第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 7:崩れた護衛と、凡庸な盾~
その音は、激しい雨音にかき消されることなく、僕たちの頭上から響いてきた。
ガリッ、ガガガッ……!
まるで巨大な缶切りで金属を抉開けるような、不快で暴力的な破壊音。
車の屋根にある外部空気の取り込み口——空調ダクトのフィルターが、何者かの手によって物理的に破壊されたのだ。
「フィルター突破されました! 外気導入路、閉鎖不能!」
黒田さんが操作パネルを叩くが、赤い警告灯が点滅するばかりで反応しない。
システム上の閉鎖信号を送っても、物理的に穴を開けられてしまえば意味がない。この『走る要塞』は、対戦車地雷には耐えられても、屋根の上に乗った人間による精密な破壊工作までは想定していなかったのだ。
いや、違う。
想定外なのではない。『ここが弱点だ』と知っている人間がやっているのだ。
シュゴオオオオオッ!!
エアコンの吹き出し口から、猛烈な勢いで白煙が噴き出した。
それは冷気ではない。
先ほど外で撒かれていた、あの比重の重い謎のガスだ。
「くっ、ガス弾か! 光太郎さん、息を止めてください! 上着で鼻と口を覆って!」
黒田さんが叫びながら、自身のスーツのジャケットを引き上げて顔を覆う。
だが、運転席はダッシュボードに一番近い。彼が防衛行動を取るよりも早く、高濃度の白煙が彼の顔面を直撃した。
「ぐ、う……ッ!?」
黒田さんの巨体が、座席の上で大きく跳ねた。
喉を掻きむしり、苦悶の声を漏らす。
催涙ガス? いや、それにしては反応が静かすぎる。咳き込むというより、力が抜けていくような……。
(……睡眠ガスだ!)
僕は直感した。
二十年前、透は生後三ヶ月の翡翠さんを連れ去るために、小児用麻酔を使ったと言っていた。
彼は『眠らせる』ことのプロフェッショナルなのだ。暴力でねじ伏せるよりも、抵抗力を奪う方が効率的だと知っている。
十九年の時を経て、その手口はより洗練され、凶悪化していた。
「お、お嬢……さま……逃げ……」
如月家最強の盾と呼ばれた黒田さんが、白目を剥いてハンドルに突っ伏した。
プーーーーーーーーーーッ!!
彼の体がクラクションを押し潰し、断末魔のような警笛が狭い路地に鳴り響く。
鉄壁が、崩れ落ちた。
開始からわずか数十秒。僕たちが頼りにしていた最強のボディガードは、指一本動かせない肉塊へと変えられてしまった。
車内はすでに真っ白だった。
視界が奪われる。
甘たるい、薬品の腐ったような臭気が鼻をつく。
「……ッ、う……! な、なんじゃ、この煙は……!」
隣で如月さんが呻く音がした。
僕は慌てて振り返る。
彼女は黒いゴシックドレスの袖で口元を覆っていたが、その紫の瞳からは生理的な涙が溢れ、焦点が定まっていないように見えた。
呼吸が浅い。華奢な肩が、小刻みに揺れている。
「如月さん! 息を吸わないで!」
僕は叫ぼうとしたが、自分の喉も焼けるように熱いことに気づいた。
手足が鉛のように重い。思考に霞みがかかる。
このガス、即効性が高すぎる。一呼吸するごとに、意識が削り取られていくようだ。
どうする。どうすればいい。
車はロックされている。外にはガスマスクの男たちがいる。黒田さんはダウン。
逃げ場はない。
このままでは、僕たちも数秒後には意識を失い、荷物のように運び出されるだけだ。
(……盾になるって、言ったじゃないか)
薄れゆく意識の中で、僕の心臓がドクンと跳ねた。
僕は凡人だ。特別な才能もないし、喧嘩も弱い。
だけど、助手だ。
彼女が『所有物』と呼んでくれた、唯一の味方だ。
黒田さんが倒れた今、彼女を守れるのは、この空間に僕しかいない。
僕はシートベルトを引きちぎるように外し、身を乗り出した。
普段なら、美少女に近づくだけで心拍数が上がり、鼻血が出そうになる僕だ。如月さんの体温、ドレス越しの感触、甘い百合の香り。それらが脳を刺激し、パニックになって気絶してもおかしくない状況だ。だが、今はそんな『童貞特有のオーバーヒート』など、起こしている場合じゃない。
羞恥心よりも、生存本能よりも、守護本能が勝った。
「失礼しますッ!」
僕は自分の着ている防弾スーツの上着を脱ぎ、それを頭から被るようにして、如月さんの方へ覆いかぶさった。
彼女を座席の背もたれと、僕の体の間に閉じ込める。
いわゆる『床ドン』ならぬ『車内ドン』のような体勢だが、そんなロマンチックなものではない。僕は自分の背中を空調の吹き出し口に向け、ガスを体で受け止めながら、スーツの分厚い生地を彼女の顔に押し付けた。
「これで……口と鼻を……!」
スーツの裏地と特殊繊維にはフィルター効果があるかもしれない。少なくとも、直接ガスを吸うよりはマシだ。
「……サクタロウ、何を……」
如月さんのか細い声が、胸元から聞こえた。
彼女は僕の行動に驚き、抵抗しようとしたが、その手にはもう力が入っていないようだった。
涙で濡れた紫の瞳が、至近距離で僕を見上げている。その顔があまりにも美しくて、儚くて、僕は一瞬だけ息が止まりそうになった。
こんな至近距離で女の子の顔を見るなんて。心臓が破裂しそうだ。でも、今はその鼓動すらも、僕が生きている証拠だ。
「離れろ……お主まで……倒れ……」
「喋らないでください!」
僕は怒鳴った。
普段なら絶対に言えないような強い言葉が、口をついて出た。
「僕はいいんです! 凡人だから、代わりはいくらでもいる! ……でも、あなたは違う!」
如月瑠璃。
この傲慢で、不器用で、孤独な天才少女。
彼女が連れ去られたら、如月家はどうなる? 彼女の未来は?
十九年の怨念を持った連中が、彼女に何をするか分からない。二十年前の翡翠さんのように、暗い部屋に閉じ込められ、自由を奪われるなんて、絶対にさせない。
「吸わないで……絶対に……」
僕の意識も限界だった。
視界が歪む。手足の感覚がない。
ただ、腕の中にいる彼女の小さな温もりだけが、僕をこの世界に繋ぎ止めていた。
その時。
ドォン!!
車のドア付近で、爆発音がした。
続いて、油圧カッターのような機械的な駆動音が響く。
ギギギ、ギャアアアアッ……!
特殊合金で作られたドアのヒンジが、無理やり抉じ開けられていく音だ。
ロックを解除したのではない。ドアそのものを破壊して侵入してくる気だ。冷たい外気が流れ込んできた。それと同時に、ガスが少し薄れ、白い煙の向こうに黒い人影が現れた。
三人。いや、四人。
全員が全身黒ずくめの作業服に、無機質なガスマスクを装着している。その姿は人間というより、地獄から這い出してきた巨大な昆虫のようだった。
「……ターゲット、確認」
マスクの奥から、機械で変声されたようなくぐもった声が聞こえた。
彼らは躊躇なく車内に手を伸ばしてきた。狙いは、僕の下にいる如月さんだ。
「触るな……ッ!」
僕は最後の力を振り絞り、侵入者の腕を払いのけようとした。
鈍い音。
僕の拳は、男の防刃ベストに当たって虚しく弾かれた。 まるで岩を殴ったような感触。相手は微動だにしない。
「邪魔だ」
男の一人が、無造作に警棒を振り上げた。
ガッ。
硬質な衝撃が、僕の頭部を襲った。
火花が散る。思考が断裂する。
それでも僕は、如月さんの上から退かなかった。ここで退いたら、僕は一生、自分を許せない。
「しぶといガキだな」
「殺すなよ。人質にはならんが、交渉の『おまけ』くらいにはなる」
男たちは僕の襟首を掴み、ゴミ袋でも捨てるように車外へと引きずり出した。
「あ……が……っ!」
雨のアスファルトに叩きつけられる。
冷たい雨が頬を打つが、体の熱は引かない。
泥水が口に入る。
薄れゆく視界の中で、僕は見た。
車の中に残された如月さんが、男たちによって抱き上げられるのを。
彼女の黒いゴシックドレスが、白いガスの中で幽霊のように揺れている。
彼女は必死に手を伸ばしていた。
その手が求めていたのは、助けか、それとも僕か。
「サ……タ……ロ……」
声にならない声。
その紫の瞳が、絶望に染まっていく。
そして、ガスマスクの男が、彼女の顔に黒い袋を被せた瞬間、その光は完全に断ち切られた。
——ごめん。
——守れなかった。
悔しさと、無力感。
そして、強烈な睡魔。
僕の意識は、冷たい雨音に包まれながら、深い闇の底へと沈んでいった。
これが、僕たちの敗北だった。
十九年の怨念は、あまりにも周到で、僕たちのような子供の抵抗など、赤子の手をひねるよりも容易かったのだ。




