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四章 (2)


    3


 あまりにもおかしかった。

 いいことだといえば、いいことなのだが。あまりにも異常すぎていて。

 当初、助からないと言われていたはずの少年――上岡かみおかたけるは、今や元気になっている。

 そして目覚めてからたったの一週間で、ほとんどの怪我が完治していた。

 半年は入院することになるだろうと言われていたのにもかかわらず、だ。今となってはすぐにでも退院できるほどにまで、回復してきている。

 異常だった。何もかもが、異常すぎていた。

 ここまでくると、奇蹟なんてどうでもよくなっていた。

 それ以上に彼が、最早恐ろしくさえ思えていた。



 控えめなノック音がした。

「岳くん、今平気?」

 するするとドアが開いていく。

 すると柚莉ゆりはひょこっと顔を覗かせて、岳の姿を窺い見ていた。

「ああ、大丈夫。暇だよ」

「よかったぁ!」

 点滴のパックを吊るしながら、柚莉はトントンと弾むような足取りで岳の病室に入ってきた。その姿は、まるで小鳥のようだった。

「おはよ」

「おはよう、岳くん」

 柚莉が岳の病室を訪れるのは、最早習慣化していた。

 朝食も検温も、回診も終わって。すると柚莉は、至極当然とでもいうように、岳の病室に向かっているのだ。始めこそはおどおどしていたものの、二日目には既に打ち解けていて。それに元々二人の病室は二個隣だから、それほどの距離もない。打ち解けていてしかも病室が近くともなれば、訪ねることも当たり前というべきだろう。

 そんなこんなで、二人は毎日朝っぱらから談話をしているのだった。

 メールで繋がっていた時よりも、もっともっと。

 学校のこととか、病院でのこととか。

 天気のことだとか、自分のことだとか。

 いろんなことを話した。どうでもいいことも話していた。

 好きなものは? 嫌いなものは?

 将来の夢は? 今したいことは?

 今日は雨だね。もうすぐ晴れるよ――

 二人にとってこの時間は、何よりもかけがえのないものと化していたのだ。

 続かないから続けたい。それくらいに、大切に思っていたのだ。

 だがその反面、幸せな時間はいくらでもあるんだと感じていた。

 二人でいるこの時間は、無限なんだとも感じていた。

 きっといつかは退院してしまう。無限なんて、そんなものはない。……常では解っていても、二人でいる時は違った。そんな解りきったことでさえも、頭からはすっぽりと抜け落ちてしまうのだ。

 幸せになると、先が一気に見えなくなってしまって。

 だから、一日二日じゃなくて、一週間二週間じゃなくて。何ヶ月も何ヶ月も。もしくは、何年も――。ありえないと解っていても、こういう時間が流れていくのだと信じていたのだ。そう思わずには、いられなかったのだ。

 何もかもが矛盾していると。そう解っていても。

 その想いを変えることなど、とうにできなくなっていた。

 もうこの気持ちは、止められなくなっていたのだ。

 動き出した時間がもう巻き戻らないのと、同じように。

 あとはひたすらに、突き進む一方となっていた。

 柔らかな陽光は地上を優しく包み込む。

 穏やかな風が宙を舞い、都会の喧騒は心地良い歌声となって、窓から流れてきた。

 柚莉は他愛もない話で、その顔をほころばせていた。

 そんな柚莉を見ると、岳の顔も、自然とほころんでいた。

 柔らかな二人の表情。

 発せられる言の葉は、春の陽射しのように暖かくて。

 そのどれもが、二人の笑顔をさらに開花させていった。

 桜の花よりも淡く。

 鈴蘭の花よりも美しく。

 これ以上ないくらいの笑顔で、二人は笑っていた。

 温かな時間は、ゆったりと過ぎてゆく。

 一つ吹いた風は、ふわりと柚莉の髪を揺らしていった。

 白に統一された病室の中。

 柚莉は舞い降りてきた、一人の天使のようだった。

 岳は思わず柚莉に見とれて。

 柚莉は照れくさそうに、岳をつついた。

 ハッと我に帰った岳は頬を薄く紅に染めて。

 照れ隠しに小さく笑っていた。

 幸せそうに、笑っていた。

 何よりも幸せな、この時間の中で――



 そして、共に座ったベッドの隅では。

 ほどよく日に焼けた岳の手と、白く小さい柚莉の手が。

 ちょっとだけだが重なっていた。 




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