五章 動き出した歯車
「え……?」
真正面には、主治医と鈴子が立っていた。
岳は状況が把握できなくて、思わず聞き返してしまっていた。
「だから上岡くんの怪我は、もう完治しているんだよ。予定の既述よりも、ずっと早くにね」
主治医は意味ありげに、その言葉一つひとつを紡いでいった。
その中には明らかな恐怖が込められている。まるで未知なる生物にでも、遭遇したかのような。
開いた窓から入り込んだ風が、岳と主治医との間に見えない線を引いていった。
そして尾も引かずに、あまりにも潔く消えてしまう。
「よって、上岡くんは明後日にも退院できそうだ。おめでとう」
主治医はにこやかに――しかし恐ろしげな表情を浮かべると、それを岳に向けてた。
真っ白になった岳は、ただ呆然とその言葉の意味を探ろうとしていた。
けれど探れば探るほど、突きつけられた現実は牙をむく。
我を保つにはあまりにも大きな衝撃が、胸の奥底で暴れていた。
左胸がまるで鷲づかみされたように、ひときわ大きな痛みを知らせてくる。
嘘だと思った。ありえないと思った。
岳は主治医の言葉が、全てあべこべなんだと思った。そう信じ込もうともがいた。
だから鈴子に、助けを求めて視線を向けた。誰でもいい。このことを否定してくれる人が、欲しかったのだ。
これは嘘だよ。
まだ幸せな日常は続いていくんだ。
ただそれだけの、証明が。
けれど鈴子はいたって真面目な表情を浮かべて、主治医の隣にたたずんでいる。つまり、そういうことなのだ。
「……うそ、だろ…………」
思わず漏れた言葉は、呆気なく空気に飲み込まれてしまう。
岳はその顔を絶望に染め、主治医を見やった。鈴子を見やった。
でも……。
「おめでとう」
主治医はそれしか、言ってはくれなかった。
岳の願いが、届くことはなかったのだ。
夕闇に染められた病室の中で、岳は一人、絶望に暮れていた。
1
眠れない夜だった。
ダークブルーの闇が辺りを包み込み、淡い月明かりが風景を照らしている。
岳は一つ、寝返りを打った。
『おめでとう』
そう言った主治医の顔が、脳裏をよぎった。
「……ッ」
ギュッと握りしめた白いシーツに、群青の皺がいくつも浮かんだ。
退院のことを考えたら、急に恐ろしくなってしまったのだ。
いつかは訪れると解っていて、でもずっと続くと思っていた幸せな時間に。突然終止符が打たれてしまう。柚莉と毎日会えたあの時間が、もうなくなってしまうのだ。
あまりにも唐突すぎて、でもそれが現実で。本当は喜ぶべきことなのに、岳はまったくもって嬉しいと感じることはなかった。
今までの何もかもを、奪われたような気分だった。日常が破壊されていくかのような、そんな気分だった。
「…………………………ふざけんじゃねぇよ……」
小さな声は、虚しく大きく響いた。
岳はさらに強く、シーツを握りしめる。
指の先が、ちょっとだけ痛くなった。
2
へこへこと頭を下げて、病院を出たのは日曜日の晴れた午後。
半年は入院するだろうと言われていた岳は、結局たったの三週間で退院したのだった。
普通に考えればありえない速さでの退院に、誰もが驚いていた。勿論岳自身も驚いていた。
そしてその多くの者が、岳を恐ろしがった。
だがその中でも、柚莉は温かく送ってくれたのだ。
早く治ってよかったね、と。また野球ができるんだね、と……。
最後に挨拶をしに行った時も、柚莉は笑顔でいてくれた。
「お見舞いに行くからな」
「うん」
「メールもするからな」
「うん」
「柚莉も早く元気になれよ」
「うん」
岳が言葉を言うたびに、柚莉は大きくうんと頷いてくれた。何度も何度も頷いてくれた。
それだけが心の支えだった。
ここから離れても、柚莉はずっと待っていてくれる。
勝手にそんなことを思って、でも否定はせずに。岳は病院を出ていったのだった。
柚莉は最後まで、笑っていてくれた。
家に帰ると、何だか懐かしい気分に駆られた。
三週間が経っているというのに、何一つとして自分の部屋は変わっていないのだ。
使っていないのだから当たり前なんだろうけど。手を付けていないのだから当然なのだろうけど。
窓際にあるベッドも、その脇にある机も。反対側に構えるタンスも本棚も、本当に何にも変わっていないのだ。まるでここだけ、時間が止まっていたかのように。
何だか妙に、不思議な気持ちだった。
今まで自分の身に起きていたことが、まるで幻だったかのように思えた。本当はまだ、入学して間もない、あの平和な日ではないかとも思えた。
だが、時は確実に過ぎていた。
立ち込める空気は四月の桜色ではなく、もう五月の緑が色濃く感じられるようになってきている。肌寒かった空気も、今は本当に暖かくって。
岳はぐるりと自室を見渡した。
そこは眩暈がするくらい、何にも変わってはいなかった。
3
「そろそろ……かな」
死神の青年は頬杖をつきながら、楽しそうに笑んでいた。
彼の背後には死神の、あの少年が立っている。静かに立ち尽くすその姿はやはりまだあどけなかった。だがその表情には、多少の翳りが浮かんでいるのだ。悲しい、翳りが。
闇に覆われた冥府の中。青年の声だけが大きく聞こえていた。
「運命は動き出したんだよ。もう……止まることができないくらいにね」
子供のようにどこまでも楽しそうな声は、闇の中へと消え入った。ふふっと小さな微笑が闇に生まれる。青年が軽快に振り返ると、長い闇色の髪がふわりと舞い上がった。
「拓也、もう時間だよ」
笑んだ瞳は――
「君たちは共に歩むんだ。先の見えない運命をね」
――鋭い光を発していて。
「はい」
青年の背後で少年――拓也は動いた。
背丈よりも悠に長い鈍色の大鎌を、その背に揺らめかせながら。
重々しい空気を、その切っ先で切り裂きながら。
拓也はゆっくりと頭を持ち上げる。
最果てまで続く闇の中。
翳りのある表情を浮かべながら、拓也の双眸は何かを見据えていた。




