八話
「祈りを貴方に、手紙を君に」二章です。
電話が鳴っていた。目を赤く腫らしながらお兄ちゃんが部屋に戻った後に。
「はい、佐山です」
受話器を手に取り部屋に静寂を取り戻す。さっきまでは聞こえなかった心臓で脈打つ鼓動が鮮明に聞こえた。
「……香織です」
受話器からはある程度予想していた相手の声が耳元に響く。
「佳祐……いる?」
帰ってきたばかりのお兄ちゃんと同じように、今にも泣き出しそうな声で香織さんは尋ねた。
……居ます。そう答えようとした。しかし喉元まで返事は出かかっているのに、その言葉を口にすることができない。
「……ぁ」
言葉にならない声が微かにこぼれ出る。
「そう……いるんだね」
私の反応からお兄ちゃんが居ることを理解した香織さんは暫く沈黙を続けた。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
耳障りな音がいつまでも続く。このまま通話を切りたい思いに駆られながらも、続く言葉を待ちつづける。聞きたいことは山ほどあるはずなのに……。それを私は香織さんに尋ねることができない。
何があったんですか?
たったそれだけのことなのに。それを聞いたら香織さんもお兄ちゃんのように泣き出してしまうんじゃないかって。私が持っている価値観を壊されてしまうんじゃないかって。そんな予感が背筋を這ってくる。
「……あの。あのね」
ようやく香織さんが言葉を紡ぐ。お腹の底から搾りだしたような声だった。
「私達、友達に拒絶されちゃったの」
「それってどういう……」
「今日、大学で私と佳祐と仲のよかった友達と食事をしようとしたんだ。本当は私だけの予定だったんだけど、佳祐がまたいたから……」
「そこに連れていったんですね」
「そう。佳祐にまた会えたことが嬉しくて、皆にも生きていたことを知ってほしくて無理矢理連れていったの。佳祐も最初は嫌がってた。でも、私の我儘を聞いてくれて、皆に自分の今の状態を説明すればいいって言って一緒にいてくれた。心の奥底ではきっと納得しきれていなかったはずなのに……」
「それで、一体何があったんですか?」
聞くことを躊躇っていた言葉をついに問い掛けた。手の平には汗が滲む。緊張からか一秒がとても長く感じられた。
「友達の一人に修司くんって人がいるんだけど、彼が佳祐に言ったの。『お前はもう死んだんだ』って」
「…………」
「他にも二人友達が来てたんだけど、二人共事態を受け入れられなくて、結果的に佳祐を拒絶しちゃったんだ。それで、佳祐はショックを受けてその場から走って逃げちゃった」
香織さんは自嘲気味な笑い声を上げた。
私は、今の話しを聞いて怒りが沸々と込み上げてくるのを感じた。握りしめた受話器はギシギシと嫌な音を鳴らしている。
脳裏に浮かぶのは赤く腫れた瞼。頬を伝う涙。無理をしているのはどう見てもわかっているのに、私に心配かけないようにするため平静を装って部屋へと戻った時に見えた後ろ姿。
いつも元気で笑顔が絶えなかったお兄ちゃん。私や家族の心配をいつもしてくれていた。泣いてる姿なんて本当に数えるほどしかなくて……。
大学の友人の話をする時は、自分の事を話すかのように嬉しそうに話していた。気の許せるいい友人だと。本当にイイ奴らなんだと。
そうお兄ちゃんが語っていた人達がどうして……どうして。
「どうしてこんな酷い事が言えるんですか?」
信じられない。これが同じ人間の言うことなの? そうだとしたら彼らは友達なんかじゃない。ただの愚か者だ。
「ごめん……ね」
怒りのあまり頭が真っ白になっている中、突然意識の隙間を縫うようにして、思いもよらない言葉が聞こえた。
「なんで香織さんが謝るんですか? 悪いのはその人達ですよ。言っていいことと悪いことの区別もつかない」
怒りに任せて感情をそのままぶつける。理性はどこかに飛んでいった。
「違う。そうじゃないの」
「……違う? どういうことですか」
「実は、今回の事は私にも……責任があるの」
香織さんはそう言って、静かに語り始めた。
お兄ちゃんの部屋の扉の前に立ち、ゆっくり扉に手を近づける。一瞬の躊躇。それを勢いで無視してノックをする。
コンコン、コンコン。
返事はない。
もう一度、確認のためにノックをする。
コンコン、コンコン。
やはり返事はなかった。
「お兄ちゃん、入るよ?」
そっと扉を開いて室内へと入る。
真っ暗な部屋。電気は全て消されてカーテンは閉めきられている。カーテンの隙間から漏れてくれる月の光がこの室内で唯一の光源だ。
暗闇に目が慣れるのを待つ。数十秒ほど経ってようやく周りが見えるようになった。
「お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは暗闇の中でベッドに上半身を預けて眠っていた。私はお兄ちゃんを起こさないようにそっと近づき隣に座る。
『私ね、修司くんに告白されてたの』
ついさっき告げられた事実について私は考える。
『ずっと佳祐のことを引きずってた私を修司くんは支えてくれた。それでも、私は佳祐を忘れられなかった。そんな私に、忘れなくてもいいから一緒にいてほしいって彼は言ったの』
昼間の訪問を改めて思い出す。よく考えてみれば、今日の香織さんはおかしかった。普段ならきちんと連絡をくれて家にくるはずなのに今日はそれがなかった。それにどこか寂しげな表情を浮かべたりしていた。もしかしたら香織さんは心の中では迷ってたのかもしれない。
“過去”を選ぶか“現在”を選ぶかを。
それで、縋るような思いで家に来たのかもしれない。
……答えを求めて。
「……ぅッ……」
お兄ちゃんの声が聞こえて私は一瞬硬直した。もしかして起こしちゃったかな?
「……お兄ちゃん?」
しかし私の考えを否定するように隣からは整った寝息が聞こえた。どうやらただの寝言だったみたいだ。
「私ね、決めたよ」
寝ているお兄ちゃんには決して伝わらない決意を告げる。
「私だけは絶対にお兄ちゃんの味方でいる。お兄ちゃんのこと信じる。たとえお兄ちゃんがどんな存在でも」
今までずっと後悔してきた。どうしてあの時、もっと素直に気持ちを表せれなかったんだろうって。何度も、何度も。それこそ後を追いそうになるくらいに。
だから今度は間違えない。絶対に後悔しない選択をする。
「明日さ、私と出かけよっか」
翌日提案することを一日早く伝える。
今はまだ傷ついて眠ってる兄に向けて。
「祈りを貴方に、手紙を君に」の二章の八話目になります。
この話で、二章は終わり、間章を挟んだ後に新しい章が始まります。
この話では、電話で香織から兄に起こった出来事を聞いた千春が怒り、悲しみながらも兄のためにただ一人になっても味方で居続ける事を選択した話です。
世間から見れば千春の行動は全く意味のないもので、もう存在しないものの影を追い続けている事になります。ある側面から見れば停滞をずっと望んでるとも言えます。
しかし、それでも周りの誰からも批判されようとかつての後悔を二度と繰り返さないために千春は兄の味方で居続ける事を選択したんだと思います。