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七章 (3)


「……や、だ…………」

 青ざめた唇が、微かに動いた。

 大きく見開かれた目は正面を向いたまま。

 震える声が、空気を揺らした。

「殺す、って……。何で、だよ……」

 蘇るは、楽しかったあの日々。

 幸せだった、あの時間。

「俺が柚莉ゆりを、殺すって……。そんなこと、できるわけ……」

 風が流れ、ひゅうと甲高い音が耳元で聞こえる。

「……たける

 伸ばされた手。

「だってそうだろ。何で、何で……ッ!」

 荒くなる口調。

 脳裏に浮かぶは、彼女の笑顔。

 鎖がしゃらんと音をあげる。

 握る拳には一層の力が入った。

「……何で、好きな子を殺さなきゃいけないんだよッ!!」

 瞬間、岳はハッとした。

 突発的だったけど。

 言って、初めて解った。

 そう。岳は柚莉のことが好きだったのだ。

 あの楽しさも、奇妙な気分も。

 全部が全部――柚莉への想いそのものだったのだ。

 今更気付いても遅いかもしれない。

 けど岳は柚莉のことが、確かに好きだったのだ。愛していたのだ。

「俺は……俺は柚莉のことが好きなんだよ。初めて好きになった子だったんだよ! それなのに、何で柚莉を殺さなきゃいけないんだ!」

 岳の言葉は、夜闇に響いた。

 拓也たくやは岳を見て、酷く痛む胸をギュッと押さえて。

「それとも何だ! 俺が堕天使だったからなのかよ!? 俺が前世で悪事働いて。だから柚莉を殺さなきゃいけないのかッ?」

 それは悲痛な叫びだった。

 今にも岳の身体は崩れ落ちそうで。

「柚莉の命使って、罪を償えって言うのかよ……」

 寂しさに満ちる病室の中、岳は己の運命を呪い、慨嘆した。

「ああ、そうだよ。お前は一番大切な人の命を奪って、その苦しみを知らなきゃいけないんだよ」

 しかし拓也から告げられたのは、否定の言葉などではなかった。

 胸を押さえている拓也の手は、荒いだ声と共に震えていて。

「お前は前世とはいえ、多くの命を奪ったんだよ。いろんな人の大切な命、いっぱいいっぱい奪ったんだよ。解るか? それが何を生んだのか。残された人たちが何を感じたのか。お前には解るかって言ってんだよ、岳ッ!!」

 最後のほうはもう、ほとんど叫びに近かった。張り上げた声量は院内で木霊し、それはまるで全ての不安をさらけ出したかのようで……。

 拓也の黒髪から覗く双眸は、憤りと悲しみとで揺れていた。

「解らねぇよ。んなこと解るわけねぇだろッ!!」

 岳もまた、その声を荒くした。

 それもそのはずだ。岳は未だかつて、誰の死とも直面したことがないのだ。勿論一人取り残されたことさえもない。

 それなのにそんな途方もないことが、解るはずもなかった。

 ……だが何よりも解らないのは、拓也の言動そのものだった。柚莉を殺せって言って、最終的には勝手にキレて。何を考えているんだ、拓也は。

 岳はギッと奥歯を噛み締めた。

「ああ、そうだろうな。お前に解るわけねぇよな」

 拓也は岳の言葉に、まったくの否もせず頷いた。

 まるで、嘲るかのごとき調子で淡々と。

「大切な人を失った悲しみが、お前なんかに解るわけがねぇんだよ」

「――ッ、ふざけんなッ!!」

 すると突然、ドンッ。と鈍い音が空気を震わせた。

 見れば岳は拓也の胸倉を掴み、……そして乱暴に拓也の身体を固い壁に押し当てている。

 く……ッと拓也は、小さく息を漏らした。

「ああそうだよ。俺は大切な人なんて失ったこともないし、そんな悲しみだって全然知らねぇよ! お前の言っていることは何一つ間違っちゃいない。けど、お前に一体何か解るって言うんだ! お前だって、本当は何も解らねぇくせに」

 瞳孔を開き気味に、岳は拓也に食って掛かった。

 全てを失いたくなかったから。柚莉を助けたかったから。……そういえば、聞こえはいいのかもしれない。が、本当のところ、岳は柚莉と離れたくなかったのだ。これまでの時間を壊したくはなかったのだ。そう、ただそれだけ。

 汚い奴だと蔑まされてもかまわない。けれどこの大切な人を殺めたくなんてないんだ。

 そして、そんな二人を知らない拓也に、この気持ちが解ってたまるかと思って。

「……解ってるよ」

 しかし拓也は、あっさりと首を縦に振っている。

 どこまでも落ち着いた――そして悲しそうな声色が、耳元で囁いた。

「うそ言ってんじゃ、ねぇよ」

 詰まる声を吐き出し、解るわけがないと岳はかぶりを振った。

 そんなことがあるわけないと強く心に言い聞かせた。ただ躍起になって。

「俺には解る」

 けれど拓也のまっすぐな視線が、岳を捕らえた。

 岳はたじろぎ、そして咄嗟に口を開く。

「うそだッ。お前にこそ解るわけ――」

「うそじゃねぇよ。お前こそ俺のこと何も知らねぇで、んな解りきったようなこと言うなよッ!!」

 すると突如拓也は岳の言葉を遮り、怒鳴りつけてきたのだ。

 憤激したらもう、止まるはずもない。

 拓也は岳の身体をおもいっきり突き飛ばしていた。

 あまりにもことが早すぎて、岳の頭は何も考えられなくなっていた。

「俺だって本当は人間だったんだよ。家族がいて友達がいた、普通の人間だったんだよッ!それなのに死神だなんだって言われて、勝手に死神にされて……大切な家族を殺せって言われて。禁忌犯して守ったら、大切なもの全部失ったんだよ! 家族も友達も、それどころか俺は人間でさえなくなってたんだ。俺がいたっていう証も記憶も、もう何も残っちゃいないんだ!!」

 俯きながら、拓也は一気に言葉を吐き出していった。

 悲しみに溢れた拓也の声が、直接心に突き刺さってくる。

 開いた微妙な距離。

 岳は息を呑んだ。

 呼吸がまともにできなくなって、苦しかった。

 だがそれよりも、何よりも――

「大切なもの全部失った気持ちがお前に解るもんかッ! まだなってもいねぇのに、テメェ一人で憐憫ぶってんじゃねぇよッ!!」

 ――心が何よりも、苦しかった。

 確かに拓也のことなんて何も知らないさ。長い時間を共にしたわけじゃないさ。

 それなのに、痛い心がさらに痛くなって……。

 雫が一つ、岳の頬を伝っていった。

 それは止まることを知らなくて。

 一つ、また一つと。数を連ねては溢れ出していった。

 嗚咽が一つ、空気を振るわせる。

 俺、なんてことを拓也に……。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 拓也だって馬鹿げた前世の被害者だったのに。

 それなのに俺は、その傷口を抉るようなことをして――。

 岳は己の愚かさに俯いた。

 拓也は何も言えなかった。

 ただ開いた距離にある気まずさを埋めるようにして、空いた手をさし伸ばして。

 一歩近づく靴擦れの音。

「悪かった。ごめん」

 確かに言い過ぎた、と。

 温かな掌が、岳の肩を小さく叩いた。

 岳は嗚咽を噛み殺す。

(何でそんなに、優しいんだよ)

 伝う雫が、宙を舞う。

 儚い音をたてて、それは足元で儚く壊れた。

 雫は無数の欠片を、辺りにまき散らす。

 輝く、その破片を。

 岳はその場に、崩れ落ちた。

 鈍く光る大鎌は篭った音をたてて傾き、拓也の手は、虚しくも離れていって。

 さわさわと穏やかな、囁き声。

 木の葉ももうその身を風にゆだね、眠っている。

 窓から見える夜空は、どこまでも平穏そのもので。

 それがとても腹立たしくて。

 苦しいほどに、遣る瀬無くて……。

 時計は動き、小さな声で時の動きを知らせていた。

 柚莉はやっぱり、穏やかな表情のまま、眠っていた。

「……岳。そろそろ時間だ」

 硬質な音が、室内に響き渡る。

 背後で拓也が、かすれかけた声で、そう告げた。

 彼は一歩一歩、確実に近づいていて。

 岳の隣まで来ると、沈む表情をその顔に浮かべた。

「……ちくしょう…………っ!!」

 岳は小さく、でも何よりも大きな罪悪感を抱きながら。

 自分に対して、そう呟いた。

 ちくしょう、ちくしょう……と。

 大きな雫は止め処ない。

 溢れては零れ、零れては壊れて――

 何でこんなに無力なんだ。

 何でこんなに愚かなんだ。

 打ちひしがれるは己に対してか、それとも……。

 握り込んだ拳は、痛みさえもうない。

 遠く広がる外界の音が、何故か一際大きく聞こえた。


「…………たける、くん……?」


 髪がさらさらと、小さな音をたてて流れる。

 上げた視線の向こう。

 蒼く照らす月明かりが、窓の外でゆらりと揺れた。

「……岳くん、なの……?」

 柚莉の小さな声音。

「ゆ――……ッ!」

 駆け出したい衝動を、叫びたい衝動を。

 中途半端に上げた腰。

 その胸に湧き上がらせながらも、岳は出してしまいたい一歩を踏み留めた。

 空しく響く、呼びかけた声。

『柚莉』と呼びたい、いとおしい名前。

 でも岳は、そのたったの一言が、言えなかった。

 だって今は――

 噛み締めた唇。

 隣で拓也が悲痛な面持ちで、立っていた。

 柚莉の影が、僅かに揺れた。

「岳。……行ってやれよ。彼女の所へ」

 拓也はぽんと、岳の背を押した。

 その力は弱いものだったはずなのに。

 何故かとても強く押されたかのように思えた。

 心にぐっと来る、何か。

 鎖がしゃらんと、音をたてる。

 眼前にある柚莉の表情が、闇の中で確かに見えた。

 でも俺はそれを――

 岳は押され踏み出した足に、力を入れた。

 ふやけた足は棒が入ったかのような力を持ち、キュッという音が床から漏れた。

「……ッ。でも――」

「いいよ。行ってやれ」

 岳の言葉を遮って、拓也は強い口調でそう言った。

 でも、殺さなきゃいけないのに、何でそんな……。

 耐えられなかった。岳にとって柚莉の前にいることが。何よりも耐えがたいことだったのだ。

 だって今は、いつもとは違う。

 柚莉と談話をするために、ここにいるんじゃない。

 柚莉の命を奪うために、ここに来ているんだ。

 それなのに、何で?

 どんな顔を向けて、柚莉と向かい合えばいいんだ――

 岳の背後では、あの揺らめく大鎌が、鈍色の不吉な光を発している。

 視線を拓也に向けても、拓也は何も返してはくれなかった。

 胸の奥が、ずんと重くなる。

 拓也はもう一度、岳の背を押した。

 まるでこれが最後だとでも言うように。

 力を込めて。一気に……。

 上体は押されるがままに、後方へと反りかえった。

 岳は転びかけながらも柚莉の前まで赴き。

「…………」

 ひたと止まる足音。

 ベッドに横たわる柚莉は、何故だろう。

 いつもよりも一層、容態が悪いように感じられた。

 そして。

 柚莉はこんな岳を前にしても微笑んでいて。

 ごめんね、起こしてくれる? と、か細い声で言ったのだった。

 岳は無理をしてその顔に笑みを作り、ああ。と小さな声で答えた。

 岳は柚莉に一歩近づき。そして覆いかぶさるようにして、柚莉をその腕に優しく抱きかかえて……。

 でもその身体は、思っていた以上に細く、そして軽かった。

 もう、華奢なんて言葉じゃ言い表せないほどに、痩せ細っていて。

 痛々しいほどに、軽くって。

 初めてその腕に包み込んだ柚莉は、本当に病人なんだなって思った。と同時に、だから、殺すのかって。そうも、思った。

 胸の奥は、握り潰されたかのように、解放されない痛みを発している。

 感じるのは膨れ上がる一方の罪悪感と、……抑えられない後悔だった。

 岳の視界は、再び霞がかって。駄目だ駄目だと唇を引き結び、零れ落ちそうになる涙を必死に押さえ込んだ。今泣いたら、柚莉を困らせるだけだ。

 軽い柚莉を岳は抱え起こす。すると、柚莉はいつものようにベッドに腰掛けながら笑っていた。嬉しいような状況じゃないのに、柚莉は岳を見てずっとずっと微笑み続けている。

 足をぷらぷらと揺らしては、柚莉の髪がさらりと揺れた。

 ねえ岳くんと、柚莉は言う。

「……来てくれて、ありがとうね」

 しかし続いたのは、突拍子もない言葉で。岳どころか後方で拓也までもが驚き、そしてその心を痛めていた。

 柚莉だって、解っているはずなのだ。自らが置かれている状況を。そして、これからたどらなければならない、運命を……。

 岳は今までにない痛みを、全身で感じていた。

 そして柚莉を、直視できなくなってしまって。思わず視線を柚莉から外した。

 星が外でちろちろと瞬いている。

 病室は、痛いくらいの静寂に飲み込まれていた。外界の音がやけに大きく、そしてより鮮明に聞こえてきた。

 感じる柚莉の存在は、いつもよりもずっと近くに思えて――けれどそれが、どうにも寂しく感じてしまうのだ。

 拓也は、そんな二人の姿を、ただ無言のままに見つめていた。蒼い夜闇に溶け入るような二人の姿は、あまりにも幻想的で。それはまるで別世界の出来事のようだった。

 ……いや、そうなのだ。本当は。

 拓也にとって、岳も柚莉も今や別世界の人だった。決して踏み入ることの許されない。そういうモノが二人との空間にはあったのだ。確かに。

 それに拓也は、真実を既に知っていた。

 彼女は、もう――

「それと……ごめんね」

 死神たちが消沈する中、柚莉の声が大きく響いた。

 その声は怯え、震えていて。

「さっき岳くんたちが話しているの、……聞いちゃったんだ」

 ごめんね。

 柚莉は小さな声で、最後にそう付け加えた。

「え……」

 小さく漏れる、抜けた声。

 初めこそその言葉の意味することが、まるで理解できなくて。

 しかし気付いてからはとても早く、岳は言葉にならない羞恥心に駆られた。

 聞かれてしまったんだ。柚莉に。

 殺めなきゃいけないということも、好きだということも。全て――

 こんな姿の時に、こんな状況の時に。とんでもないことを聞かれてしまった。

 勿論柚莉だってもう、解っているはずだ。自分たちが死神だということも。全て解っているはずなんだ。

 それなのにこれから起こることも、そしてずっと秘めていた心の内も、全て聞かれてしまっただなんて――。

 終わったと思った。絶対認めてなんかもらえないと、岳は絶望した。

 夜闇なんかよりももっと暗い後悔の念が、岳の首を絞めてくる。

 本当に、ごめんね。

 柚莉はもう一度、小さな声で謝った。

 でもそれは、一体何に対して――?

 暗いままの病室。

 寸刻前よりもさらに色を増した静寂が、ここにはいた。

 外で、車の走り抜ける音が、小さく通り過ぎていく。

 砂が指の間を滑りぬけていくような微かな音と共に、俯く柚莉の髪は顔を覆い隠した。滑り降りるその髪は、まるで生糸のように細やかな光を発していた。

 悶々とする心中。無尽の罪悪感が岳に押し寄せてきて。

 どうのしようもない気持ちに、岳はこの場から身を引こうとした。……だが、ひらりと翻ったローブの袖が、何故か引っ張られているように重くなっている。振り返ってみると、そこには漆黒の布端をはしと掴んだ、小さな手が一つ。

 岳は恐る恐る、その手のあるほうへと視線でたどっていって。

 するとそこには、冬の湖面のごとく澄み渡った双眸。柚莉の瞳と、視線が合ってしまったのだ。

「ゆ……――」

 ハッとして、出かけた言葉は中途に途切れ。それはそのまま、柚莉の瞳に吸い込まれてしまうよう。

 続きの見つからない言の葉。岳は驚きにその目を見開き――そして、何故か底知れぬ恐怖を、柚莉の瞳に抱いてしまっていた。

 何てことのない、普段と何一つとして変わらない瞳なのに。

 その澄んだ双眸に、全てを見透かされているような気がしたのだ。

 暗城の時と同じように、こちらからは柚莉の瞳を通しても、けして何も窺い知ることができなくて。

 柚莉が一体自分のことをどう思っているのだろうかと。そう考えるだけで、ゾッとした。

 絶対に許してなどもらえない。こんな自分を許してもらえるはずがない。

 妙な確信と共に、それだけが岳の恐怖を煽り立てていた。

 柚莉の瞳が、微かに揺れる。

 岳の心臓はキュッと縮こまった。

「岳くん」

 開かれた柚莉の唇。

「行かないで……」

 そこから紡がれた言葉は、とてもとてもか細くて……。蒼く淡い月明かりの中、親と逸れた幼子のごとき瞳を、柚莉は岳に向けていた。

 ローブの袖を掴む柚莉の手に、一層の力が込められる。

 岳は思わず、その目から視線を逸らしてしまって。……心が一つ、悲鳴をあげた。

 本当は、このまま柚莉の所にい続けたかった。たとえ許してもらえなくてもいいから、今だけは柚莉の言葉に甘えて。それで……。

 隠しきれない本心。揺らぐ意思。

 駄目だと解っているのに、こんなにも柚莉と共にありたいと感じてしまう。今、この瞬間でさえも。変わることなく。

 しかしそれを、岳は躊躇った。

 本当に自分は、柚莉に近づいてもいいような権利があるのだろうか? と。そう感じずにもいられなかったのだ。

 自分みたいな穢れた存在が、他人の命を奪うような存在が。純粋な柚莉に近づける権利があるのだろうか、と。

 重くのしかかる罪の意識が、岳の心を絞り上げた。胸の奥はキリリと痛みを知らせてくる。

 岳は唇を強く噛み締めた。鉄くさい味が、口内いっぱいに広がって。

 苦しかった。この運命を背負っていくことが、この上なく苦しかった。

 そして、今この瞬間が、何よりも……。

 岳は瞼をぎゅっと瞑る。

 だが潰される心の中でも、断ずるものが一つだけあった。

 それはほんの僅かな希望だったけれども。


 ――柚莉を殺してなるものか。



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