三章 (5)
7
あの時の男は、一体誰だったのだろうか。
黒装束の、あの人形のような美しさを纏っていた死神の青年。
今でも瞼を下ろせば、その光景が鮮明に蘇ってくるのだ。
あの漆黒の闇も。
あの不気味に美しい青年も。
あのぬらりと輝く鈍色の大鎌も。
全てがすべて、現世とはかけ離れていた。
あれが確かに冥界だと、そう感じずにはいられなかった。
これ以上ない恐怖が、今も身体の奥底に根付いている。
決して離れることはなく、葬り去られた闇の奥底で。
今も身体を蝕んでいた。
恐怖はさらなる恐怖を生み、目を閉じるのも嫌になる。
目を閉じれば、いつもあの死神が離れなくて。
ずっと居座っては、あの微笑を浮かべ、見ているのだ。
『罪を償いきるまでは、君は囚われの身なんだから』
繰り返し繰り返しその言葉は廻って。
――本当に、囚われているかのような気分だった。
彼はきっと、開放なんてしてくれない。
囚われたままの岳は、きっと囚われ続けるのだ。
この命が尽きるまで。
もしかしたらその後でさえも。
この身は彼にのっとられ続けるのだろう。
もうやめてくれ。
もう放してくれ。
迫り来る闇に魘されながら。
岳は光を求め続けた。
ガラッという音の後、妙に聞き覚えのある声がした。
あー。葉柳さんの声だな、こりゃ。
検温か? それとも消毒か何かか? と、大して入っていない脳みそを働かせながら、岳は薄っすらと瞼を上げた。
事故からそろそろ二週間が訪れようとしていた。岳の怪我は結構順調すぎるくらい順調に治っていくため、もう頭に巻かれていた包帯はないし、左腕と右足の包帯も取れていた。
今までの弊害をなくし、上げた両の瞼からは今までの倍の量の光が入ってくる。岳は思わず目を細くした。眼球の奥が、ツンと痛くなった。
左手で体重を支えながら、岳はのっそりと上体を起こす。もそもそと布団が、奇妙な音をたてていた。
「葉柳さん、何用ッス………………………………か?」
しょぽしょぽとしていた目は、目の前の光景を期に、パッチリと開いてしまった。それどころか、開かなくてもいい口まで、間抜けの象徴と言わんばかりにあんぐりと開いている。
しばらくことの成り行きが解らずに岳はドア付近を呆然と見やっていたが、数分の後。やっと全てを飲み込むことができたのだ。
そう。それは明らかに葉柳さんじゃなくて、もっと若い――
お、……おなごォォォォォォォォォォォォ!?
(いや。マテマテ待てぇぇぇぇぇぇいッ!! んなことありえるわけがねぇ! きっとこれは何かの間違いだ。きっと何か幻想とか幻覚とか、そういうヨロシクナイ類のものが見えているに違いない! さあ。正気を取り戻せ、俺ッ! それともこれが噂に聞く事故の後遺症なのかぁぁぁぁぁぁぁぁ!? オイッ! 誰か我に救いの手を差し伸べてッ!! この状況を百文字以内で説明してくれる人を、頼むから!!)
脳内が活性化しすぎて、どうにも思考がまとまらない。それどころかパニック状態に陥っていて、もう岳には何がなんだか解らなくなっていた。
勿論それはドア付近にいる女の子もそのとおりであって、阿呆面をかまされたと思ったら、今度は意味不明に悶え苦しむ岳に、嫌でも不安を隠しきれていない。ドアの取っ手に手をかけていて、腰はかなり引き気味だ。
岳は目を見開きながら、酸欠金魚のように口をパクパクさせている。
ちょっとキモキャラ街道まっしぐらだ。
ああ……。と岳は思った。
これは今まで生きてきて、最狂の目覚めだった。最も狂った最狂の……。
岳は混乱した。
岳は百のダメージを喰らった。
知らない敵からの攻撃は、あまりにも大きすぎていた。
立ち直るには、もう少し時間が必要のようだった。
「……でー。君は一体何故にここにいるのですか?」
落ち着きを取り戻すのには、やはり多少の時間がかかった。
岳は女の子をパイプ椅子に座らせると、何と言っていいのか解らず。眉根を極限にまで寄せながら、何とか苦し紛れに言葉を発したのだった。
正直今も、岳の脳内はパニック状態なのである。何とか抑えているという表現が、よく似合うほどに、だ。
勿論すぐに帰らせるという手もあったのだが、何故でしょう。昔ながらのつっかえ棒でもしてあるのか、スライド式のドアはびくとも動きませんでした。誰がやったのかは、大方見当がついているから、あとで事情聴取にかけることだろう。
静かで微妙な空気の中、木の葉がさらさらと揺れる音が風に乗って聞こえてきた。
外は嘲笑っているかのような、青空だった。
岳は一つ、息をついた。
結局脳内では、何の結論も出なかった。どうしてここに見知らぬ女の子がいるのかも、何故岳の病室に入っているのかも。皆目見当がつかなかった。
ただ、岳にも解ることといえば。
二人はまったくの初対面だということ。
そしてパジャマ姿からして、彼女も入院患者であるのだろうということ。
それだけだった。
「…………あ、あの……」
窓からは透明な風が、光を揺らしながら流れ込んできた。
か細い彼女の声が風と共に、岳の元へと届く。明らかに何をしていいのか、解らないといった状況だ。
「え、何?」
「えっと、あの……」
もじもじと彼女は口ごもる。
そりゃあ、そうなるよなと岳は彼女に同情した。
いきなり年の近い異性の前だもんな。混乱するよな。
と、自分の今までの行動はどこ吹く風なのが、清々しいったらありゃしない。
鳥がやっぱり、ピーと鳴いた。
彼女の腰掛けている椅子が、ギシッと鳴った。
「あの、迷惑……ですよね。私」
か細い声は、詰まり詰まりの言葉を吐き出した。
迷惑。そう思うのは彼女の感じ取った罪悪感からだろう。だがその本を糺せば多分、先ほどの岳の行動にまで行き着くわけで。あの混乱状況を見れば、誰だって罪悪感の一つや二つ、抱くに違いない。
彼女は今にも泣き出しそうな顔を、俯かせていた。ギュッと引き結んだ唇。膝に置いた両手も、元から白い肌がさらに白くなるくらい、強く握りしめていた。
「いやいや、別に迷惑じゃないって! ただいきなりだったからさ、戸惑ったっていうだけであって――」
徒広い病室の中、岳の戸惑った声が大きく聞こえた。
白いカーテンは今も風に靡かれ、はためいている。
心地よい布の靡く音。岳は彼女を見つめた。
彼女は入院生活が長いのだろうか。
その肌は雪のように白く透きとおっていて、太陽の下にいたとは到底思えなかった。
それに手の甲には、注射の針を刺したであろう痕が、いくつも残っている。白い肌がそこだけくすんだ色をしていて、妙に痛々しかった。
ただ色素の薄い髪は短く、肩の辺りまでしかない。とはいえそこらにいるような女の子たちとは違って、大人しい印象を与えるような子だった。……実際にそのようだが。
しんと静まり返った空気が充満する。
陽光はそれでも二人を照らし続けていて。
「そんな怯えなくてもいいよ。本当に迷惑じゃないし、キレたりもしないからさ」
気恥ずかしくて、ちょっと頬を赤らめながら。
「だから、うん。友達感覚で気軽に話して。っていうか今から友達っていうことでさ」
なっ。と岳は彼女に言った。
彼女は少し戸惑っていて。
だけどうんと、頷いてくれた。
その表情は、眩しかった。
やっぱりことの原因は葉柳鈴子だったようだ。
確かに岳は鈴子から、岳と同い年の子がいるとを聞いてはいた。
……けどだ。
それが異性だとは一体誰が思うだろうか?
岳はハァとため息をついた。
隣で彼女は、困ったように微笑んでいた。
8
彼女の名前は、泉川柚莉というそうだ。しかも岳と同じ、長尾高校の一年生らしい。
鈴子のことで時間を喰って。二人が互いの名前を知ったのも、実は随分経ってからだった。
穏やかな時を運ぶ病室内は、春の陽射しにやんわりと照らされていて。最初会った時のような戸惑いも、すぐに吹き飛ばしてくれた。
自然に口から出てくる言の葉は、もう何の迷いもない。
二人は、その顔に満面の笑みを浮かべて。
でもちょっとだけ、緊張していて。
もう一度入学式をしたみたいな気分だった。
すっごい不思議な気分だった。
今までにない奇妙な感覚も。奇妙な体験も。
何もかもが新鮮に感じられるのだ。
初めこそは「何しやがったんだ、あの看護師……」と思っていた岳も、今やそんなことなどとうに忘れていて。
退屈でならなかった入院生活の中、一つの花が舞い降りてきたかのようだった。
そう。楽しかったのだ。
幸せだったのだ。
「ねぇ。岳くんはさ、何をしてる時が一番楽しい?」
青い空が、柚莉の背景になっていた。
「あー……、そうだなぁ。どっちもどっちで解んないんだけどさ。野球している時と、メールしている時が好きだな」
「野球?」
「そ。でもさ、高校に入ってから部活が辛くって。練習がハードでさ」
あははと岳は苦笑した。
「でも好きでやっているんだから、文句はないけど」
「そうなんだ」
なんでもない話なのに、柚莉はそれこそ嬉しそうに笑っていた。
自分のことのように、にこにこと笑っていた。
本当に、花みたいだった。
「柚莉は? 何してる時が一番好き?」
そう言うと、柚莉はにっこりと微笑んだ。
「私もメールしている時が一番好き」
笑っているのに、その姿はあまりにも儚げで。
不純だと思っていても、岳はちょっと、どきっとしてしまった。
「今ね、一人友達がいるの。私って病気がちだからさ。今までもあんまり学校に行けなかったし。やっと退院ができて高校に行っても、容態が悪化して、またすぐに入院しちゃったし……。だからね。初めてできた、友達なんだ」
でも岳くんとも友達だから、二人友達がいるんだね。と、柚莉は笑顔を向けてきた。
雪のように白い肌が、小柄で細い彼女の体躯が。
カーテンで区切られた、青い空を背景にして。
映っていた。
今まで何でも言えた口は、突然動かせなくなっていた。
岳は何も、答えられなかった。
なんて言葉をかけていいのか、解らなかったのだ。
今まで何の不自由もなく過ごしてきた岳には、柚莉の苦労なんて解らなくて。
どんな言葉をかけても、陳腐なものになってしまうような気がしたから。
岳は何も言えない唇を引き結んだ。
柚莉は花のように笑っていた。
それは何よりも美しくて。
「ケータイなんてちっちゃいけどね。これでその人と繋がってるんだ」
そして、やっぱり何よりも儚かった。
花のように、本当に儚かった。
岳は柚莉を、見つめていた。
「でもね。最近その子からメールが来ないんだ」
柚莉は悲しそうに、どうしたのかね? と首をかしげた。その表情はあまりにも寂しそうで、悲しそうで。笑っているのに痛々しかった。
「今までは毎日だったからさ。なんか寂しくって」
強がっていた。平気がっていた。
柚莉にとって初めてできた友達から、毎日来ていたメールが来なくなって。
柚莉は笑って、寂しさを紛らわせていた。
本当は泣きたいくらい辛いはずだ。
怒りたいくらい寂しいはずだ。
それでも柚莉は、泣いてなるものかと笑っていた。
多分柚莉は、裏切りに慣れていないんだろう。
岳みたいに学校にも行って、それなりに過ごしていれば裏切りだってある。
友達とかだって時に裏切り、そして消えていって……。そんなことはありえることなんだ。十分に。
でも柚莉は行きたくても学校に行けなかった。
当たり前なことも十分にすることすらできなくって。裏切りとかだって、受けたこともなかったはずだ。そして今回、初めての友に初めて裏切られたのだ。岳たちにしてみれば、ほんの些細なことかもしれない。けど、柚莉にとってはどれだけ悲しいことなのだろう。
胸が潰されるような思いだった。されたことはないけど、まるで心臓を雑巾絞りでもされたかのように、苦しくて苦しくて……。
「そう、なんだ……」
岳は俯いた。窓から入ってきた風が柚莉を撫で、岳の髪を揺らしていった。
岳の声は風に吹かれ、消えていった。
「すっごい優しい子だったんだ。岳くんみたいにこんな私と友達になってくれたし」
自らを蔑む言葉は、とても虚しかった。
『こんな私』という言葉は、やはり自分に引け目があると思っているからなのだろうか。
「そんなことないよ」
たったそれだけの言葉を、でも岳は、かけてやることさえできなかった。
柚莉は……岳とは違いすぎていた。それを言葉にすることは確かに簡単だけれど。……でもそれが、柚莉にとって一体何になろう?
ただ慰められているだけに過ぎないのではないか? それがまた、彼女を傷付けてしまうのではないのか?
恐れだけが、岳の心を蝕んでいく。
雲が太陽を覆っては、また離れていった。
さわさわとした木々の囁き。
無意味な時間だけが、無意味に過ぎ去っていく。
「どうでもいいかもしれないけどね。その子も岳くんと同じ名前だったんだ」
柚莉の小さな声が、病室に響いた。
「え?」
岳は、己の耳を疑った。
――最近? 同じ、名前?
「重ねて見ているようで、本当に悪いとは思っているんだけどね。でも――」
「ちょッ、待って待った! 今何て……?」
焦った岳の声が、柚莉の声を掻き消す。
突然のことに柚莉は驚き、岳を見つめていた。
「ってか、メールが来なくなったのっていつから?」
頭の中は、既にこんがらがる寸前だった。
岳は驚く柚莉にさえ気付かずに、痛む身体を乗り出してそう言った。
空気が微かに揺らぐ。
柚莉は戸惑いを露にして、
「え? えと、先々週の日曜日からなんだけど……」
先々週の日曜日って言ったら――
岳は現実を疑った。
先々週の日曜日。それは岳が事故に遭った日だったのだ。
そして。
岳がメールをすることができなくなった日。
柚莉、先々週の日曜日、途切れた、メール、事故。
切り離された単語が、一つの線で結ばれていく。
「柚莉ってさ。なんて名前でメールしているの?」
「ユリだよ。片仮名でユリ」
透きとおるような柚莉の声を、岳はしかと耳にした。
線は、繋がった。
……間違いない。多分、間違いない。
岳は引き結んだ唇を、ちょっと舐めた。
「もしかしてさ。……『大切なもの』とか書いて…………」
彼女は青い空を背にしていた。
青い空の向こうでは、高いビル群がこれでもかと高さを競い合っている。
下方で聞こえる通りの喧騒は、どこか遠い。
結界でも張られたかというくらい、病院は静けさに包まれていた。
風が一つ、悪戯に入ってくる。
柚莉の短い髪は小川のせせらぎのように、さらさらと音をたてて靡いていた。
岳は生唾を飲み込んだ。
しばし言葉を失った柚莉は、岳をほうっと見て。
「書いた、けど……?」
何で? という柚莉の言葉は、既に岳の頭には入ってこなかった。
……絶対、間違いない。
岳は気まずさと驚きに、思わず視線を床に彷徨わせた。
柚莉は岳を不思議そうに見ていた。
岳は信じられない思いで、目元だけはそのままに。引き攣った笑みをその口元いっぱいに浮かべていた。
春の陽射しは、二人を照らしている。
夢じゃなければ彼女こそが、メールの差出人なのだろう。
妙な確信が、岳の中に芽生えていた。
風はどこまでも穏やかに、流れ続けていた。




