、岳の指は止まった。

 何を律儀に返そうとしているのだろうと、今更ながら気付いたのだ。

 別に知らない人からのだったら、返さなくてもいいに決まっている。いや、むしろ返さないほうが、今のご時勢では安心だ。

 それを知っているのに、何でわざわざ……?

 律儀だといえば律儀だが、馬鹿といえばこれ以上ない馬鹿なわけで。

 窓からは力をなくした陽光が射し込んでくる。

 夕刻の暗い部屋の中で、ケータイの画面だけが浩々とした光を放っていた。

 岳の顔は、発する白光に照らされている。外で何か、音が聞こえた。

 ……どうしよう。

「ゴルァ、岳! 引きこもってないで、さっさと出て来いやぁぁぁぁぁ!」

 突如、鼓膜がはち切れんばかりの怒声が室内に響いた。

 するとバンッ! と、突拍子もなく扉が開け放たれたのだ。

 ヒッ、と小さく悲鳴を漏らした岳は、背後に迫るただならぬ空気に怖気を覚え、機械的に首を後ろに回した。するとそこには姉である雪乃ゆきのが、どす黒いオーラをぶちまけながら仁王立ちしているではないか。岳は思わず、もう一度引き攣った悲鳴を漏らしてしまった。手の中でケータイが踊った。

 どこの家でも大抵はそうなのだろうが、長子で長女という者は、すごいのだ。いくら美人だろうが何だろうが、やることはいたって大胆不敵。ぶっちゃけ弟なんて、泣かせてなんぼなのだ。

 勿論上岡家も例外ではない。もれなくついてくる最悪パターンの典型で。

「夕食当番サボって、ただで済むと思っているのか? テメェ」

 とか言いつつも、ちゃっかり雪乃は殴りかかる寸前。

 言っていることとやっていることが、既にかみ合っていない。

 腰の抜けかけた岳は、ゴキブリかと見間違うほどの速さで、フローリングの床を手足をバタつかせながら後退っていった。

 そういうのは、脅しで使う言葉だろう!!

「それとも。……一生引きこもりを体験させてやろうか、オイ」

「い、いいえ。滅相もございません!」

 半泣き状態で、岳は首が飛んでいくんじゃ……。というくらいに、今度はぶんぶんと首を振りたくった。

 しかしそこで許してもらえないのが、世の中のいい所。

 意外に神様も薄情者なのだ。

「男ならやるって言ったものくらい、受け取っとけよ!」

 どこまでも冷酷女だ、こんちくしょう。

 新体操部で日々鍛え上げられている雪乃の鉄拳が、岳の顔面目掛けて繰り出されたのだ。

(……っていうか、引きこもりじゃねぇのかよ!!)

 話がチガウじゃん! と、岳は半ば自棄になって首を引っ込めた。

 あの世に引きこもりはしたくないッ!!

 ――――と。

 ドゴン――!!

「…………チッ」

 超絶破壊音が、岳の頭上すぐの所で聞こえてきたのだ。

 喰らっていたら、……絶対に今、この瞬間を生きちゃいない。

 だが、それよりもだ。

(あ、あんの姉貴。マジで殺意満々じゃん!)

 首を引っ込めていなかったら、確実に御陀仏だね。三途の川の向こうで、誰かが出迎えてくれたこと請け合い。

 最後に聞こえた舌打ちが、最期にならなくってよかったよ、マジで。

「受けとれっつっただろうが、岳!」

 血の気の引けた岳とは正反対に、何でそんなに穏やかな笑みを浮かべられるんだよ。とか言いたくなってしまう天使の微笑を、雪乃はその顔に浮かべていた。口調とまったく合っていないのが、本当に恐ろしいわコノヤロウ。

「何避けてんだよ!」

「避けるんに決まっているだろう! 危うく選手生命どころか、命の灯火自体が消えかかったわい!」

「お前の命の灯火が消えたところで、世界は何一つ変わらねえから安心しとけ」

「だばらっしゃい!」

 こいつは悪魔だ。天使の面を被った悪魔だ!

 ちょっと涙が零れちゃった瞳で雪乃を睨みつけながら、岳は精一杯の反抗をしてみせた。

 だが当たり前のごとく、それは通用しない。

 たった二歳の差で、何でこんなにも上下関係が変わってきちゃうのだろうか……。

 学生時代と親族関係での年の差が大きいとは、まさにこのことかもしれない。

 そう考えると遅れて生まれてきたのが、なんかちょっと悲しいぞ。

 誰をも寄せ付けないどす黒オーラを、さらに放出し続けながら迫り来る雪乃を前に、岳は本気でそんなことを考えてしまった。

 やっぱり前言撤回します。神様助けて下サイ。

「ほほーう」と言いながら、雪乃は迫ってくる。

 再び繰り出すのか、指の関節をバキバキと鳴らしていた。

 どこぞのヤクザも、軽くびびるような狂気的な笑顔は、やっぱり満面だ。

 岳が後退る中、ケータイ電話がコトンと落ちた。

 雪乃は岳を前にして立ち止まった。

(殴られる――!!)

 思わずギュッと目を瞑って、岳は大して意味がないだろうが顔面を腕で覆った。

 しかし雪乃の興味は可哀想なことに、既に岳には向いていなかったのだ。

 ひょいと軽快にしゃがむと、雪乃は岳の落したケータイを手に取っていたりする。

 放たれている白光が、雪乃の顔を照らした。

「なーんだ。ケータイの使い方が解らないなら、最初っからそう言いなさいよ」

 だがいまいち状況の掴めていない岳は、腕の間から恐る恐る雪乃を覗き見ていた。

「メールはねぇ。ここ押して送っときゃいいの」

 ホラこれね。とか言いながら、雪乃は岳の前にケータイを掲げて、ピッピとボタンを押していく。

 あまりにも態度がコロリと変わった雪乃に、岳は毎度ながら呆けてしまった。

 それでも視線は、ケータイを弄くる雪乃の手元に釘付けで。

 あー、やっぱり使い慣れてるな。姉貴。

 ……なーんて感心しているのも束の間。岳は何か忘れていると、ふと思い出したのだ。

 あれって、送っていいのか?

「な……っ! ま、ちょっと待って!」

 頭の中は既に真っ白だ。

 ヤヴァイ。とんでもない人宛てだったら俺、また命の灯火消されかけるの!?

「は?」

 だが時既に遅し。

 無情にも突き出された画面には『メール送信中』の文字が、画像と共に映し出されていたのだった。

「…………」

 嘲笑っているのかそうでないのか。そんなことは知らない。

 ただ『メール送信中』という文字と共に踊っている、あの奇妙なキャラクターたちが、どうにもこうにも腹立たしくて。だからといって何かをすることさえもできやしなくって。怒りの捌け口がやっぱり解らなくって……。

 バカみたいにあんぐりと口を開けた岳は、はらわたが煮えくり返るのと途端に冷めていくという、あまりにも貴重な体験をしてしまうのだった。

 どうしよう……。という言葉が別の意味で、再度岳の脳内を埋め尽くした。

 画面には白光と共に『送信完了』の文字が、映っていた。



 再びケータイが揺れたのは、それから数分後のことだった。

 岳は雪乃に脅されるがままにキッチンへと向かい、逆らえないのは承知済みなので、一切の抵抗もせず、夕飯の支度を始めていた。

 トントンと心地いいリズムをたてながら、岳は野菜を一口大に切っている。と、リビングにあるテーブルの上で、カタカタと何かが揺れる音がシンクロしてきたのだった。

(誰からだろう……?)

 振り返ればケータイの着信ランプは、またもやぺかぺかとのんきに光を放っている。

 岳はその手をいったん休めるとズボンで手を拭い。半ば予想立てをしながらも、のそのそとテーブルまで歩んでいった。ランプはまだ、光を放っている。岳はケータイに手を伸ばすと、眉間に皺を寄せつつ、途中何度か失敗をしながらもメール画面を開いた。メールアドレスは先ほどのものと同じようだが、今度はタイトルに『お返事ありがとうございます』と、書いてあった。


『すいません。でも、間違いじゃありません。

 風船に手紙をつけて飛ばすのとかありますよね?

 あんな感じで、適当にメールアドレスを打ち込んで送ったので……。

 いきなりのメールに驚かれたかもしれません。

 けど、返信して下さってありがとうございました。

 あなたには大切なものがあるんですね。

 やっぱりいいですよね、大切なものって。

 あるだけで力が漲りますよね。

 実は私にもあるんです。大切なもの』


 文面からは、その人のほのぼのとした温かさが感じられる。

 それに見た感じからして、どうも異性っぽい。

 どうやら考えていたような人とは、一八〇度違ったようだ。

 どうしてだろう。

 初めてなのに、会ったことさえないのに。自然と親近感が湧いてきた。

 口元には柔らかな微笑が浮かんでいる。

 岳は慣れない手つきでボタンを押し始めた。

 この向こう側にいる人と、もう少し近づいてみたい――


『そうだね。大切なものって、あると意外に心が落ち着くし。

 あって損することはないもんね。きっと。

 ……あ。そういえば君の名前、聞いてなかったよね。

 ごめん、こういうことにはめっぽう疎くって。俺……。

 ちなみに俺の名前は岳だよ。君の名前は?』


 ボタンを押す指は、自然と軽かった。

 さっきまでの不安なんて、まるで嘘のようで。心から軽くって。

 岳はすぐに打ち終えると、今度は何の躊躇いもなくメールを送った。

 さっきは腹立たしく思ったあのキャラクターたちも、今はちょっとだけ可愛く見える。

 ――早く、返事が来ないだろうか?

 手の中にすっぽりと納まるケータイを、岳はいとおしげに見つめた。

 メールの送信を終え、ゆっくりとケータイをズボンのポケットに入れると、岳は腕捲りをしながら再びキッチンへと引き返していった。

 早く作らないと、また殴られかねないからね。



 彼女からの返事は、すぐに届いた。

 名前はユリ。

 同い年の女の子。

 同じく東京都心部在住。

 これほどまで上手い繋がりがあるだなんて、岳には想像さえしなかったことだった。

 でも、確かにこれは事実であって、偽りじゃない。

 どれだけ上手い話だろうと、岳はユリという女の子と、確かな繋がりを得ていたのだ。

 そして今も、繋がっている。

 ちっぽけな文明の利器が、二人の存在を繋いでいたんだ。

 それは入学式を控えた、ある日のこと……。



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