七章 流れ星に願いを
変わらない日が続けばいい。
そう思っていた。
そう、願い続けていた。
毎日が幸せの中に包まれていて。
その中で生きていって――
それが最良の道だと思っていた。
でも、日常なんてそう上手くはいかないんだ。
嬉しさが倍になる日もあれば。
どん底に突き落とされる日だってある。
それが積み重なって日常だったのに。
その時の岳には、そんなことなど知る由もなかった。
毎日がこの幸せに包み込まれている。
それが当たり前なんだと。
そう感じずにはいられなくて……。
日常はいつかクロスする。
岳はその手前まで、もう来ていたのだった。
日常との、交差点の――
1
久々に、部活のない平日だった。
だから柚莉の元にも早く行けて、その分いろんなことを話して。
また明日ねと笑顔を見せあって、病院を出て……。
それでもまだ、空は青いままだった。
ちょっとだけ、もったいないような気がした。
もうちょっとだけ話してくればなと思った。
けれどまた病室に戻るのも躊躇われて、一度振り返ってから岳は再び歩き出した。
一歩踏み出せば、そこはもう都会そのもの。
排ガスにまみれた空気。
屯う人々を掻き分けて。
今日も東京は賑やかで。
その中を岳は一人、家路をたどった。
途中幾人か、同じ高校の人にも会った。
会ったとは言葉だけで、本当はただ見かけただけなのだが。
それでも。いつもならあまり見ないような光景だったのだ。
いつもはもっと、遅い時間に帰るから。
なんか妙に新鮮だった。
少し、心がはしゃいだ。どこか寄り道をしてみたいようにも思えた。
岳はビル群を、そっと仰いだ。注ぐ陽光が目に眩しい。
胸はさらに高鳴り、けれど――
何もしていないのに、岳の身体は何故かどっと疲れが押し寄せてきていた。
いつもと違うからだろうか?
些細な変化が、岳の身体を狂わせたのだろうか?
ただ、部活がない。たったそれだけの変化が、どうにもこうにもおかしかった。
普段よりもずっと楽なはずだが、普段よりもずっと疲れていた。
揺らめく春の空気。
脳内は鮮明なはずのに、何故かぼーっとしていた。
気分は楽なのに、身体は何故か疲れきっていて……。
変な気分だった。
何だか妙に、変な気分だったんだ。
……帰ろう。今日くらいは大人しくしていよう。
大量に降り注ぐ、春の光。
岳は仰いだ視線を元に戻し、人に溢れた通りを突き進んでいった。
家まであと、もう少しだ。
それから岳は家に帰るなり、自室に、寝床に、直行した。
荷物をその手から放し。
身体は全て、寝床に預けて。
誰もいない自宅の、自分しかいない自室の中で。
制服にしわがつくことさえ気にも留めずに、岳はそのまま瞼を伏せた。
穏やかな暗闇が眼前に広がる中。
一瞬何もかもを鮮明に感じ取っていて。
そして間もなく、岳は規則的に胸を上下させ始めた。
一粒の明かりもない冥府で、何かが動こうとしていた。
それは多くの者にとっては些細なことで。
一人の者にとっては、この上なく耐えがたいことが。
この暗黒に包み込まれた地で。
確かに、動こうとしていたのだ。
「拓也。ちょっと来なさい」
暗城は手招きをすると、拓也を傍まで来させた。拓也の足取りはしっかりとしているがどこか重たそうで、その面立ちには憂いさえ感じられる。
黒いローブの裾が、はらりと翻った。
「なんですか」
「仕事だよ。岳くんのね」
拓也の精悍な瞳が、僅かな揺らぎを見せた。
その傍らで、暗城は薄っすらと笑みさえ浮かべている。
「……また、やるんですか」
消え入らんばかりの小さな声で、拓也はそう言った。それからぎゅっと、唇を噛み締める。
暗城はそんな拓也の肩に手を乗せると、そっと何度か叩いた。
「今更なことに、そんな悲しい顔をするんじゃないよ。拓也も一度は通った道でしょ? ……だったらその理由くらい、解っているはずだ。違うかい?」
「違いませんよ。解りきったことです。でも――ッ!」
それが最善の方法なのか?
それに一体、何の得があるというのだ?
ただ心の傷を抉るだけじゃないか。
それなのに何でそんなことを――
言葉は留まるということを知らなかった。感情が昂って、否定したくて。
幼子を宥めるような暗城に拓也は反発しようとして……。しかし人指し指を口の前にあてがわれ、拓也はぐっと押し黙ってしまった。
いとおしそうに笑顔を向けながら、暗城はその手で拓也の頭を撫でる。
「だったらいいんだよ。解っているんならそれで」
それはまるで、越えられない壁を見せつけられているようだった。
悔しそうに顔を歪める拓也に、暗城はさらに頭を撫でてやる。
壁はさらに高くなっていって……。
「動き出した運命は、もう止められない。それがどれだけ酷なものだったとしても――後にはもう、戻れないんだ。たとえ待ち受けるものが、後悔でも深い傷でも。僕らはそれを受け入れなきゃいけない立場にあるんだから」
それが死神なんだよ。そう言って、暗城は拓也を撫でるのをやめた。
俯いたままの拓也は遣る瀬無い表情を露に、足元をずっとずっと見つめ続けていた。
静寂が辺りを包み込んでいる。
闇に渦巻く心は、未だ治まるということを知らない。
耳の奥で、キンと甲高い音がした。
不気味に鎌は、光を放って。
暗城の瞳は色を変えた。
「本日夜半に、始動する」
その声は温かくないのに、穏やかに響き渡っていく。
そして。
「岳くんに、伝えておきなさい。担当者は――」
すぐそこまで迫りこんでいた奈落に、足を捕られたかのようで。
思わず折りたくなった膝を、拓也は必死に伸ばし続けた。
崩れそうになった心を、拓也は必死に取り押さえた。
そして拓也は、その掌をおもいきり握り込んでいた。
暗城の声は。
無情にも、響き続けた。




