七章 (4)
俯き、それでも強く袖を掴む柚莉の手は、小刻みに震えていた。
色の白い手は見目でも解るほどに、余計に白くなっている。
こんなに近くにいるのに、表情さえ解らなかったけれど。柚莉は袖をぎゅっと強く、その袖を握っていてくれて。
岳の考えは、寸分も変わらなかった。
今まさにやろうとしていることは、きっと死神の掟破りなことなのだろう。
でもそんなことなど、どうだっていい。掟を破ろうが何をしようが、岳は柚莉を助けたかった。守りたかった。たとえ拓也のようになろうとも。
だから岳は柚莉の手を、掴まれているとは反対の手で、そっと包み込んだ。その小さな手は夜の空気に曝されて、冷たくなっている。
罪の意識が、チクリと痛みを発した。
顔を上げた柚莉は、信じられないものを見るような視線を、岳に向けていて。その瞳は微かに涙ぐんでいて。
月明かりに一つ輝くと、雫は流れ星のように頬を伝っていった。
か弱い嗚咽が空気を揺らす。
するとローブの袖を掴む柚莉の手から、しだいに力が抜け落ちていった。袖は徐々に徐々にと柚莉の手から開放されていって……。
滑り落ちる指先。するりと柚莉は、それを手放した。そして岳の手が支えをなくした柚莉の手を掴み、支えていた。
岳の首に下がっていた鎖が、しゃらんと澄んだ大きな音をたてる。
柚莉の小さな手はローブを放してもなお震えたままだった。
「……柚莉…………」
岳は柚莉の双眸を覗き込んだ。……と。
柚莉の瞳には何かが宿ったように、確かに思えて。
降り続ける沈黙は雪のよう。
しんしんと音を消し、山のように降り積もって。――きっかけがなければ、それが溶けることはない。
二つの影は、決して動く気配を見せず。
互いを見合うが、一切の不穏も持ちえていない。
雪降らす暗雲はどこか彼方へと消え。
誰とも知らぬ鼓動が、一つ脈打った。
きっかけは――生じた。
「あのね、本当に嬉しかったんだよ。岳くんがその……『好き』って、言ってくれて」
柚莉は頬を染めて言いながらも、その視線は決して逸らされることなく。前にある岳の瞳を、ずっと見ていた。
「えっ……」
とんでもない告白に岳も柚莉から目が離せなくなった。
今、なんて?
頬に紅を浮かべながら、岳は困惑を見え隠れさせた。
響く声は戸惑ってもなお、どこか甘く。
「私だけかと、思ってたんだ。……友達を好きになっちゃったの、私だけかと」
照らす月明かりが、発した気持ちが。全て柚莉の瞳に入り混じっていて。
岳はそれを、言葉なしに見つめていた。
「普通じゃないよねって、変だよねって。ずっとずっと思っていたの。このまま幸せでいたかったから、絶対に言っちゃいけないって。そう思ってたの。なのに――」
柚莉の言葉は音となり、空気を揺らしては岳の元へと届けられた。
少し俯いた柚莉はどこか悲しげに微笑んでいて。
風が外を通り抜け、窓が僅かに揺れている。
開け放たれた白いカーテンも、今や夜闇のダークブルーに染め上げられていた。
岳の手を、柚莉は震える手で最大限の力をもって、握り返してくる。
そして柚莉の影が、少し動いて。
「でも、両想いだったんだね」
そう言うと、柚莉は今までの悲しさなんてなかったと言わんばかりに、その顔をおもいきりほころばせたのだ。
それはまるで、荒野に咲く一輪花のようで……。
「私も岳くんのこと、好きだよ」
ふられると思っていた。拒絶されると思っていた。
なのに柚莉が言ったのは、まったく違う言葉だった。
闇が明るく照らされる。
彼女が言ってくれた、魔法の言葉。
心臓の辺りが溶けるように温かくって、温かくって。
耳は未だに心地良い。
『両想いだったんだね』
岳は堪らずに、微笑み返していた。
ああ、そうだよ。本当は二人して同じ気持ちを抱いていたんだ。
岳は怖くて怖くて。恋しているというこの気持ちと、向き合えなかっただけなんだ。
きっと言ったら変だとか、そんな気持ちを抱くのはおかしいとか。柚莉と同じで、そんなことを思って。
だから岳はそれを心の中に押し込めた。告白なんて大層なことなどできないからと、気付かないふりをしていただけなんだろう。きっと。
けれど今、その想いは二人をつなぐ架け橋となったのだ。初めて解ったと、そう思っていたこの気持ちはどんなものでも壊せない繋がりを得て。
岳は思わず柚莉の手から己の手を放して。
……そしてその両手で、柚莉をギュッと抱き寄せていた。
柚莉は少し驚いたようで。でもそれは、最初だけで。
二人は互いの存在を確かめあうようにしばらく動くこともなく、ギュッと大切なものを感じあっていた。
静寂が二人を祝福する。
腕の中で、柚莉は確かに温かかった。
小さくても細くても。それでも柚莉は温かくて。
――互いの鼓動は、同時にトクンと音をたてた。
二人は確かに、この瞬間を生きているのだ。共に歩んでいるのだ。
「柚莉、ごめんな」
岳は小さく謝った。
気持ちと向き合えなかったことを、隠していたことを。
抱きしめる腕に、言葉を込めて。
柚莉はおどおどしながらも、岳の背にそっと両腕を回した。
その動作は初々しすぎて。でも――今の二人にはぴったりすぎるほど、似合っていた。
そして、いいよと言ってもらえたような、そんな気もした。
「俺、本当に柚莉のこと大好きだから」
「うん」
「誰よりも愛してるから」
「うん」
「絶対、助けてやるから」
「うん」
言葉になんてしちゃいけない。
想う気持ちよりも陳腐になってしまう。
……解っていても、岳は柚莉に想いを伝え続けた。
そのたびに柚莉は頷いてくれて。
笑顔が信じてくれている、何よりの証だった。
星が一層の輝きを求め、天に瞬く。
そして――……
時間も空気も。
この世の全てが、動きを止めた。
今まで以上に互いを感じていて。
触れ合った唇は、微かに震えていて。
それが二人の緊張をさらに煽っていて……。
けれど心臓だけは、いつも以上に鼓動を早く打っていた。
二人はきゅっと、その腕に力を込めた。
それはひどく、ぎこちなくて恥ずかしいキスだった。
でも、
『好きだから』
その言葉を、しかと伝えられたはず。
外で星の輝きが増した。
二人は互いの唇を離した。
ぎこちないキスの後に残ったのは、嬉しい緊張で。
岳は柚莉を直視できないから。
さらに柚莉を抱き寄せ、トンと柚莉の肩に額をつけた。
未だに二人の鼓動は全速力で。
柚莉もトンと、岳の胸に額を当てた。
二人はずっと、緊張しっぱなしだった。
どれほどの時間が過ぎたのかなんて、そんなことは解らなかった。
ただ長い間、二人はこうして抱き合っていた。
互いの髪が入り乱れるのも構わずに。
ずっと、ずっと――
拓也はそれを、終始見ていた。
しかしそこに浮かぶのは、気恥ずかしさなどではない。
せめて今は、このままで……。
そう言いたげな沈痛な面持ちで、二人を見守り続けていた。
だがそれも、じきに消え去るのだろう。
全てに永遠がないのと同じように、この状況にも永遠などはありえないのだ。
それは物事の道理であり、同時に必然でもある。
だから、今だけは……。
拓也の視線のその先で。
二人の愛の契りは、消えかけようとしていた。
星の瞬きが位置をずらしかけた頃。
互いの緊張は、徐々にだが薄れ始めてきた。
岳は僅かに額を離すと、いとおしい柚莉に視線を向けて。
自らの胸に額を当てている彼女を見て、やっぱり少し緊張した。
頬が少し、熱くなる。
その顔に微笑みを浮かべながら、視線を落そうとして。
――小さな変化に、岳は目を見張った。
「な……ッ」
顔面は最早、蒼白も同然。
見れば柚莉の身体が、淡い光を纏っているではないか!
岳の心は幸せから、一気に暗闇へと突き落とされたのだった。
何で、こんなことに……?
岳は混乱し焦った。
そして、
『お前の担当者は――泉川柚莉だ』
拓也から言われた言葉が、脳裏をよぎる。
まさか――ッ!!
だが岳はそれに対し、強く横に首を振った。
そんなことあるわけないと。
そんなことがあってたまるか、と……。
しかしそんな岳の期待とは相反して、その光はさらなる明るさを帯びていて。
と。柚莉の身体から淡く、そして雪のように柔らかで丸い光が、ふわりふわりと浮き出てきたのだった。
すると途端に、柚莉の身体からは、全ての力が抜け落ちてしまう。
岳は柚莉の身体を、両手でしかと抱きかかえた。
その間にも、光はさらに上へと浮いていく。まるで、白い羽のように。
病室の蒼闇は、淡い白光に飲み込まれていく。
岳はその根源を目で追った。
これが、人間の魂魄なのか――?
実感なんて、そんなもの湧かなかった。
今まで見たこともない神秘的な光景に、目は釘付けで。
ただ、これを引き止めなければ柚莉が帰ってこないような気がした。
直感だったかもしれない。でもそんな気がしてならなくて。
岳は柚莉の身体を抱えながら、必死になって片手を伸ばした。
指の先まで、神経を張り詰めて。
あと少しをとどかせたくて。
……だが、魂魄はことごとく、岳の指の間をすり抜けていってしまう。
とどきそうで、ちっとも触れることさえできなくて。
(ダメだ! そうじゃないと柚莉は――!!)
指先が、震えている。
焦れば焦るほどに、魂魄は岳の指から遠ざかっていった。
どんなに足掻いても決して掴み取れなくって。
掠ることさえ、できなくって。
震える足。
浮き上がった踵。
耳の横にある手は天を向き。
岳はぐっと、その手を伸ばした。
(とどけ――ッ!!)
淡い光は闇を照らす。
浮き泳ぐ魂魄は、岳の手のすぐ近くにあった。
――いける! 絶対に。
ぎゅっと瞼を閉じ、全身の力を振り絞って。
岳はその手を握った。
そして。
――岳の手は、空を掻いた。
魂魄はするりと、岳の手中を逃れていたのだ。
室内はより鮮明に照らされ続ける。
ふわりふわりと魂魄は、さらに上へと目指していって。
……天井にぶつかる寸前で、儚くも霧散した。
風に吹かれ、消えていく砂のように。
さらさらと。
さらさらと。
その光を散らしていって。
蒼く淡い光が、闇に消えていく。
全てが消えるその前に。
『ありがとう』
と、柚莉の声が聞こえたような気がした。
岳はその場に立ち尽くした。
空っぽになった柚莉を、その腕に抱きながら。
主のいなくなった、この部屋で。
「柚莉ィィィィィィィ―――――――――!!」
何でもっと早く、想いに気付けなかったんだろう。
何でもっと早く、告白できなかったんだろう。
結局、何一つ柚莉にしてあげられなくって。
約束だって、守ってやれなくって。
何で……。
岳はその場に、膝から崩れ落ちた。
柚莉の残された身体と、共に。
闇は今、全てを飲み込んだ。
膝は鈍い痛みを発し、それを岳に伝えてくる。
近づく足音。
拓也が岳の肩に、そっと手を乗せた。
その手は痛いほどに温かくって。
「歌ってあげよう。柚莉ちゃんのために」
胸はこれ以上苦しくなることはないのだろう。
最大級の悲しみが罪悪感が、岳の心に押し寄せてきている。
息の仕方なんて忘れてしまうほどに。
涙の止め方が解らなくなるほどに。
岳は柚莉の身体をぎゅっと抱きしめた。
その身体はもう生きていないのに、まだ温かくて。
大きな嗚咽が、一つ漏れる。
岳は天を仰いだ。
……そして、
美しい歌声が、夜闇を揺らした。
悲しい死神の、一つの詩が。
今ここに。
――ごめん、柚莉――
ごめんね。守ってあげられなくって、本当に、ごめんね。
一番好きになっちゃって、本当に、ごめんね……
涙がぽつりと、柚莉の頬に落ちた。
それは透明な筋を引いていって――まるで柚莉が、泣いているかのようだった。
歌声はやむことなく、夜の世界を震わせる。
岳の頬に、涙が伝った。




