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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 8:『北の監獄と、凍てつく朝』~

 寒い。

 意識が浮上するよりも先に、骨の髄まで凍みるような鋭利な冷気が、僕の全身を叩き起こした。


「……ッ、ぐ、う……」


 呻き声を上げようとして、喉が張り付いていることに気づく。乾燥している。まるで砂漠で乾いた砂を飲み込んだかのように、口腔内がカラカラに干上がっている。唾液すら飲み込めない。

 鉛のように重いまぶたをこじ開けると、視界に入ってきたのは、見知らぬ天井だった。

 太い木の梁が剥き出しになっており、その隙間から、古びた断熱材のようなものが垂れ下がっているのが見える。壁は黒ずんだレンガと、長い年月の湿気を吸って変色した木材で組まれていた。


 どこか(かび)臭く、それでいて鼻の奥がツンとするような、刺すような冬の匂い。

 そして、耳が痛くなるほどの静寂。

 都市の喧騒——車の走行音や、遠くのサイレン、人々の生活音——が、完全に遮断されている。

 聞こえるのは、ただ一つ。


 パチッ、パチッ……。


 部屋の隅にある暖炉から、薪が爆ぜる音だけだ。

 赤い炎が揺らめいている。誰かが火をつけたのだ。

 だが、その熱は部屋全体を温めるには程遠く、僕たちの命を辛うじて繋ぎ止める程度の、『生かしておくため』の最低限の熱量でしかなかった。吐く息が白い。いや、白すぎて霧のようだ。


 体を起こそうとして、僕は自分が自由ではないことに気づいた。

 両手首が、背中合わせに結束バンドでガチガチに拘束されている。手錠よりも質が悪く、動けば動くほど硬いプラスチックのエッジが手首の皮膚に食い込み、ジリジリと痛む。

 足首も同様だ。自由が完全に奪われている。

 血流が悪くなっているせいか、指先の感覚がほとんどない。


「……嘘だろ、マジかよ……」


 僕は絶望的な独り言を漏らした。声が掠れて、自分のものではないようだ。

 詰んだ。完全に捕まった。

 ここがどこかも分からないし、逃げ出す手段もない。何より、この寒さは異常だ。防弾スーツを着ていても、冷蔵庫の中に放り込まれたように体温が奪われていく。


「……ひっ!?」


 弾かれたように周囲を見回した僕は、喉の奥で情けない悲鳴を上げた。

 すぐ隣。

 僕の鼻先からわずか数十センチの距離に、黒い花が横たわるようにして倒れている少女がいたからだ。


「き、如月さん……!?」


 如月瑠璃。

 僕の主人が、今は糸の切れた人形のように床に転がっている。

 豪奢なゴシックドレスのスカートが、冷たいフローリングの上に花びらのように広がり、その白い脚が露わになっていた。

 漆黒の長い髪は乱れ、白磁のような頬にかかっている。暖炉の薄明かりに照らされた肌は、まるで陶器のように白く、血の気が感じられないほどに透き通っている。


 ……近い。近すぎる。

 普段なら半径二メートル以内に入ることすら緊張する高嶺の花が、こんな無防備な姿で、しかも僕と同じ目線にいるのだ。

 もし拘束されていなければ、僕はその場でバックステップを踏んで壁に激突し、脳震盪を起こして気絶していただろう。僕の女性耐性では、この状況は心臓に悪すぎる。致死性の猛毒だ。


「お、起きてください、如月さん! ……ねえってば!」


 僕は声を張り上げたが、彼女はピクリとも動かない。

 どうしよう。揺すって起こすべきか?

 いや、無理だ。手が使えない以上、体をぶつけるか、足で突っつくしかない。だが、そんな不敬な真似ができるはずがない。僕のような凡人が、如月家の令嬢の体に触れるなど、たとえ緊急時でも脳が拒絶する。

 何より、こんなドレス姿の女の子に触れるなんて、僕の脆弱な精神力(メンタル)が保つわけがない。


(い、生きてるよな……?)


 最悪の想像が頭をよぎる。

 まさか、あのガス中毒で……? 呼吸器系が弱いとか、アレルギーがあったとか?

 嫌な予感が脳裏をかすめ、僕は恐る恐る顔を近づけた——いや、近づけようとして、あまりの美しさに五センチ手前で硬直した。

 長いまつ毛の一本一本まで見える距離。百合の香りが冷気の中に漂っている。

 無理だ。心拍数が限界突破する。鼻血が出そうだ。


 僕は必死に目を凝らし、如月さんの口元を見た。

 寒い部屋だ。彼女の桜色の唇から、スーッ、スーッ、と微かな白い息が漏れているのが見える。

 白煙。規則正しいリズム。

 呼吸の証だ。


「……よかった、生きてる……」


 僕は安堵のあまり、冷たい床に額を擦り付けてへなへなと脱力した。

 如月さんが生きていれば、まだなんとかなる。彼女の頭脳があれば、この絶望的な状況を打開する策が見つかるかもしれない。僕はただの助手だ。盾であり、手足だ。頭脳が無事なら、システムはまだ希望がある。


 しかし、その安堵はすぐに別の、より根源的な恐怖へと変わった。

 窓だ。

 部屋にある唯一の窓ガラスの向こう側が、異常なほどに『白い』。


(……なんだ、あれは?)


 僕は芋虫のように床を這いずって窓際へ向かった。体のあちこちが痛むが、今はそれどころではない。

 窓枠には霜がびっしりと張り付いており、ガラスは分厚い二重構造(ペアガラス)になっている。寒冷地仕様の窓だ。

 僕は額をガラスに押し付け、自分の体温で霜を少しずつ溶かしながら外の景色を見た。


 その瞬間、僕の時が止まった。


「……は? なにこれ……」


 そこに広がっていたのは、見慣れた月見坂の街並みではなかった。

 昨日のような、冷たい冬の雨が降るアスファルトの道路でもない。


 雪だ。

 見渡す限りの、圧倒的な白銀の世界。

 窓の外には、背の高い針葉樹の森が広がっており、その枝という枝が重そうな雪を被って垂れ下がっている。

 地面にはすでに大人の腰ほどの高さまで雪が積もり、道などどこにもない。すべての人工物が雪の下に埋もれている。

 空からは、鉛色の雲が絶え間なく白い悪魔を吐き出し続けている。

 猛吹雪だ。

 視界ゼロのホワイトアウト寸前。風がガラスを叩く音が、まるで飢えた獣の唸り声のように聞こえる。


 僕は現状を理解できず、思考が停止した。

 月見坂は冬だといっても、こんな豪雪地帯じゃない。昨日は雨だったし、そもそも関東平野でこんな『世界の終わり』みたいな景色が見られる場所なんてないはずだ。


 僕たちが眠らされていた時間は、一体どれくらいだったんだ?

 数時間? 半日? いや、もっとか?

 喉の渇きと空腹感、そして体の節々の痛みからして、丸一日は経過している可能性がある。

 その間に、移動させられたのだ。


 助手として、如月さんの横で様々な知識を叩き込まれてきた僕の脳が、一つの残酷な答えを導き出した。

 この植生。針葉樹の森。この肌を刺す気温。そして、この圧倒的な雪景色。

 国内で、これほどの豪雪に見舞われる場所は限られている。


「……星見上市(ほしみかみし)


 乾いた唇から、その地名が漏れた。

 昨日、応接室で聞いたばかりの名前。

 透と香澄が十九年間収容されていた刑務所のある街。

 この国の北の果てにある、極寒の地。


 移動させられたのだ。

 僕たちがガスで眠らされている間に、車ごと、あるいはフェリーかプライベートジェットに乗せられて、何百キロという距離を強制的に運ばれたのだ。

 ここは敵のホームグラウンド。

 土地勘もない、装備もない、スマホもない。完全に『詰み』の盤面だ。

 僕のようなインドア派のオタクが、最も来てはいけないフィールド。

 装備なし、アイテムなし、セーブポイントなしの、無理ゲー開始だ。


「……ん……ぅ……」


 背後で、小さな呻き声がした。

 心臓が跳ねる。

 振り返ると、如月さんがゆっくりとまぶたを開けるところだった。

 長い睫毛が震え、宝石のような紫の瞳が、焦点を結ぼうと彷徨っている。


「……あ、如月さん!」


 僕は思わず声を上げた。

 彼女はぼんやりと天井を見上げ、それからゆっくりと視線を巡らせ、最後に僕の顔で止まった。

 その瞳に、いつもの鋭い理性の光が戻ってくる。


「……サクタロウ、か?」

「はい! 僕です! よかった、気がつきましたか!」


 僕が叫ぶと、如月さんは不快そうに眉をひそめた。


「声が大きい。頭に響く」


 彼女は体を起こそうとして、自分も手足を拘束されていることに気づき、舌打ちをした。


「……ッ。趣味の悪いモーニングコールじゃな。体が痛い」


 如月さんは上半身だけを起こし、冷たい床に座り込んだ。

 ドレスが汚れることも厭わず、不機嫌そうに周囲を見回すその姿は、囚われの身であっても『女王』の風格を失っていなかった。

 よかった、いつもの如月さんだ。

 記憶喪失とか、錯乱状態とかになっていたらどうしようかと思ったけれど、この憎まれ口を聞く限り、彼女の精神は正常に稼働しているらしい。


「状況を報告せよ、助手」


 彼女は僕に命じた。

 僕は、喉の奥にこみ上げる絶望を飲み込み、努めて冷静に——優秀な助手であろうとして——告げた。


「……最悪です。詰んでます。僕たちは捕まりました。黒田さんとはぐれ、どこかの廃別荘のような場所に監禁されています」


「ふむ。見れば分かる」


 如月さんは冷たく切り捨てた。


「問題は『どこに』じゃ。……月見坂の近郊か? それとも……」


「……窓の外を見てください」


 僕は顎で窓をしゃくった。

 如月さんは不審そうに眉を寄せ、芋虫のように這って窓際まで移動した。拘束されていても、その動きには無駄がなく、どこか優雅に見えるのが不思議だ。

 彼女はガラスに顔を近づけ、外を見た。


 数秒の沈黙。

 部屋の中には、暖炉の爆ぜる音と、外の風鳴りだけが響いている。

 やがて、如月さんの肩が小さく震えた。

 恐怖? 泣いているのか?

 いや、違う。


「……はっ」


 彼女は短く笑った。

 それは、絶望的な状況を前にして、逆に闘志に火がついたような、凄みのある笑いだった。


「……植生分布、エゾマツおよびトドマツの原生林。樹高から見て樹齢五十年以上。……気温はガラスの結露具合から推定マイナス十度以下。湿度はおそらく六十パーセント台。……完璧な『北国』の冬景色じゃな」


 如月さんは淡々とデータを口にし、最後に僕の方を見て、ニヤリと不敵に笑った。

 その唇は寒さで少し青ざめていたが、瞳の光は失われていない。


「ようこそ、サクタロウ。……どうやらわしらは、泥靴の亡霊たちの『実家』に招かれたようじゃな」


「……やっぱり、星見上ですか」


「十中八九な。……奴らの庭じゃ。土地勘も、気候への適応も、すべてにおいて奴らに分がある」


 彼女は冷静に分析しながら、背中の拘束を解こうと指を動かしているようだったが、すぐに諦めたように息を吐いた。


「無駄じゃ。結束バンドの締め方が玄人(プロ)の手並みじゃ。摩擦で切ろうにも、道具がないし、角度が悪すぎる」


 如月さんは壁に背中を預け、僕を見た。


「暖炉の火があるのが唯一の救いじゃな。……奴らも、わしらを即座に凍死させるつもりはないらしい」


「生かしておいて、何をするつもりなんでしょうか……」


「決まっておろう」


 如月さんは冷ややかに言った。その声は、外の吹雪よりも冷たかった。


「十九年の怨みを晴らすための『儀式』じゃ。……ただ殺すだけなら、あの車の中で済ませておる。わざわざこんな北の果てまで運び、意識を取り戻させたのは、わしらに『絶望』という名のフルコースを味わわせるためじゃよ」


 その言葉に、僕は身震いした。

 寒さのせいだけではない。

 この閉ざされた雪山の山荘で、僕たちはこれから、十九年分の悪意と対峙しなければならないのだ。

 透と香澄。二匹の怪物が、すぐ近くで僕たちが目覚めるのを待っている。


 暖炉の火が消えれば、凍死する。

 外に出れば、遭難する。


 ここは北の地。

 助けは来ない。

 僕たちの、二人きりのサバイバルが始まったのだ。



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