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神に見捨てられたので、悪魔と資本提携した

作者: キュラス
掲載日:2026/06/10

「——以上の理由により、当教会は貴殿に対する『神の恩寵』、ならびに『聖戦事業における特別活動予算』の全額凍結を決定した」


ステンドグラスから差し込む七色の光が、白亜の床に冷たいモザイクを描き出している。

神聖なる王都の大聖堂。その最も奥まった謁見の間で、大司教は羊皮紙の束を冷徹な手つきで巻き直した。金糸で刺繍された法衣が擦れる音が、静まり返った堂内に異様に大きく響く。


祭壇の前に片膝をついていた男——レオン・アーグラーは、表情を変えることなくその言葉を受け止めた。


「理由は、お聞かせ願えますか。大司教猊下」

「理由だと? 自らの胸に問うてみるが良い、背信者レオンよ」


大司教は鼻を鳴らし、レオンを見下ろした。その目にあるのは明らかな侮蔑と、都合の悪いものを切り捨てる官僚特有の冷酷さだった。


「貴殿の率いる『第四聖騎士団』は、過去半年間において、魔王軍に対する物理的戦果を何一つ挙げていない。討伐した魔族の数はゼロ。奪還した領土もゼロ。そればかりか、貴殿は神聖なる予算を用いて、魔族の商人から魔石を買い付け、あろうことか異教徒のドワーフどもと共同で鉱山開発に投資したと聞く。これは神への明白な冒涜、いや、横領である!」


大司教の怒鳴り声が石造りの壁に反響する。

レオンは内心で深いため息をついた。彼らが「神聖なる戦い」と呼ぶものは、レオンの目から見ればただの泥沼の消耗戦だった。剣を振り回して下級魔族の首をいくつか持ち帰ったところで、戦局は一向に好転しない。魔王軍の強みは圧倒的な物量と魔力リソースであり、それを削るためには、彼らの補給線を絶ち、こちら側の経済基盤を盤石にする必要があった。


だからレオンは、あえて表立った戦闘を避け、魔王軍の末端にいる商人たちと裏取引を行い、彼らの経済活動に食い込んで内部から崩壊させる長期計画を立てていたのだ。ドワーフとの鉱山開発も、教会が独占する質の悪い魔石に依存せず、安価で強力なエネルギー源を確保するための先行投資だった。


しかし、硬直化した教会の老害たちに、マクロ経済学やサプライチェーンマネジメントの概念など理解できるはずもなかった。彼らが求めるのは、わかりやすい「英雄の武勇伝」と、神への「信心」という名目の絶対服従だけである。


「私の計画は、あと三ヶ月で損益分岐点を超えます。そうすれば、魔王軍の東部戦線における補給網は完全に麻痺し、同時に当方の国庫には現在の五倍の利益がもたらされる。帳簿をご覧いただければ——」

「黙れ! これ以上の詭弁は聞かん!」


大司教は苛立たしげに杖を床に突き立てた。


「神は貴殿を見捨てられた。本日この刻をもって、レオン・アーグラー、貴殿を聖騎士の任から解き、教会から追放する。本来ならば異端審問にかけるところだが、これまでの僅かな功績に免じて命だけは助けてやろう。二度と神の土地に足を踏み入れるな。……衛兵! この男をつまみ出せ!」


重装甲の衛兵たちが二人がかりでレオンの両脇を固める。

抵抗する意味はない。レオンは静かに立ち上がり、最後に祭壇の奥に鎮座する、黄金に輝く神像を見上げた。

救済も慈悲も与えない、ただ信徒から搾取するだけの偶像。


「……後悔しますよ。神の御業よりも、複利の力の方がこの世界ではよほど恐ろしいのだと、いずれ思い知ることになる」


捨て台詞としては上出来だったが、大司教の耳には届いていないようだった。

大聖堂の重厚な扉が閉まる音が、レオンのこれまでのキャリアの終わりを告げていた。


*****


王都から追放され、降りしきる冷たい雨の中をレオンは歩いていた。

身にまとっていた聖騎士の銀鎧は剥奪され、今はみすぼらしい旅の外套を羽織っているだけだ。懐にあるのは、隠し持っていたわずかな金貨と、これまでの取引のすべてを記録した裏帳簿のみ。


「さて、どうしたものか」


雨宿りに入った廃教会の軒下で、レオンは濡れた髪をかき上げた。

絶望感はなかった。むしろ、教会の煩わしい監査や、無能な上司の承認プロセスから解放されたという妙な清々しさすらあった。

問題は、彼の頭の中にある「対魔王軍経済制裁計画」という莫大な価値を持つプロジェクトを、いかにして再起動させるかだ。スポンサー(教会)を失った今、新たなパトロンを見つける必要がある。


王国の貴族たちは教会の犬であり、他国へ亡命するにしても時間がかかりすぎる。

必要なのは、強大な力と、現状を打破する強烈なインセンティブを持つ存在。


「……いるじゃないか。適任が」


レオンの唇に、薄く、しかし確かな笑みが浮かんだ。

敵の敵は味方。あるいは、最大のビジネスチャンス。

レオンは廃教会の奥深く、かつて異端の儀式が行われていたという地下室へと足を踏み入れた。


地下室の空気は淀み、カビと古い血の匂いが立ち込めていた。床には、長い年月を経て黒ずんだ魔法陣が描かれている。

レオンは懐から短剣を取り出し、自身の掌を躊躇いなく切り裂いた。滴る血を魔法陣の要となる刻印に垂らし、彼自身が独自に解析していた「異界の言語」による詠唱を紡ぐ。


教会の教義では絶対の禁忌とされる、悪魔召喚の儀式。

だが、神が資本を引き揚げたのだから、他から資金調達リソース・アロケーションを行うのは経営者として当然の判断だった。


「地獄の底で燻る者よ。契約の時だ。現れよ」


血を吸った魔法陣が、禍々しい赤黒い光を放ち始める。

空間が歪み、空気が急激に冷え込む。硫黄の匂いが地下室を満たし、次元の裂け目から、圧倒的な質量を伴う「影」が這い出してきた。


『……我を喚び出したのは、神の犬か?』


脳髄に直接響くような、重低音の思念。

影は徐々に形を成し、二本のねじれた角、漆黒の翼、そして山羊の脚を持つ、巨大で壮絶な姿の悪魔が顕現した。その全身からは、触れるだけで魂が消滅しそうな高濃度の瘴気が立ち上っている。


大悪魔。魔王軍においても最上位に位置するであろう、破格の存在。


「元・神の犬、だ。今はしがないフリーランスのコンサルタントといったところだな」

『狂人め。我を喚び出しながら恐怖すら抱かぬとは。お前の魂、さぞや美味であろうな。その身ごと喰らってやろう』


悪魔が巨大な爪を振り上げる。その一撃は、分厚い石の壁など容易く粉砕するだろう。

だが、レオンは一歩も引かず、懐から一冊の羊皮紙の束——彼が精魂込めて作り上げた事業計画書ビジネスプラン——を取り出し、悪魔の目の前に突きつけた。


「待て。私を喰えば、お前は一食分のカロリーを得るだけだ。だが、私と契約を交わせば、お前はこの世界の富の半分を手に入れることができる。どちらが投資対効果(ROI)が高いか、考える頭はあるか?」


悪魔の動きがピタリと止まった。

灼熱の双眸が、レオンと、彼が掲げる羊皮紙を値踏みするように見つめる。


『……ほう。命乞いにしては奇妙なことを言う。富の半分、だと?』

「そうだ。私は神に見捨てられた。そしてお前たちは、力はあるが常に教会の結界と物量作戦に押し戻され、ジリ貧の戦いを強いられている。違うか?」


魔王軍の弱点。それは「個の力」は強大だが、組織的な兵站ロジスティクスや経済基盤が圧倒的に脆いことだ。彼らは略奪でしか資源を得られず、長期戦になればなるほど不利になる。


『……貴様、我々魔族の台所事情まで把握しているというのか』

「全て計算済みだ。お前たちのアセットと、私の知略ノウハウ。この二つを掛け合わせれば、神の軍勢を経済的に破綻させ、物理的にも壊滅させることができる」


レオンは悪魔の目を真っ向から見据えた。


「これは魂の取引ではない。対等なパートナーシップ——『資本提携』の提案だ。どうだ、悪魔。私と一緒に、この腐りきった世界(市場)を独占モノポライズしてみないか?」


地下室に、静寂が降りた。

悪魔はしばらくの間、レオンを観察していたが、やがてその喉の奥から、地鳴りのような笑い声を漏らし始めた。


『クックック……ハハハハハ! 面白い! 神の元使徒が、我にビジネスを持ちかけるとはな!』


悪魔は巨大な姿を揺らし、人間大のスマートな執事服を着た青年の姿へと変化した。その目は依然として赤く燃えているが、そこには明らかな知性と好奇心が宿っていた。


「我が名はアモン。魔界の財務を統括する大公爵だ。貴様の提案、プレゼン次第では乗ってやってもいいぞ、人間」

「レオン・アーグラーだ。よろしく頼む、アモン大公爵」


レオンは、アモンが差し出した青白い手と、固く握手を交わした。

神に見捨てられた男と、魔界の財務担当悪魔。

決して交わるはずのなかった二つの規格外な才能が、ここに最悪で最強のジョイントベンチャーを設立した瞬間だった。


*****


握手を交わしたその手から、じり、と鼓膜を焼くような微弱な魔力が伝わってくる。

常人であれば、大悪魔と肌を合わせただけで精神を破壊されかねない濃密な瘴気。しかしレオンは表情一つ変えず、アモンの手のひらの温度、そして彼が内包する底知れぬ魔力量を、まるで優秀な工作機械でも査定するかのように推し量っていた。


「して、レオンとやら。我にどのような利益リターンをもたらすつもりだ? 神の威光を失ったただの人間が、魔界の財務統括たる我を納得させるだけの青写真を描けるのか?」

「当然だ。まずはこれを見てくれ」


レオンは先ほどまでアモンに突きつけていた羊皮紙の束——彼が長年書き溜め、教会の上層部に黙殺された事業計画書——を広げた。

そこには、王国の流通網、教会の資金源である『聖魔石』の採掘ルートと価格推移、そして魔王軍の支配地域の資源分布図が、緻密な数式とグラフを用いて記されていた。


「現在、人間界の経済は教会の『聖魔石』によるエネルギー独占によって成り立っている。鍛冶、錬金、都市の防衛結界。すべてが教会の発行する高価な魔石に依存している状態だ。これは完全な独占市場であり、教会が価格を吊り上げれば、王国経済は容易にインフレを起こす」

『ふむ。我々魔族は己の魔力で事足りるゆえ、石に頼る人間の脆弱さは常々滑稽に思っていたが……それがどうした?』

「ここからが本題だ。私は教会に追放される直前、異教徒のドワーフたちが管理する『ガルド鉱山』の権利の一部を個人的に買い付けていた。ここは質の悪い魔石しか出ないとされ、教会から見捨てられた廃鉱山(不良債権)だ。だが、私の調査では、この鉱山の地下深くには『魔導伝導率』が極めて高い特殊な鉱脈が眠っている」


レオンの目が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。


「アモン、お前のその無尽蔵とも言える大悪魔の魔力……それをこの特殊鉱脈から採掘した石に直接『充填』し、パッケージ化して市場に流通させる。教会の『聖魔石』よりも安価で、高出力で、長持ちする次世代エネルギー。名付けて『アビス・バッテリー』の製造だ」

『……なんだと?』


アモンは目を丸くした。悪魔の魔力を、人間に売りさばく?


『正気か? 人間の脆弱な肉体や機械が、魔界の濃密な瘴気を帯びたエネルギーに耐えられるはずがなかろう。それに、教会が異端のエネルギーの流通を許すはずがない』

「耐えられるように、私が『魔力変圧陣』を設計済みだ。それに、教会が許さなくても、市場マーケットは必ず我々を選ぶ。人間とは強欲な生き物だ。生産コストが10分の1になるエネルギーがあれば、法や教義をくぐり抜けてでも必ず手を伸ばす。闇市場からじわじわと流通させ、既存の産業構造を根底から塗り替える。教会の資金源である聖魔石の価値が暴落した時……それが、神の軍勢の経済的死を意味する」


レオンの言葉に、アモンはしばらく絶句していた。

武力による侵略ではなく、エネルギー革命と価格破壊による市場の掌握。

それは、何百年もの間、血と肉の削り合いしか知らなかった魔界の住人にとって、あまりにも異質で、そして……あまりにも合理的で恐ろしい侵略計画だった。


『……クッ、ハハハハハハハ!』


アモンは腹を抱えて爆笑した。スマートな執事服の肩を震わせ、涙を浮かべるほどに。


『傑作だ! 武力で城を落とすのではなく、帳簿の数字で国を落とすというのか! いいだろう、レオン・アーグラー。貴様のその悪魔よりも悪魔的な知略、我の魔力で現実のものとしてやろう。今日から我が、貴様の事業の筆頭株主スポンサーだ!』

「助かる。では、善は急げだ。まずは拠点の確保と、初期メンバーの引き抜きに向かうぞ」


*****


三日後。王都から北西に百キロほど離れた山岳地帯。

土埃と鉄の匂いが立ち込めるドワーフの坑道街、ガルド。

かつては活気に満ちていたこの街も、現在は教会の監査が入り、資金援助が打ち切られたことで、活気を失いスラム化しつつあった。


街の中心にある、火の気のない巨大な鍛冶工房。

その奥で、筋骨隆々としたドワーフの工房長、ゴルンが頭を抱えていた。彼の目の前には、未払いの請求書と、差し押さえの警告文が山のように積まれている。


「クソッ……教会の連中め、自分たちが投資を打ち切っておきながら、期限前に全額返済しろだと? 無茶苦茶にも程がある。これでは鉱山を手放すしか……」

「相変わらず、資金繰りに苦労しているようだな、ゴルン」


工房の入り口から聞こえた声に、ゴルンは弾かれたように顔を上げた。

そこに立っていたのは、見慣れた銀の鎧ではなく、仕立ての良い黒い外套を羽織ったレオンと、その後ろに控える、氷のように冷たい微笑を浮かべた長身の青年——人間に偽装したアモンだった。


「レ、レオン様!? いや、あんた、教会を追放されたんじゃなかったのか! 噂では異端審問にかけられたとか……」

「幸い、命だけは助かってね。今日は元上司としての視察ではなく、一人の投資家として商談に来た。このガルド鉱山の負債、私が全額肩代わりしよう」

「な、なんだって……!?」


ゴルンは目を丸くした。ガルド鉱山の負債は、小さな国が一つ買えるほどの額に膨れ上がっているのだ。


「ただし、条件がある」

レオンは懐から新しい契約書を取り出し、テーブルの上に滑らせた。

「この鉱山の採掘権、および今後の利益の80パーセントを私が設立した新会社『アビス・コンサルティング』に譲渡すること。そして、工房のすべての設備を、私が指示する通りに改修することだ」

「80パーセントだと!? 足元を見るのも大概にしろ! それじゃあ俺たちは、あんたの小作農と同じじゃねえか!」


激昂するゴルンに対し、レオンは極めて冷静だった。


「小作農で結構。だが、約束しよう。半年後には、残りの20パーセントの利益だけで、お前たちドワーフ一族が遊んで暮らせるだけの富をもたらすと」

「大言壮語を……!」

「口で言うより、実演デモを見せたほうが早いか。アモン」


レオンが顎でしゃくると、後ろに控えていたアモンが一歩前に出た。

「承知いたしました、CEO(最高経営責任者)」


アモンはうやうやしく一礼すると、工房の奥にある、火が消えて久しい巨大な魔導溶鉱炉へと歩み寄った。そして、手袋を外した白い手を、炉の表面にそっと触れる。


『――【原初のイグニッション】』


ドォォォォォォンッ!!!


瞬間、溶鉱炉が爆発的な轟音を立てて起動した。

内部で燃え上がったのは、通常の赤い炎ではない。青白く、時折漆黒の揺らめきを見せる、この世のものとは思えない超高温の魔炎だった。

あまりの熱量と魔力の奔流に、工房内の空気がビリビリと震え、ゴルンの顎の髭が静電気で逆立つ。


「な、なんだこれは!? 聖魔石もなしに、溶鉱炉の出力が通常の……いや、500パーセントを超えているぞ!? 炉が溶けちまう!」

「心配ない。彼の魔力は私が組んだ術式で最適化されている。ゴルン、これを見てもまだ、私の提案がハッタリだと思うか?」


圧倒的な現実を前に、ドワーフの親方はへたり込んだ。

教会の支配下で細々とクズ魔石を掘るか、それとも、この得体の知れない男たちの配下となり、未知のエネルギー革命に加担するか。

経営者として、そして技術者としての魂が、どちらを選ぶべきかなど火を見るより明らかだった。


「……わかった。あんたたちの傘下に入る。好きにしろ」

「賢明な判断だ(グッド・ディシジョン)。契約成立だな」


レオンがゴルンと固い握手を交わしたその時だった。


「――そこまでにしておけ、異教徒ども」


工房の外から、甲高い冷笑が響いた。

数十名の重武装の教団兵を引き連れて現れたのは、まるまると太った教会の特務監査官と、彼に媚びを売る地元の悪徳商人だった。


「元・第四聖騎士団長レオン・アーグラー。貴様がこの廃鉱山に現れると踏んで、見張らせておいて正解だった。教会から追放された身でありながら、教会の資産であるこの鉱山で勝手な取引を行うなど言語道断! 今すぐその契約書を破棄し、ドワーフどもと共に投降しろ!」

監査官が豚のように鼻を鳴らして叫ぶ。


ゴルンが青ざめた顔でレオンを見た。

「し、しまった……教会の連中、差し押さえを前倒しにしやがったんだ!」

「心配するな、想定の範囲内コンティンジェンシープランだ」


レオンは全く慌てることなく、ゆっくりと監査官に向き直った。


「監査官殿。法律と契約書をよく読み直すことをお勧めする。私が教会の役職を解かれたのは三日前だ。しかし、このガルド鉱山の債権譲渡契約は、私がまだ聖騎士団長であった『一週間前』の日付で、正当な権限の元に決済されている。つまり、この鉱山の現在の所有権は完全に私個人にあり、教会が口出しする法的根拠は一切存在しない」

「な、なんだと……!? そ、そのような小細工が通用すると思うか! 異教徒に与する逆賊め、力ずくで奪い取ってくれるわ!」


監査官が顔を真っ赤にして教団兵に突撃を命じようとした。

武力による強制執行。論理が通じない相手が最後に取る、最も愚かな手段。

レオンは小さくため息をつき、隣に立つ青年に視線を向けた。


「アモン。我が社の記念すべき『初仕事』だ。コンプライアンスの範囲内で、彼らに『退去勧告』をお願いできるか?」


悪魔は、三日月のように口角を吊り上げた。


「御意のままに。未熟な投資家どもに、本物の『絶望』という名の負債を叩き込んで差し上げましょう」


アモンの背後で、空間がぐにゃりと歪み、漆黒の翼の幻影が広がった。


教団兵たちが抜刀し、殺気を放ちながら突撃を仕掛けようとしたその瞬間——。


アモンの背後に展開された漆黒の翼の幻影が、バサリ、と音を立てて羽ばたいた。

ただそれだけだった。物理的な衝撃波が起きたわけでも、炎が吹き荒れたわけでもない。

しかし、その場にいた全員の動きが、まるで時間が停止したかのようにピタリと止まった。


「な、に……?」


教団兵のひとりが、震える声で呟く。

彼らの足は地面に縫い付けられたように動かず、剣を握る手はカタカタと痙攣していた。視界が歪み、極度の重圧に肺が押し潰されそうになる。

それは圧倒的な「格の違い」から来る、生物としての本能的な恐怖だった。大悪魔が放つ濃密な瘴気は、致死量ギリギリに調整されたプレッシャーとして、彼らの神経を直接焼き焦がしていたのだ。


「強制執行と息巻いていた割には、随分と貧弱な資産アセットですね」


アモンは優雅な足取りで、硬直する教団兵たちの間を歩き抜ける。

彼が指先で軽く触れただけで、教団兵たちの分厚い鋼鉄の鎧が、まるで飴細工のようにドロドロと溶け落ちていった。さらに、彼らが握りしめていた教会の支給品である聖銀の剣が、ひび割れ、粉々に砕け散る。


「ヒィッ……! あ、悪魔……! 悪魔だぁぁっ!」


武装を失い、恐怖で完全に戦意を喪失した兵士たちが、次々と腰を抜かして床に這いつくばる。

アモンは命までは奪わなかった。レオンの言う『コンプライアンスの範囲内』——すなわち、非殺傷による無力化と、相手の武装(物理的資産)のみを的確に破壊リデュースするという完璧な仕事ぶりだった。


「ひっ、ひぃぃ……! ば、化け物め! 神の罰が下るぞ!」

「神の罰、ですか。それはこの請求書の束よりも恐ろしいのでしょうか?」


腰を抜かして後ずさりする監査官の首根っこを、アモンがヒョイと持ち上げる。

冷え切った赤い瞳に見つめられ、監査官は恐怖のあまりズボンを濡らした。


「アモン、そこまでにしておけ。回収見込みのない不良債権をいじめても時間の無駄だ」


レオンの静かな声に、アモンは「御意」と短く応え、豚のような監査官をゴミのように床へ放り投げた。

レオンは震える監査官を見下ろし、冷酷な笑みを浮かべた。


「大司教猊下に伝えておけ。不法侵入と器物破損の賠償請求は後日きっちりと送らせてもらう。それと……『自由競争の時代が来るぞ』とな」


監査官は涙と鼻水にまみれながら何度も首を縦に振り、這うようにして教団兵たちと共に坑道から逃げ出していった。

静寂を取り戻した工房で、ゴルンたちドワーフはあんぐりと口を開けたまま、レオンとアモンを交互に見つめていた。


「……レオン様、あんた、とんでもないバケモノと手を組んだんだな」

「優秀なビジネスパートナーだ。さあゴルン、邪魔者も消えたことだし、作業に取り掛かろうか。世界を根底からひっくり返すぞ」


*****


それから、わずか三ヶ月の出来事だった。


王国の経済は、かつてない激震に見舞われていた。

震源地は、闇市場から突如として流通し始めた謎のエネルギーユニット——『アビス・バッテリー』。

ドワーフの緻密な金属加工技術で作られた手のひらサイズの円筒形デバイスは、既存の教会の聖魔石と互換性を持ちながら、出力は三倍、寿命は五倍、そして何より価格が『十分の一』という、常軌を逸した代物だった。


当初、教会はこれを「異端の穢れた石」として使用を固く禁じ、所持者を厳罰に処すと布告した。

しかし、市場の原理は教義よりもはるかに強大だった。

鍛冶屋の炉は聖魔石よりも高温で安定し、農具を動かすゴーレムは夜通し働き続け、都市の防衛結界はより強固になった。生産コストの大幅な削減は、商人たちに莫大な利益をもたらし、彼らは裏帳簿を使ってこぞってアビス・バッテリーを買い求めた。


さらには、教会の重税に苦しんでいた地方貴族たちまでもが、領地の財政再建のために密かにアビス・バッテリーを導入し始めたのだ。


需要デマンド供給サプライを上回っている。第二工場の稼働を急げ」


ガルド鉱山を改装した巨大な本社ビル。

その最上階の執務室で、レオンは次々と舞い込む注文書に目を通しながら、COO(最高執行責任者)に任命したゴルンに指示を飛ばしていた。

アモンから抽出される無限の魔力を、ドワーフの技術で安全な形にパッケージ化する。魔王軍への牽制として、魔族側の流通網にも同じものを高値で卸すことで、魔界側の資金も密かに吸い上げていた。


「レオン様、王都の商人ギルドから、大口の独占契約の申し出が来ています!」

「断れ。我々はプラットフォーマーだ。特定のギルドに便宜は図らない。市場全体に均等にばら撒き、既存の聖魔石の価値を底まで叩き落とせ」


レオンの読み通り、教会が独占していた聖魔石の価格は暴落した。

資金繰りが悪化した教会は、聖騎士団への給与支払いが滞り始め、傭兵や優秀な兵士たちが次々と離反。対魔王軍の前線は維持できなくなり、教会は急速にその権威と武力を失っていったのだ。


*****


そして、半年後。

神聖なる王都の大聖堂。かつてレオンが追放を宣告された、あの謁見の間。


「なぜだ……! なぜ誰も寄付をよこさん! なぜ聖魔石が売れんのだ!」


大司教は、祭壇の前で頭を掻き毟っていた。

豪奢だった法衣はすり切れ、金や宝石で飾られていた調度品の多くは、当面の運転資金を捻出するために売り払われ、堂内はひどく殺風景になっていた。

国庫からの補助金も打ち切られ、教会の台所事情は火の車どころか、完全に焦げ付いている。


「猊下……! もはや、当教会の負債額は天文学的な数字に達しております。王都の第三銀行も、これ以上の融資は不可能だと……!」

「ええい、黙れ! 神の代理人たる我々に金を貸さぬなど、なんたる不敬! こうなれば強制徴収だ! 異教徒どもの資産を差し押さえろ!」


わめき散らす大司教。しかし、その時。


カツン、カツン、と。

静まり返った大聖堂に、上質な革靴が白亜の床を叩く足音が響いた。


「強制徴収、ですか。それは感心しませんね。債権回収の手続きは、法律に則って正当に行うべきだ」


大司教が弾かれたように振り向く。

そこに立っていたのは、最高級の漆黒のスーツを身に纏い、冷徹な微笑を浮かべるレオン・アーグラーと、その背後に影のように付き従う、執事服の青年アモンだった。


「き、貴様は……レオン! 異端者め、よくも抜け抜けと神の御前に顔を出せたな! 衛兵! こやつを捕らえろ!」


大司教が叫ぶが、反応はない。大聖堂を警備するはずの衛兵たちは、未払いの給与に愛想を尽かし、すでに全員が職場を放棄していた。


「無駄ですよ、大司教猊下。現在、この大聖堂にあなたを守る戦力アセットは一人も残っていない」

「な、何を企んでいる……! 貴様が裏で糸を引いて、教会の経済を混乱させたことはわかっているのだぞ!」

「混乱? 人聞きの悪い。私はただ、市場に『より良い選択肢』を提供しただけです。それに、今日私がここに来たのは、復讐などという非生産的な目的のためではありませんよ」


レオンは懐から、分厚い書類の束を取り出した。

それは、大司教が各方面から借り入れていた莫大な借金の借用書だった。


「王都の第三銀行をはじめ、あなたが資金を借り入れていたすべての金融機関から、当『アビス・コンサルティング』が債権を買い取らせていただきました。つまり、現在のあなたの最大の債権者は私です」

「なっ……!?」


大司教の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「返済期限は本日正午。しかし、現在の教会の財務状況を見るに、現金での返済は不可能と判断しました。よって——」


レオンは書類を大司教の足元に投げ捨てた。


「担保として設定されていた、この大聖堂の土地および建造物、ならびに教会のすべての利権を、当方が『差し押さえ』させていただきます」

「ば、馬鹿な! ここは神の家だぞ! 一介の商人が神の土地を奪うなど、許されるはずがない!」

「神は私を見捨て、予算を凍結した。ならば、今度は私が神を市場から退場デルストさせる番だ」


レオンの冷酷な宣告に、大司教は膝から崩れ落ちた。

かつてレオンを見下ろしていた男の哀れな姿を見つめながら、アモンがクスクスと肩を揺らして笑う。


「素晴らしい手腕ですね、我がCEO。物理的な血を一滴も流さず、神の牙城を落としてみせるとは」

「言っただろう、悪魔。この世界では、神の威光よりも複利の力の方が恐ろしいのだと」


レオンは主のいなくなった大司教の椅子——かつて神の代理人が座っていた玉座へと歩み寄り、そこに深く腰を下ろした。

窓から差し込む七色の光が、今やこの世界の新しい支配者となった男を照らし出す。


神聖なる教団は破産し、無能な上層部は一掃された。

魔王軍との不毛な戦争も、アビス・バッテリーの供給をレオンがコントロールしている以上、もはや彼らが大規模な侵攻を起こすことは物理的に不可能である。

剣と魔法による血みどろの時代は終わりを告げた。これからは、情報と資本が世界を支配するのだ。


「さて、アモン。次は魔王軍の残存勢力に対する『M&A(企業買収)』の準備に取り掛かるぞ。世界市場の完全独占まで、休んでいる暇はない」

「御意のままに。地獄の果てまで、あなたに投資し続けましょう」


神に見捨てられた元・聖騎士は、悪魔との資本提携により、見事この異世界の覇権シェアを握ったのだった。


*****


血と硝煙の匂いが染み付いた、魔界の最深部。

空は常に赤黒く淀み、ひび割れた大地からは絶えず灼熱のマグマが噴き出している。その過酷な環境の只中にそびえ立つのが、魔王軍の総本山たる『黒曜宮』だった。


現在、その広大な円形の玉座の間では、かつてないほど悲壮な空気が漂う軍議が開かれていた。


「——東部戦線の第参軍団、事実上の壊滅! 人間どもの要塞から放たれた『新型の魔導砲』により、我らが誇る重装甲オーガ部隊が文字通り蒸発いたしました!」

「西部戦線も同様です! これまで人間の農村を襲撃し、食糧と物資を調達して参りましたが……現在、どの村にも高出力の防衛結界が張り巡らされており、下級魔族では指一本触れることすら叶いません。兵站は完全に崩壊、前線では飢餓と魔力枯渇による脱走者が相次いでおります!」


報告を読み上げる文官魔族の声が、恐怖で震えている。

円卓を囲む魔王軍の最高幹部たちの顔色は、一様に土気色だった。


かつて、人間界は彼らにとって広大な『狩り場』に過ぎなかった。

教会の支配下にあった人間たちは、高価な聖魔石に依存するあまり一部の貴族と騎士しかまともな武装を持たず、防衛力は常に手薄だった。魔王軍はそこを突き、略奪を繰り返すことで自らの経済を回してきたのだ。


しかし、ここ数ヶ月で状況は劇的に変わった。

『アビス・バッテリー』と呼ばれる、安価で異常な出力を持つ魔力ユニットが人間界に爆発的に普及したのだ。

結果として、人間の末端の農民に至るまで強力な魔導具を武装するようになり、村の周囲には分厚い結界が常時展開されるようになった。物理的な力と数で押し切る魔王軍の『脳筋戦法』は、高度に工業化された人間の防衛システムの前では、あまりにも無力だった。


「おのれ、人間どもめ……! どこからあのような規格外のエネルギー技術を手に入れたというのだ!」


円卓を拳で叩き割らんばかりに憤慨したのは、魔王軍随一の武闘派として知られる将軍、炎魔えんまのベリアルだった。その全身から怒りの業火が吹き上がり、周囲の空気を歪ませる。


「ええい、こうなれば全軍を挙げての総力戦だ! 小賢しい結界ごと、王都を灰塵に帰してやる!」

「無理を仰るな、ベリアル将軍。総力戦を行うための『資金』がどこにあるというのですか」


静まり返った円卓に、冷や水を浴びせるような声が響いた。

声の主は、玉座の間の一角にある巨大な扉の影から現れた。


「なっ……! 貴様、アモンか!?」


ベリアルが驚愕の声を上げる。

そこに立っていたのは、数ヶ月前から姿を消していた魔界の財務統括、大公爵アモンだった。しかし、その姿は以前の禍々しい悪魔の形態ではなく、人間の執事が着るような仕立ての良い漆黒のスーツを身に纏っている。


さらに幹部たちを驚かせたのは、アモンの前を歩く『ただの人間』の存在だった。

銀髪を後ろで無造作に束ねた、冷たい瞳を持つ男。

かつて聖騎士団長として魔王軍の前に立ちはだかっていた男、レオン・アーグラーが、あろうことか魔王の御前会議に堂々と足を踏み入れたのだ。


「貴様ぁっ! 元・神の犬が、いかなる方法で魔界に侵入した! アモン、貴様狂ったか! 人間を玉座に招き入れるなど、万死に値するぞ!」

「やかましいですよ、ベリアル。私は今、魔界ここのどの幹部よりも、有意義な『出張』から戻ったところです」


アモンは冷笑を浮かべ、スーツの襟を正した。


「紹介しましょう。こちらが、人間界のエネルギー市場を完全に掌握し、教会を経済的に破綻させた男。そして現在、我が直属の上司(CEO)であらせられる、レオン・アーグラー様です」

「な、なんだと……!?」


ざわめきが玉座の間を駆け巡る。教会が崩壊したという噂は魔界にも届いていたが、まさかそれがこの男の仕業だったとは。


レオンは周囲の殺気を意に介する様子もなく、スタスタと円卓に歩み寄ると、手に持っていたアタッシュケースをドン、と置いた。


「初めまして、魔王軍の諸君。アビス・コンサルティング代表のレオンだ。今日は君たちの『経営再建』の提案にやってきた」

「ふざけるな人間! 我らが貴様ら下等生物の世話になるとでも——」


ベリアルが腰の剣に手をかけた瞬間、レオンの鋭い視線が彼を射抜いた。


「口を慎め、無能な負債(不良債権)が」


その声には、武力による威圧とは違う、絶対的な『数字の暴力』を背景にした重圧があった。

レオンはアタッシュケースを開き、分厚い決算報告書のような束を円卓にばら撒いた。


「現状の魔王軍の財務状況を査定させてもらった。結論から言うと、君たちは完全に『債務超過』に陥っている。略奪ベースの自転車操業モデルは、人間界の防衛力向上により破綻。前線の維持費、兵の食費、魔導兵器のメンテナンス代……現在の君たちの赤字額は、魔界の全資産を売り払っても到底賄えない額だ」


レオンは冷徹な事実を突きつける。

幹部たちは書類に目を落とし、そこに記された絶望的な数字の羅列に言葉を失った。彼らは戦うことしか知らず、兵站や経済といった概念を軽視し続けてきたツケが、ここにきて爆発したのだ。


「戦いは、剣を交える前に決まっている。君たちは物理的に負けたのではない。経済闘争で私に敗北したのだ。人間界の防衛力を飛躍的に高めた『アビス・バッテリー』の製造元は、我が社だからな」

「き、貴様が……あの忌々しい魔導具を作ったというのか……!」

「ああ。そして、魔王軍がこのまま無意味な突撃を続ければ、あと一ヶ月で組織は完全に崩壊し、魔族は人間たちに狩られるだけの絶滅危惧種へと転落するだろう」


レオンの言葉は、氷のように冷たく、そして紛れもない真実だった。

沈黙が支配する玉座の間で、ベリアルだけが激しく吼えた。


「戯言を! ならばここで貴様の首を刎ね、そのアビス・バッテリーとやらの製法を奪い取れば済む話だ!」


業火を纏った大剣が、レオンの脳天に向かって振り下ろされる。

幹部たちが息を呑んだ——が、レオンは一歩も動かず、瞬きすら打たなかった。


キィィィィィンッ!!!!


ベリアルの大剣は、レオンの頭上わずか数センチの空中で、透明な障壁に弾き返された。

障壁の表面には、青白く、そして漆黒の揺らめきを持つ魔力の波紋が広がっている。


「な、なんだこの尋常ではない硬度の結界は……!?」

「アビス・バッテリーの出力テストを兼ねて、私のコートの裏地に特注のパーソナル防衛結界を組み込んである。君程度の物理攻撃なら、あと三日は連続で耐えられる計算だ。それよりも——」


レオンが指を鳴らすと、背後に控えていたアモンの姿がブレた。

次の瞬間、アモンはベリアルの背後に立ち、その首筋に冷たい爪を突き立てていた。


人事部わたしの許可なく、代表に物理的接触を図ることは社則違反ですよ、ベリアル将軍。減給……いや、この場合は『懲戒免職』が妥当ですね」


アモンから放たれる圧倒的な瘴気と殺意に、ベリアルの巨体がガタガタと震え出す。

同格だったはずのアモンが、以前とは比較にならないほどの高密度の魔力を帯びている。それは、アモン自身の魔力をアビス・バッテリーの技術で最適化し、ロスなく循環させることで得られた、未知の領域の力だった。


「ひっ……!」


剣を取り落とし、床にへたり込むベリアル。

もはや、玉座の間にレオンとアモンに逆らえる者はいなかった。


「さて、暴力による非生産的なやり取りはこれくらいでいいだろう」


レオンは円卓の奥、これまで一言も発することなく沈黙を守っていた巨大な影——魔王——に向かって語りかけた。


「魔王よ。提案はシンプルだ。魔王軍は武装を解除し、本日をもって我が『アビス・コンサルティング』の完全子会社となること。君たちの有り余る身体能力と魔力は、破壊や略奪ではなく、我が社のエネルギー事業やインフラ整備のための『労働力』として再配置リスキリングさせてもらう」

「……」

「もちろん、悪い話ではない。労働には対価を支払う。福利厚生も完備だ。少なくとも、飢餓と隣り合わせの今の環境よりは、はるかに文化的で豊かな生活を約束しよう。……どうする? ここで誇りを抱いて破産(死)を選ぶか、それとも、私の下で新たな時代のビジネスマンとして生き残るか」


張り詰めた空気の中、玉座の影がゆっくりと動いた。

そして、重々しい、地鳴りのような声が響いた。


『……週休、二日制は導入されるのか?』


その予想外の質問に、ベリアルをはじめとする幹部たちがズッコケそうになる。


「あ、魔王様!? 何を日和っているのですか!」

『黙れベリアル。余はもう疲れたのだ。勇者が来るたびに城の罠を張り直し、予算をやり繰りし、クレーム処理に追われる日々に……!』


魔王は玉座から立ち上がり、その巨体に似合わない疲労困憊した顔を覗かせた。


『レオンとやら。貴様の言う通り、我々はもう限界だ。経理は逃げ出し、城の修繕費すら出せん。傘下に入ることで、この終わりの見えない残業地獄から解放されるというのなら……喜んで印鑑サインを押そう』

「賢明な判断だ。有給休暇も完全消化させるホワイトな職場環境を約束しよう」


レオンは、魔王が提示した誓約書にサインするのを満足げに眺めた。

これで、人間界最大の脅威であった魔王軍は、一滴の血を流すこともなく、巨大企業アビスの一事業部へと吸収合併(M&A)されたのだ。


「ふふ、これで世界の労働力リソースは完全に我々のものですね、CEO」

「ああ。教会という非効率な権威を排除し、魔王軍という暴力装置を解体・再利用する。これでようやく、この異世界(市場)を正しく成長させるための土台が整った」


レオンは魔王城のバルコニーへと歩み出て、赤黒い魔界の空を見上げた。


「次は、天界でふんぞり返っている『神』という名の大株主に、敵対的TOB(株式公開買付)を仕掛ける番だ。世界の経営権は、私がいただく」


神に見捨てられた男は、悪魔と手を組み、ついに世界の理そのものを買い占めるための次なる事業計画ビジネスモデルを思い描き、冷酷な笑みを深めるのだった。


*****


魔王軍を「完全子会社化」してから三年。

世界は、劇的なパラダイムシフトの只中にあった。


王都の中心部には、かつての大聖堂の跡地に超高層ビル『アビス・ホールディングス本社』がそびえ立っている。

街の景色は一変した。馬車は魔導車へと置き換わり、夜の闇はアビス・バッテリーを動力源とする煌びやかな魔導街灯によって駆逐された。

空には荷物運搬用のゴーレムが飛び交い、かつて人間を襲っていたオークやゴブリンたちは、お揃いの作業着を着てインフラ整備の現場で汗を流している。魔族の強靭な肉体と無尽蔵の体力は、土木建築や物流ネットワークにおいて最高の労働力リソースだった。


「本日の日経……もとい、王都経済新聞の朝刊です、CEO。我が社の株価は今日もストップ高。人間界のエネルギーインフラの98パーセント、物流の85パーセントを我が社が独占モノポライズしました」


最上階の豪奢なペントハウス。

淹れたてのコーヒーの香りが漂う執務室で、完璧な身なりのアモンがタブレット端末——ドワーフと魔族の技術を融合させた最新型の情報機器——をスワイプしながら報告する。


革張りのチェアに深く腰掛けたレオンは、眼下に広がる巨大な近代都市のパノラマを見下ろしながら、微かに口角を上げた。


「順調だな。魔族たちへの給与の支払いや、福利厚生の満足度はどうなっている?」

「極めて良好です。週休二日制と有給休暇の導入により、魔族たちの労働意欲はかつての『魔王軍時代』とは比較にならないほど向上しています。特に魔王改め『アビス総務部長』は、休日に人間界の温泉巡りをするのが趣味になり、すっかり会社に忠誠を誓っておりますよ」


アモンがクスクスと笑い声を漏らす。

かつて血で血を洗っていた人間と魔族は、今や「資本」という名の巨大なシステムの歯車として、完全に共存していた。誰もが豊かになり、誰もが明日の生活を脅かされることのない世界。

平和は、剣ではなく経済によってもたらされたのだ。


「しかし、CEO。この平穏も長くは続かないかもしれません。我々が人間から『祈り』を奪いすぎたせいで……ついに上の連中が、実力行使に出る準備を始めたようです」


アモンがタブレットの画面を切り替えると、王都の上空の魔力観測データが表示された。

成層圏の遥か上空、空間の次元境界線に、異常な質量のエネルギーが蓄積されつつある。


「『神界』からの直接介入か」

「ええ。人間が自立し、教会が崩壊したことで、神々への信仰心エネルギーソースは完全に枯渇しました。彼らにとって人間界は、自分たちを養うための『農場』のようなもの。勝手に独立採算制に移行されては、困るのでしょう」


レオンはコーヒーカップをデスクに置き、ゆっくりと立ち上がった。


「神々が自らコンプライアンス違反を犯して、武力介入してくるというなら好都合だ。これで心置きなく、天界の全資産を差し押さえることができる。……アモン、全社員に『特別防衛警戒(レベル5)』を通達しろ。神の御使いどもに、現代の防衛システムの何たるかを教えてやる」


*****


その日の正午。

王都の上空が、突如として黄金の光に包まれた。

雲が円形に吹き飛び、天が割れる。そこから姿を現したのは、純白の翼を広げた数万の「天使の軍勢」だった。


『——愚かなる人の子らよ。そして、地を這う魔の眷属どもよ』


空全体から、脳髄を直接揺らすような荘厳な声が響き渡る。

天使たちの先頭に浮遊するのは、六枚の光の翼を持つ最高位天使、熾天使セラフィムのミカエルだった。彼が手にする炎の剣からは、世界を容易く灰にするほどの神気が立ち上っている。


『貴様らは神の定めた摂理から外れ、汚らわしき悪魔と手を結び、地上の理を乱した。我ら天軍はこれより地上を浄化し、再び絶対なる神の統治を敷くものである! 平伏せよ、さもなくば滅びの光に焼かれるが良い!』


王都の市民たちは空を見上げた。

かつての彼らなら、神の威光を前にただ震えて祈るしかなかっただろう。しかし今、彼らの瞳にあるのは恐怖ではなく、突然現れて生活インフラを脅かそうとする「不審者」を見るような、冷ややかな視線だった。


アビス本社ビルの屋上に、レオンとアモンが姿を現す。

拡声の魔導具を手にしたレオンの声が、王都中に、そして上空の天使たちに向けて放たれた。


「天界の諸君。事前通告なしの不法侵入、ならびに武力による脅迫行為は、現行の国際商法違反だ。直ちに退去せよ」

『……何奴かと思えば、神を裏切った元・聖騎士レオンか。虫ケラのごとき人間が、神の代行者たる我に法を説くか! 身の程を知れ!』


ミカエルが炎の剣を振り下ろす。

天空から、王都を丸ごと消し飛ばすほどの極大の神聖魔法『天罰のジャッジメント・レイ』が放たれた。

太陽が落ちてきたかのような圧倒的な熱量と光。


しかし。


ガァァァァァァァァァァンッ!!!!!


光の奔流は、王都の上空に展開された、亀甲状の巨大な「透明な膜」に衝突し、完全に霧散した。

王都のビル群に傷一つ、市民の髪の毛一本すら焼くことはできなかった。


『なっ……!? 馬鹿な、我ら熾天使の一撃が、たかが人間の結界に防がれただと!?』

「たかが結界ではない。魔界から供給される無尽蔵の魔力を、全国10万基のアビス・バッテリーで直列連動させた『自動防衛プラットフォーム』だ。信仰という不確かなエネルギーに頼る君たちの旧式魔法など、もはや我が社のテクノロジーの前では、子供の火遊びに等しい」


レオンの冷徹な声が響く。


「それに、気付いていないのか? 君たちのエネルギー(信仰心)は、すでに底をつきかけているということに」


ミカエルがハッとして周囲を見渡す。

空を埋め尽くしていた数万の天使たちの姿が、ノイズが混じったように明滅し始めていたのだ。


『ば、馬鹿な……我らの存在を維持する神力が、急速に失われていく……!? なぜだ、天界にはまだ数百年分の信仰の備蓄があったはずだ!』

「それは、昨日までの話だ」


レオンはタブレットを操作し、その画面のホログラムを空中に巨大投影させた。

そこに映し出されていたのは、天界の『信仰ポイント(エネルギー備蓄庫)』の残高グラフだった。その数字は、見事なまでにゼロに張り付いている。


「昨日、私は天界のエネルギー管理システムを司る下級神たちに、極秘裏に『ストックオプション(自社株購入権)』を付与してね。彼らは神の搾取体制に嫌気がさしていたから、あっさりと寝返ってくれたよ。君たちの備蓄エネルギーはすべて、我が社のデータセンターに『送電』済みだ」

『なっ……き、貴様ぁぁぁっ! 神の資産を横領したというのか!』

「人聞きの悪い。正当な『企業買収(M&A)』のプロセスだと言っているだろう」


ミカエルは激怒し、再び剣を振り上げようとした。

しかし、力が定まらず、その六枚の翼はボロボロと羽を散らして崩壊し始める。エネルギー供給を絶たれた天使たちは、もはや地上に顕現していることすら不可能な状態に陥っていた。


「アモン。トドメの『契約書』だ」

「御意に」


アモンが指を鳴らすと、上空のミカエルの目の前に、黄金の鎖で縛られた巨大な羊皮紙の契約書が出現した。


「天界が抱える莫大なエネルギー負債。それを当『アビス・ホールディングス』が全額肩代わりする。その代わり、神々は人間界に対する一切の干渉権(マネジメント権)を放棄し、完全な不可侵条約を結ぶこと。……これにサインすれば、最低限の存在を維持できるだけのエネルギーは融資してやろう」


レオンは無慈悲な目で、消滅しかけている熾天使を見上げた。


「破産(消滅)するか、私の傘下に入るか。選べ、神の使い」

『……おのれぇ……! 悪魔め、人間め……! この屈辱、決して忘れはせんぞ……!』


ミカエルは血の涙を流しながら、炎の剣を捨て、震える手で契約書にサインを刻んだ。

瞬間、契約書は光の粒子となって世界中に溶け込み、「神と人間・悪魔との新たなルール」として強制的に上書きされた。

エネルギーを失い、完全に無力化された天使の軍勢は、逃げるように次元の裂け目へと撤退していき、天の穴は二度と開くことのないように硬く閉じられた。


*****


空には再び、青く澄み渡った平和な空が戻っていた。

王都の市民たちは、神の軍勢が撤退した事実を目の当たりにし、歓喜の声を上げてアビス本社ビルに向かって手を振っている。


屋上のヘリポートに立つレオンの隣で、アモンが恭しく頭を下げた。


「お見事です、我がCEO。これで名実ともに、天界、魔界、人間界……すべての市場セカイが、あなたの手中に収まりました」

「神に見捨てられた日から、随分と遠くまで来たものだ。だが、ここからが本当の戦いだぞ、アモン。独占企業は腐敗しやすい。常にイノベーションを起こし続けなければ、市場はすぐに冷え込む」

「ふふ、人間とは本当に強欲で、底なしの生き物だ。我々悪魔よりもよほどタチが悪い。だからこそ……あなたに投資した私の目は間違っていなかった」


アモンは虚空から、最高級のヴィンテージ・ワインと二つのグラスを取り出し、グラスに深紅の液体を注いだ。


「乾杯しましょう、CEO。新たな世界の創造グランド・オープンに」

「ああ。神なき時代の、大いなる繁栄に」


グラスが重なる澄んだ音が、屋上に響き渡る。

かつて聖騎士として教会にすべてを捧げ、そして何もかもを奪われた男。

彼は悪魔と資本提携を結び、剣と魔法ではなく、圧倒的な知略と経済力によって、世界そのものを買収してみせた。


神話の時代は終わり、資本の時代が始まる。

アビス・ホールディングス代表取締役、レオン・アーグラー。

彼が支配するこの世界は、これからどれほどのスピードで進化していくのか。それは神でさえも、予測不可能な未知の領域であった。

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