四章 光の射す場所
はるか遠方で、赤く光る車のランプが列を成していた。
それは長いのか短いのか曖昧で。
時折騒音をあげては、走り去っていく。
窓の外は、あまりにも代わり映えのない風景だった。
少年は今日も、岳の傍らに寄り添っている。
碧色の十字架をかざしながら。
小さく言の葉を紡ぎながら。
淡い光を舞い降らせ。
今日も、ここに。
はらりと被っていたフードが落ちた。
ダークブルーの瞳は、月明かりと十字架から発せられる光に輝いていた。
しかしその瞳に宿っているのは……。
少年は言の葉を紡ぎ続ける。
上弦の月が。
天高く浮かぶ中で。
1
偶然とはある意味必然だ。
そんなことを、昔誰かに言われた気がする。
でもだ。今回のはあまりにも話が上手すぎるのではないだろうか? ……そう、岳は思わずにはいられなかったのだ。
それもそのはずだ。結局、柚莉とユリは同一人物だったのだから。
そうすると必然的に、岳も柚莉の言う岳と同一人物になるわけで。岳はその後、柚莉にひたすら頭を下げ続けたのであった。
ごめんなさい。俺が岳です。ほったらかしにするつもりは、毛頭なかったんです。ちょっと事故ってケータイと隔離されちゃったんです。でもこれって言い訳だよな。本当に申し訳ない。辛い思いをさせてしまったのはこの俺です。いや、本当になんて謝ればいいのか解らないんですけどね。あ、でも全然反省していないわけではないですよ。これでも精一杯の謝罪をしたいと思っているんです。本当にごめんなさい。
……と、ずらずらずらずらと謝り続けたのだ。途中でどうでもいいことを挿みながらも、岳は一方的に謝罪をしまくったのだ。
そして治っていない足を犠牲にしてまで正座をして土下座をしようとして。……そこで柚莉に止められたのである。
この時岳は、正常な思考回路をどこかに忘れていたのだ。危うく入院期間が延びる所だっただなんて、冷静になるまでは砂粒ほども思いつかなかったのだ。
さすがは平均以下の学習能力である。
その後はというと鈴子が呼びにきて、柚莉は検査があるとかで帰っていった。
一人になった病室。少し傾いた午後の陽射しに照らされながら、岳はなんともいえない思いでいたのだった。
結局鈴子を事情聴取にかけることは、すっかり頭から抜け落ちていた。
2
「よっす。バケモノ投手」
「よっす。バカ者投手」
「…………」
外は茜色に染まり始めていた。
入ってきて第一声の『バケモノ投手』と『バカ者投手』とで、岳は口元をひくつかせながらドアのほうを見やった。
「怪我人なんだから大人しく寝ていろよ、バケモノ投手」
「マンガなんか読んでんじゃねぇよ、バカ者投手」
そこにいるのは、制服姿の幼馴染。竹原勇一と緑川綾子だった。
片や野球道具を肩から下げ、片やテニス道具を肩から下げている。運動してきました感が、二人からは漂っていた。
「誰がバケモノだ。ってか誰がバカ者だ。オイ」
「誰って、岳しかいないだろ」
「そうだよ。それとも岳には他に人でも見えるんですか?」
脳みそのほうも精密検査してもらったら? と綾子は言った。
しねぇよ。と岳は、マンガを置きながら呟いた。
「にしても、岳はやることがとことん派手だよね。勇一はもう、とっくに退院したってのにさ。あんたが目覚める前から」
「しゃーねーだろ。真っ先に当たったのが俺だったんだから」
「こういう時だけくじ運がよくってもねー」
せめてテストの山でも当てたらどうなの? とか。やっぱり綾子は呆れて言った。
まったく。どこまでも容赦のない女だ。……と、岳は綾子を見ながら心底思うのだった。幼馴染が男ばっかりだからか、性格も口調も、ついでに言えば体力まで男らしい。それとも引け目を見せないとでも言ったほうがいいのだろうか?
見た目は少なくとも、ちょいと凛々しい女の子くらいでとおるのに……。これじゃあいつになっても嫁に行けないぞ。等々、岳はいらぬ心配をするのだった。
「あー、そうそう岳。これ、先生からの贈り物」
対峙する二人の間に入って、勇一は「はいはい、やめなさいね。ここは病院だよ」と言いながら、岳の前までやってくる。
「はァ? 贈り物?」
「そう。贈り物」
鞄を肩から下ろしファイルを一つ取り上げると、勇一はその中身をほいと岳に渡した。
窓からは夕の茜が射し込み、渡されたプリントを淡く染め上げている。
岳はそれをまじまじと見ると、急に表情を引き攣らせて……そのまま勇一を凝視した。
「……ざけんなや」
「ざけてねぇよ」
「なんちゅう贈り物だよ」
「宿題という名の最高の贈り物だよ」
「できるわけねぇだろ」
「ノート写しといてやったから安心しろ」
「俺の馬鹿さ加減知ってるだろ?」
「高校に受かったんだ。大丈夫」
「スポーツ推薦だよ。学力なんざ見てねぇよ」
「変わりねぇよ」
「あるよ」
ずらずらと出てくる言の葉は、本当に息が合っている。
互いが互いの顔を見ながら、一気に言葉を吐き出しあっているのだ。
「つーか、絶対無理」
「お前、諦め早いよ」
「だって習ってねぇもん」
「だからノート写したって言っただろ」
「関係ねぇよ」
「あるよ」
「ってか何で、怪我人がこんなことしなきゃならねぇんだよ」
「留年したいんなら、しなくてもいいんだぞ」
「したかねぇし」
「だったらやれよ」
「でも……」
「文句を言うな」
言葉を遮られて、岳はぽかんと大口を開けていた。目の前にはほれと突き出された宿題の数々が、ムカつくくらい白紙で踊っている。
俺に何をしろと? と、岳は勇一に向けて視線を送った。勇一は軽くスルーした。
「あ。そうだ」
するとあからさまに、綾子は岳に向かって声をかけた。
綾子もまた、鞄を下ろしてはファイルから何かを取り出していて……。
「私も預かっていたんだ。先生からの贈り物」
にこやかーに笑って、綾子は宿題のプリントと、写したノートを岳に渡した。
岳はそれを凝視して、再び二人の顔を見て――
窓の外は、綺麗な夕焼け空だった。
夜の訪れを感じさせる風が、病室内で踊っている。
「マジでざけんなや」
通りの喧騒が、一層大きくなったような気がした。
岳の声は虚しくも、風に乗った喧騒に掻き消されてしまって。
夕日はどんどん、沈んでいった。
外は薄闇に覆われていた。
入ってくる風は涼しすぎていて。そのため窓を閉めてから、もう結構な時間が経っているように思える。
綾子が帰ってからというもの、二人は無駄にテンションを上げて話していた。学校のこと、部活のこと、最近あったこと、つまらなかったこと。そんな些細な話を、窓を閉めたのと同じくらい、長い間話していた。
外からは、遠く聞こえるクラクションの音が入ってくる。
夕飯まであと何分だろうか。などと、岳は無駄なことを頭の片隅で考え始めていた。
「そうだ。頼まれていたこと、ちゃんと調べておいたぞ」
「なんだっけ?」
「柚莉ちゃんのことだよ。もう忘れたのか?」
勇一は眉根を寄せながら、岳の顔をまじまじと見た。図星だったから言い返せない岳は、言葉を濁すと気まずそうに視線を泳がせていた。
しばらくじとーっと岳を見ていたが、まあいいかと言うと、勇一は一つ息を吐き出した。
「クラスは三組だって。俺たちは二組だから、ちょうど隣だな。で、入学式とテストの日には来たみたいだけど、三日目からはもう休みに入っていたってさ。元々身体はあまり丈夫じゃないらしくってね。で、二日目はテストの途中に気分が悪くなって保健室に行ったらしい。けど、その時はすぐに戻ってきたってよ」
「……そっか」
二日しか来ていないんだ。それなら確かに、隣のクラスでも面識がないわけだ。合点がいく。最低でも一週間はクラスの友達探りで精一杯な時期なのだ。無論岳もそうだったので、仕方がないと言ってしまえば仕方のないことなのだ。でも……。
岳はまるで自分のことのように、心を沈ませた。
勇一は急に黙り込んだ岳に、ただ見守るかのような眼差しを向けていた。
昔からそうなのだ。岳が沈めば、勇一が何も言わずに見守って。勇一が沈めば、逆に岳が何も言わずに見守るのだ。
年が変われども、自然と変わらない二人の関係。
暗黙の了解とでも言うのだろうか。
勇一はただ、岳を見守っていた。
岳が納得するまでの、少しの間だけ――
誰かが廊下を歩き、通り過ぎていった。
蛍光灯は、人工的な白光を二人に向かって容赦なく浴びせてくる。
密室の中はやけに静かで静かで。
ブンという蛍光灯の唸り声が聞こえた。
白いカーテンはその身体を休ませている。
勇一はゆっくりと大きく、空気を吐き出した。
「大変だったんだからな、これだけ聞いてくるの。野球部に一人しか三組の奴がいなくってさ」
「あー、悪ぃ悪ぃ。面倒なこと頼んじまってさ」
普段のテンションに戻った岳は、謝りながらも勇一を小突いた。痛いってのと、勇一は小さく漏らした。
「じゃ。弟と妹が待っているからこの辺で」
「おう。サンキューな」
カタンと椅子を鳴らして、勇一は立ち上がった。
「マジで大人しくしてろよ。ピッチャーがいないと女房役は受けるボールもないんだから」
「わーってるって。大人しく且つ早く治すように頑張るよ」
鞄を肩にかけている勇一を見ながら、岳は苦笑混じりに返した。
「じゃあな」
「おう」
「また明日」
「おう」
「早く治せよ」
「お、おう」
忙しない言葉の掛け合い。
来た時みたいに、ドアはガラッと開いては閉まって。
廊下を歩いていく音が、しだいに遠退いていって。
「あー……」
病室は一気に静かになった。
就寝まで、あと二時間ちょっと。
つまらない時間は、今日も長くなりそうだ。




