おかえり
『あなたの痛みには、価値があります。』
面談室の壁には、そう書かれていた。
白い背景に、淡い青の文字。
隣には車椅子の女性と、義手をつけた青年と、酸素チューブを鼻に通した老人が並んで笑っている。
その下に、もう少し小さな文字があった。
『身体的ハンディキャップを、新しい収入へ。』
水城蓮は、腰を浮かせるようにして椅子に座っていた。
背もたれに触れると、右脚の奥で焼けた針金を引きずられるような痛みが走る。
かといって前屈みになれば、今度は骨盤の裏側が軋んだ。
どの姿勢が楽なのかと聞かれることがある。
そんなものはない。
姿勢によって、痛む場所が変わるだけだった。
「事故に遭われたのは、三年前ですね」
向かいに座る女性が、端末を見ながら言った。
濃紺のスーツを着て、胸元には『SENSE SHARE』のロゴがついている。
「はい」
「末梢神経損傷に伴う慢性疼痛。疼痛等級は平均七・二、最大九・一。発作頻度は一日三回から八回」
「多い日は、もっとあります」
「お仕事は?」
「今はしていません」
蓮は答えた。
正確には、できなかった。
事故の前は配送会社で働いていた。
だが、発作は何の前触れもなく起きた。
立っていられなくなる日もあれば、声も出せずに床へうずくまる日もある。
会社は半年待ってくれた。
そのあと、能力を否定するものではないと何度も前置きして、彼を解雇した。
別の仕事にも応募した。
在宅勤務ならできると考えたが、面接の途中で発作が起きた。
画面の向こうで人事担当者が、困ったように眉を下げていた。
障害年金と事故の補償金だけでは、家賃と医療費を払い続けられなかった。
「弊社の仕組みは、痛覚信号を複製し、需要者へ提供するものです」
女性は慣れた口調で説明した。
「水城様が感じている痛みそのものが、減少したり増加したりすることはありません。あくまで信号を読み取り、匿名化したうえで複製します」
「誰が買うんですか」
「用途はさまざまです」
女性の指が端末を滑った。
壁の画面に映像が出た。
雪山を登る男。
地下格闘技場で殴り合う女。
暗い部屋で互いの身体に触れる男女。
そして、防音室の椅子に拘束された人物。
映像はすぐに切り替わった。
「極限環境の疑似体験、映像作品の感覚トラック、成人向けコンテンツ、医療教育、災害訓練、安全保障分野などです」
「安全保障?」
「弊社は適法な利用先にのみデータを提供しています」
女性は微笑んだ。
「もちろん、水城様の個人情報が利用者に開示されることはありません。提供者はコードネームで管理されます」
「俺は何をすれば?」
「何も」
女性は言った。
「いつもどおり生活してください。痛みが発生すると端末が自動的に信号を取得します。利用回数と強度に応じて収益が発生します」
何もしなくていい。
その言葉を聞いたとき、蓮は初めて、自分にもできる仕事があると思った。
痛みに耐えることなら、三年間、毎日やってきた。
「どれくらい稼げますか」
「需要によります」
女性は少しだけ身を乗り出した。
「ただ、水城様の疼痛パターンは非常に希少です。灼熱感、穿刺感、圧迫感が複合し、波状的に強度が変化する。商品価値は高いと予想されます」
商品価値。
その言葉に、蓮はわずかな違和感を覚えた。
しかし、そのとき、身体の奥で痛みが始まった。
最初は足首だった。皮膚の下へ熱した金属片を押し込まれたような感覚が、ゆっくりと脛を這い上がってくる。
蓮は肘掛けをつかんだ。
女性は慌てなかった。
胸元から小さな端末を取り出し、数値を確認した。
「今のような発作です」
「……はい」
「非常に良好です」
蓮は顔を上げた。
女性は心から感心したように画面を見ていた。
「契約後なら、いまの一回だけで、およそ三千円から五千円の収益になります」
痛みはまだ続いていた。
蓮は奥歯を噛みしめたまま、壁の言葉を見た。
『あなたの痛みには、価値があります。』
それは、久方ぶりに社会から必要とされた瞬間だった。
*
初回の配信収益は、四千八百二十円だった。
発作が治まったあと、端末に金額が表示された。
蓮はしばらく数字を眺めた。
ただ苦しいだけだった時間が、家賃の一部になっていた。
翌日には一万二千円。
次の日は七千三百円。
一週間後、蓮のプロフィールには最初のレビューがついた。
『鋭いだけでなく、奥に残る。強度二〇%でも十分』
次のレビューには、五つ星が並んでいた。
『ピークまでの焦らしが長くていい』
蓮は何度も読み返した。
自分にとっては予測不能な発作だった。
だが、利用者にとっては、緩急のある優れた体験らしい。
彼の提供者名は《L-27》だった。
年齢も顔も非公開。
病名も詳細には明かされない。
プロフィールには、右半身を覆う抽象的な人体図と、疼痛の特徴だけが記載されていた。
《灼熱・穿刺複合型》
《不規則波状》
《最大推奨体験強度35%》
利用者は用途を選び、痛みの強さを調整して購入する。
スポーツ選手が精神訓練に利用した。
ホラー映画の新作が、蓮の痛みを採用した。
成人向け配信者が快楽信号と混合し、『燃える神経』という感覚パックを発売した。
一度だけ、用途欄が非公開になっている大量購入があった。
問い合わせると、サポートから回答が届いた。
『個別の利用目的については、契約上お答えできません。すべての利用は関係法令および弊社倫理規定に基づいています』
その月の収入は、事故前の給与を超えた。
蓮は問い合わせ画面を閉じた。
知る必要はないと思った。
痛みはどのみち存在する。
自分が売らなくても、消えてなくなるわけではない。
それなら金になった方がいい。
蓮は新しい椅子を買った。
どんな姿勢でも痛むことには変わりなかったが、前の椅子よりは長く座れた。
鎮痛剤も、残りの錠数を数えずに飲めるようになった。
事故以来、初めて貯金もできた。
彼の痛みは、彼を生活させていた。
*
L-27の視聴者は増え続けた。
痛覚配信にはライブ機能があった。
提供者が許可すれば、利用者は発作をリアルタイムで受信できる。
発生時刻が分からないため、利用者は配信枠へ接続したまま、痛みが来る瞬間を待った。
蓮は最初、ライブ配信を拒んでいた。
知らない人間たちが、自分が苦しむのを待っている。
それはさすがに気味が悪かった。
だが、ライブの報酬率は通常提供の三倍だった。
生活のため、と自分に言い聞かせて、一度だけ試した。
最初の二時間は何も起きなかった。
同時接続者は三百人から、百人、五十人と減っていった。
コメント欄には、
『今日は来ない?』
『薬飲んだ?』
『寝落ちしそう』
と流れた。
蓮は焦った。
自分ではどうすることもできないはずなのに、何か提供者として怠けているような気がした。
配信開始から二時間四十分後、発作が起きた。
右脚の内側を、鈍い刃物で何度も削られるような痛みだった。
端末が自動的に信号を送信する。
同時接続者数が跳ね上がった。
五百。
二千。
一万。
蓮はベッドの上で身体を丸めた。
痛みで視界が白くなるたび、投げ銭の通知音が鳴った。
『すごい』
『これ本物?』
『三〇%でも無理』
『L-27当たり回』
蓮は声を漏らした。
痛みのせいだった。
けれど、数字が上がるのを見て、笑ったのかもしれなかった。
配信終了後、その発作は週間ランキングの一位になった。
切り抜き映像は数百万回再生された。
映像に映っているのは、痛覚波形と暗い部屋だけだった。
それでも利用者たちは、波形が激しく跳ね上がる瞬間を繰り返し見た。
翌朝、蓮のフォロワーは十万人を超えていた。
『昨日、救われました』
そんなメッセージも届いた。
送り主は、同じ慢性痛を抱える女性だった。
『自分だけが苦しいんじゃないと分かりました』
別の男は書いた。
『仕事でつらいことがありましたが、あなたの痛みを体験したら、自分はまだ頑張れると思えました』
蓮は胸が熱くなった。
自分の痛みが誰かの役に立っている。
単なる娯楽ではない。
人と人をつなぐ、新しい共感の形なのだ。
『あなたの痛みには、価値があります。』という言葉を、蓮も信じるようになった。
*
人気が出ると、蓮自身にも関心が集まった。
雑誌の取材を受け、顔を公開した。
『痛みを価値に変えた男』
記事の見出しにはそう書かれた。
テレビ番組にも出演した。
司会者は感動した表情で、蓮の手を握った。
「事故で働く場所を失いながら、新しい技術によって社会復帰を果たした。まさに希望の象徴ですね」
蓮はうなずいた。
「昔は、自分が社会のお荷物だと思っていました」
用意された言葉ではなかった。
本当にそう思っていた。
「でも今は、この痛みがあったから、多くの人とつながれたと思っています」
放送後、称賛のメッセージが殺到した。
企業は蓮に専属契約を提示した。
最低収入が保証され、配信機材と医療サポートが提供される。
ただし、他社への提供は禁止された。
発作時には可能な限りライブ配信を維持し、服薬記録と生活習慣を企業と共有する必要があった。
蓮は契約書に署名した。
その頃には、自分の発作を待っている時間が長くなっていた。
痛みがない日は、端末を何度も確認した。
視聴者は彼の日常には興味を示さなかった。
食事の写真を載せても反応は薄い。
事故前の仕事の話をしても、数件のコメントしかつかない。
だが発作が始まれば、何万人もの人間が集まった。
『来た』
『L-27始まった』
『今日は強い』
蓮が何者であるかは、誰も気にしていない。
彼の好きなものも、事故の前に何を考えて生きていたかも。
必要とされているのは痛みだけだった。
それでも、必要とされないよりはよかった。
*
受賞の知らせが来たのは、専属契約から一年後だった。
『インクルーシブ・イノベーション大賞』
障害や疾患を持つ人々に、新たな経済参加の機会を与えた個人と企業を表彰する賞だった。
蓮はSENSE SHAREの代表者とともに登壇することになった。
会場には政治家、投資家、医療関係者、報道陣が集まっていた。
巨大なスクリーンに、企業の広告映像が流れた。
車椅子の女性が自宅で笑う。
義手の青年が旅をする。
病室の老人が孫へ贈り物を買う。
『働けない身体を、価値を生み出す身体へ。』
『誰もが、自分らしい方法で社会とつながれる未来。』
名前を呼ばれると、蓮は舞台へ出た。
長く歩くことはできなかったため、杖を使っていた。
客席から拍手が起きた。
その音は、ライブ配信の通知音とは違っていた。
画面越しではない。
本物の人間たちが、自分を見て、自分のために手を叩いている。
胸の奥が震えた。
司会者が蓮を椅子へ案内した。
「水城さんは、痛みという誰もが避けたいものを、人と人をつなぐ価値へ変えました」
蓮は笑顔を作った。
「ご自身の体験が、これほど大きな社会的意義を持つと想像していましたか?」
「いえ、最初は生活するためでした」
客席から、共感するような笑いが起きた。
「でも、たくさんの人から、勇気をもらった、救われたと言っていただいて……」
右足の先が熱くなった。
蓮は一瞬、言葉を止めた。
発作の前兆だった。
今日は来ないでほしいと思った。
その一方で、舞台上で発作が起きれば、大きな注目を集めることも分かっていた。
熱は足首から脛へ上がった。
皮膚の内側へ、熱した針を何百本も差し込まれる。
蓮の指が肘掛けを強くつかんだ。
「水城さん?」
司会者が声をかけた。
舞台袖のスタッフが動いた。
しかし救護のためではなかった。
スタッフは端末を確認し、企業の代表者へ合図を送った。
代表者が小さくうなずいた。
会場のスクリーンに、新しい表示が現れた。
《LIVE PAIN SESSION — AION Sensory Network》
《提供者:L-27》
客席からどよめきが上がった。
司会者の耳元に指示が入った。
彼女はすぐに笑顔を取り戻した。
「皆様、まさに今、水城さんが日々向き合っている痛みが発生しています」
拍手が起きた。
蓮は前屈みになった。
右脚から腰へ、鈍い衝撃が突き抜ける。
喉の奥から声が漏れた。
スクリーンの中央に、数値が表示された。
《疼痛強度 7.8》
《同時接続者数 84,302》
数字は増え続けた。
会場にいる参加者の端末にも通知が届いた。
《水城蓮氏の疼痛体験に参加しますか?》
《推奨強度:3%》
客席の人々が端末へ触れた。
一斉に、短い声が上がった。
眉をしかめる者。
肩をすくめる者。
隣の人間と顔を見合わせ、照れくさそうに笑う者。
三秒後には、彼らの痛みは終わった。
「すごいですね」
司会者は胸へ手を当てた。
「私も体験させていただきました。ほんの三パーセントでも、これほどの感覚です」
会場から感嘆の声が上がる。
「水城さんは、これを一〇〇パーセントで受けながら、多くの人に共有しているわけです」
拍手が大きくなった。
蓮は返事をしようとした。
だが、次の波が来た。
脚の骨を内側から砕かれるような痛みに、身体が椅子からずり落ちそうになった。
スタッフが椅子の背後へ近づき、画面に映らないよう支えた。
《疼痛強度 8.5》
《同時接続者数 192,840》
投げ銭の金額がスクリーンの端を流れていく。
客席から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「水城さん」
司会者が、感動で声を震わせながら尋ねた。
「この瞬間にも、あなたの痛みが多くの人を勇気づけています。今のお気持ちは?」
蓮は顔を上げた。
光が眩しかった。
何百人もの観客が、彼を見つめていた。
何十台ものカメラが、自分へ向けられていた。
スクリーンの中では、二十万人を超える人間が接続していた。
皆が彼を見ていた。
痛みのないときには、誰も見なかった彼を。
蓮は笑った。
嬉しいから笑った。
観客を安心させるために笑った。
顔の筋肉が痛みに引きつったため、笑っているように見えただけかもしれなかった。
蓮自身にも分からなかった。
「ありがとう……ございます」
声を絞り出した。
会場の全員が立ち上がった。
大きな拍手が降り注いだ。
蓮が立ち上がれないことには、誰も触れなかった。
*
身体の変化に最初に気づいたのは、蓮ではなく端末だった。
《直近30日間の平均疼痛強度が11.8%低下しています》
通知を見たとき、蓮は故障だと思った。
しかし、発作は確かに減っていた。
一日に七回あった痛みが、四回になった。
持続時間も短くなった。
検査をした医師は、画像を見ながら笑顔を見せた。
「損傷した神経の一部が、予想以上にうまく再生しています」
「治るんですか」
「完治とは言えません。ただ、このまま回復が進めば、日常生活への影響は大きく減るでしょう。仕事に戻ることも可能かもしれません」
事故以来、ずっと待っていた言葉だった。
蓮は何度も、痛みのない朝を想像していた。
杖を使わずに外を歩き、発作の時間を気にせずに働き、夜を眠って過ごす。
医師は喜んでいた。
蓮も笑わなければならないと思った。
だが最初に浮かんだのは、次月の収益だった。
配信回数は減っていた。
平均同時接続者数も、先月の半分になっていた。
コメント欄には、回復を祝う言葉が並んだ。
『よかったね』
『無理しないで』
『今までありがとう』
その下に、別のコメントが続いた。
『最近弱くない?』
『前はもっとすごかった』
『他の提供者の方がいい』
『回復したなら引退かな』
フォロワーが減り始めた。
企業から連絡が届いた。
『水城様の回復を、社員一同心よりお喜び申し上げます』
その次の文には、最低保証額の見直しについて書かれていた。
痛覚データの供給量が契約基準を下回ったため、翌月から報酬を四〇%減額する。
蓮は企業の担当者へ電話した。
「病気が良くなったんですよ」
「はい。大変喜ばしいことです」
「なのに収入を減らすんですか」
「報酬は提供量と需要に基づいて算定されます」
「俺は表彰までされた」
「水城様の功績が失われることはありません」
「じゃあ、これから俺はどうすればいいんですか」
担当者はしばらく黙った。
「就労支援制度をご案内することは可能です」
求人情報が送られてきた。
初心者向けの事務作業。
最低賃金に近い給与。
試用期間中は出社必須。
面接を受けた。
担当者は蓮の経歴よりも、配信者だったことに興味を示した。
「本物のL-27さんですよね」
「はい」
「いやあ、私も体験しました。あの授賞式、すごかったですね」
面接の最後に、不採用になる可能性を丁寧に説明された。
長期間の職務経験の空白があること。
症状が完全に治ったわけではないこと。
配信活動で著名になりすぎていること。
働ける身体に戻りつつあるのに、働く場所は戻らなかった。
ただ、商品価値だけが失われていった。
*
蓮は鎮痛剤を飲む時刻を遅らせた。
薬を飲まないわけではない。
配信が終わってから飲むだけだった。
リハビリを一度休んだ。
次の週も休んだ。
医師に理由を聞かれ、仕事が忙しいと答えた。
発作が起きやすい姿勢を、配信の前に長く続けた。
久しぶりに強い痛みが来ると、視聴者数は跳ね上がった。
『復活した』
『今日すごい』
『やっぱりL-27』
『おかえり』
蓮はその夜、半年ぶりの収益額を記録した。
翌朝、身体を起こせなかった。
けれど後悔はなかった。
自分はプロなのだと思った。
歌手は喉を酷使する。
競技者は身体を削る。
痛覚提供者が痛みを維持することの、何がおかしいのか。
企業からも、体調管理に関する助言が届いた。
『安定した提供活動のため、生活習慣と服薬タイミングの最適化をご検討ください』
薬を飲むなとは、どこにも書いていない。
リハビリをやめろとも書かれていない。
すべて蓮自身が決めたことだった。
それでも回復は止まらなかった。
痛みの波は小さくなり、発作の間隔は開いていった。
無理に身体へ負担をかけても、かつての強度には届かなかった。
ライブ配信を始めても、接続者は千人に満たなかった。
コメント欄は静かだった。
『今日は来そう?』
『もう寝る』
『通知だけつけとく』
*
蓮は暗い部屋で、過去の映像を見た。
授賞式。
巨大なスクリーン。
二十万人の接続者。
立ち上がって拍手する観客。
自分の名前を呼ぶ声。
映像の中の蓮は、苦しみながら笑っていた。
いまよりずっと、生きているように見えた。
蓮は何度も再生した。
痛みに耐えている自分を。
見つめられている自分を。
必要とされている自分を。
やがて蓮は端末を置き、準備を始めた。
何をすれば新しい痛みが残るかについて、調べる必要はなかった。
事故以来、自分の身体については医師よりも詳しくなっていた。
ただ、方法を決めるまでには時間がかかった。
失敗することが怖かったからだ。
身体を壊しただけで、売れる痛みが生まれなかったらどうする。
傷だけが残り、誰にも見られなかったら。
それでは、何の意味もない。
蓮は配信の予約を入れた。
タイトルには、こう書いた。
『L-27 新章』
待機者は三十二人だった。
蓮は少し笑った。
それから画面の外へ手を伸ばした。
*
しばらく、何も起こらなかった。
蓮は床に横たわり、天井を見ていた。
呼吸の音だけが、ひどく大きく聞こえた。
身体の別の場所が、壊れている。
それだけは分かった。
だが、痛みはまだ遠かった。
失敗したのかもしれない。
もう以前のような痛みは戻らない。
誰も、自分を見ない。
身体を傷つけたことよりも、その可能性の方が恐ろしかった。
やがて、これまでとは違う場所から、何かが立ち上がった。
最初は小さな熱だった。
すぐに、鋭い痛みへ変わった。
濁りがなく、息をするたびに形を変えた。
蓮自身も経験したことのない、新しい痛みだった。
視界が揺れた。
端末が反応した。
《新規疼痛データを検出しました》
《配信を開始しますか?》
蓮は震える指を伸ばした。
開始を押した。
画面の数字が動き始めた。
一人。
百人。
千人。
通知を受けたフォロワーたちが戻ってくる。
一万人。
久しぶりに投げ銭の音が鳴った。
軽やかな電子音が、暗い部屋に響いた。
コメント欄が流れ始めた。
『本物?』
『新しいタイプだ』
『強度一〇%でもやばい』
『L-27復活』
そして、同じ言葉がいくつも並んだ。
『おかえり』
『おかえり』
『おかえり』
蓮は笑った。
数字が戻ってきた。
世界が、もう一度彼を見ていた。
笑うたびに、新しい傷の奥で痛みが膨らんだ。
それでも蓮は笑い続けた。
誰が見ても、喜んでいるように見えただろう。
実際、彼は喜んでいた。




