第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 6:厳戒態勢と、移動の罠~
如月コンツェルン本社ビルの地下三階。
一般社員すら立ち入りを禁じられた、役員専用の地下駐車場は、コンクリートとガソリン、そして張り詰めた殺気によって支配されていた。
並んでいるのは、漆黒の塗装が施された三台の高級セダンだ。
いずれもドイツ製の最高級車をベースに、対戦車地雷にも耐えうると噂される特殊装甲を施した『走る要塞』である。分厚い防弾ガラスはスモークで覆われ、外からは中の様子を窺うことすらできない。
僕は、その物々しい光景に圧倒されながら、自分が着せられた慣れない衣装の襟元を引っ張った。
「似合わんのう、サクタロウ。馬子にも衣装と言うが、お主の場合は『借りてきた猫』ならぬ『借りてきた執事』じゃな」
隣に立つ如月瑠璃が、僕の姿を見て鼻を鳴らした。
僕が着ているのは、黒田さんが用意した黒のスーツだ。一見すると高級な礼服だが、その生地は妙に分厚く、ずっしりと重い。
「光太郎さん、動きにくいかもしれませんが我慢してください」
警備主任の黒田さんが、真ん中の車両のドアを開けながら言った。
「そのスーツは対刃・防弾仕様の特殊繊維で編まれています。光太郎さんは一般の方ですが、お嬢様の傍にいる以上、狙われるリスクは同等です。制服のままでは紙切れ同然に切り裂かれますよ」
「ありがとうございます、黒田さん。……でも、これじゃ本当に如月さんの執事みたいだ」
僕が苦笑すると、如月さんは自身のドレスの裾を優雅に翻した。
彼女もまた、いつもの制服姿ではなかった。
漆黒のレースとフリルが幾重にも重なる、豪奢なゴシックドレス。ふわりと広がるスカート、コルセットで絞られた華奢なウエスト、そして胸元のリボンまで、すべてが闇夜のように深い黒で統一されている。
それはまるで、中世の古城に住む姫君か、あるいは葬列に参列する喪服のようにも見えた。
「勘違いするな。これから敵前逃亡するのじゃぞ? せめて身だしなみくらい整えるのが、如月の流儀じゃ」
彼女の言葉には、怯える子供ではなく、誇り高き当主候補として振る舞おうとする矜持が滲んでいた。もちろん、そのドレスも僕のスーツ同様、ケブラー繊維と炭素繊維が織り込まれた『戦闘服』だ。
「さあ、乗るぞ。この無菌室のような地下から、泥まみれの戦場へ移動じゃ」
僕と如月さんが後部座席に乗り込むと、黒田さんは運転席に座り、バックミラー越しに鋭い視線を向けた。
重厚なドアが閉まる音が、まるで金庫の扉のように響く。外の音が完全に遮断され、車内は深海のような静寂に包まれた。
「本日の移動プランについて最終確認を行います」
黒田さんがモニターを操作する。
「現在、本社ビル周辺には『コード・アカツキ』による厳戒態勢が敷かれています。目的地は、市外の山間部にある『如月第3シェルター』。透も知らない十五年前に新設された施設です」
「分かった。任せる」
如月さんは短く答えた。彼女は膝の上で、愛用のルーペをまるでお守りのように握りしめている。
隣に座る彼女のドレスから、微かに百合の香りが漂ってくる。その黒いレースの手袋が、膝の上でギュッと握りしめられているのを、僕は見て見ぬふりをした。
「出発します」
黒田さんの言葉と共に、車列が動き出した。
スロープを上がり、重厚なシャッターが開く。
その向こうには、灰色に染まった月見坂の街と、激しさを増した冬の雨が待ち受けていた。
**
地上に出た瞬間、激しい雨音が車体を叩いた。
防弾ガラス越しに見る街の景色は、雨に煙って歪んでいる。ワイパーが忙しなく動き、ヘッドライトの光が濡れたアスファルトに反射して、毒々しいネオンサインのように輝いていた。
車列は、三台編成。
先頭が一号車、僕たちが乗る二号車、そして後方の三号車。新市街の大通りを北へと向かって滑るように走る。さすがは如月家の車だ。サスペンションが優秀すぎて、走っているのか浮いているのか分からないほど静かだ。
だが、その快適さが、かえって僕の不安を煽った。
「静かすぎる」
僕が独り言のように呟くと、如月さんがドレスの袖を直しながら応じた。
「嵐の前の静けさというやつじゃ。透という男は、派手なカーチェイスや銃撃戦を好むタイプではない。もっと陰湿で、合理的で、逃げ場のない詰め将棋のような手を打ってくる」
「詰め将棋……」
「そうじゃ。わしらを物理的に追い込み、選択肢を削ぎ落とし、最後の一手で確実に『王手』をかける。そういう男じゃよ、あの泥靴の主は」
彼女の言葉が予言めいて聞こえたのは、その直後だった。
「おや」
運転席の黒田さんが、不審げな声を上げた。
「どうした、黒田」
「信号のタイミングがおかしいのです」
黒田さんの視線は、前方の交差点に向けられていた。
大通りの信号機。
本来なら、交通量に合わせてAI制御されているはずのそれが、僕たちの車列が近づくと、まるでモーゼの海割りのように、次々と『青』に変わっていくのだ。
「全線グリーンか。まるでVIP待遇じゃな」
如月さんが皮肉っぽく笑ったが、その目は笑っていなかった。
「ハッキングか?」
「恐らく。市の交通管制センターに侵入し、我々のルート上の信号を操作している可能性があります。……見てください、前方の車が消えていく」
黒田さんの指摘通り、僕たちの前を走っていた一般車両が、青信号に導かれるように加速し、次々と彼方へ去っていく。
逆に、交差する道路や、脇道からの合流地点の信号は、異常なほど長い間『赤』のままだ。
「なるほどな。前方の車は青信号で吐き出させ、横からの流入は赤信号で堰き止める。……そうやって道路上に『真空地帯』を作り出し、わしらだけを隔離しようという腹か」
「隔離……」
その言葉の意味を理解した時、僕は背筋が凍った。
周囲に他の車がいなくなっていく。
雪混じりの雨の降りしきる大通りを、黒い三台の車だけが、孤独に走り続ける。まるで、見えないチューブの中を輸送されているかのようだ。
「ルート変更します。このままでは敵の思う壺です」
黒田さんがインカムに指示を飛ばし、一号車に合図を送った。
次の交差点を右折し、予定していたメインルートから外れ、旧市街を抜けるサブルートへ入る。
それは、即座の判断だった。だが、敵はそれすらも読んでいた。
「なっ……!?」
右折した直後、一号車が急ブレーキをかけた。僕たちの乗る二号車も、つんのめるように停車する。慣性の法則に従い、華奢な如月さんの体が前方へ放り出されそうになった。
「危ない!」
僕は反射的に腕を伸ばし、彼女の肩——いや、ドレスの上からその体を支えた。
「っ……!」
手のひらに伝わる、高級な生地の感触。そして、その下にある驚くほど華奢で柔らかな感触。
鼻先をかすめる百合の香り。至近距離で見る、長いまつ毛と紫の瞳。
僕は一瞬、緊急事態であることを忘れ、心臓が爆発しそうになった。女性とこんなに密着するなんて、生まれて初めてだ。
うわ、柔らかっ……じゃなくて!
「……いつまで触っておる」
頭上から降ってきたのは、氷点下の声音だった。
「ひっ、す、すみません!」
僕が慌てて手を引っ込めると、如月さんは不快そうに肩を払い、ドレスの襟を正した。顔は赤らむどころか、冷めた目つきで僕を見下ろしている。
「まったく……。だが、お主にしては悪くない反射神経じゃ。人間シートベルトとしての機能は認めてやる」
あくまで上からの物言い。僕がドギマギしていたことなど、彼女にとっては歯牙にもかけない些事らしい。僕は赤くなった顔を伏せ、視線を前に戻した。
目の前に現れたのは、赤く点滅する巨大な矢印と、【工事中・通行止】の看板だった。
「工事? このルートは今朝確認した時には工事情報などなかったはずだ」
黒田さんが舌打ちをした。
道路の真ん中に、バリケードと重機が置かれ、作業員らしき男たちが赤い誘導灯を振っている。
雨合羽を着て、顔を深く隠した男たち。彼らが本物の作業員なのか、それとも透の手先なのか、この距離では判別できない。
「迂回しろとの指示です」
一号車からの無線が入る。
「左側の側道へ誘導されています」
「罠の匂いがプンプンするのう」
如月さんが忌々しげに言った。
左側の側道。それは大通りから外れ、ビルの裏手を抜ける狭い一方通行路だ。一度入れば、Uターンも追い越しもできない。
「しかし、バックして戻る時間はありません。後方からも車両が来ています」
三号車からの報告。いつの間にか、後ろの交差点は一般車両で埋め尽くされ、退路が塞がれていた。
信号操作による渋滞。これも計算か。僕たちを袋小路に押し込むための、完璧な交通整理。
「突破するぞ。一号車、そのまま側道へ。警戒を最大にしろ」
黒田さんが苦渋の決断を下した。車列はゆっくりと、誘導されるままに暗い側道へと滑り込んでいく。そこは、新市街の華やかさとは無縁の、薄汚れた業務用道路だった。
両側を高い雑居ビルに挟まれ、街灯も少なく、昼間でも薄暗い谷底のような場所。激しく冷たい雨が、ビルの隙間を滝のように流れ落ちてくる。
ザザザ、ザザ……。
無線にノイズが混じり始めた。
「GPSに誤差が生じています。電波妨害か」
黒田さんがナビゲーション画面を叩く。画面上の現在地を示すマーカーが、狂ったように点滅し、あらぬ方向を指し示している。
デジタルな目が潰された。
頼れるのは、黒田さんの土地勘と運転技術、そして肉眼だけだ。
「光太郎さん、外を見てください」
黒田さんの声が低い。
「誰も、おらんな」
如月さんが先に気づいた。
言われて気づく。
この道に入ってから、歩行者の姿が一人もない。
霙だから? いや、違う。
店舗のシャッターがすべて下りている。看板の明かりも消えている。まるで、この区画だけがゴーストタウンになったかのように静まり返っている。
一年前から準備をしていたという透は、この街の区画一つを丸ごと買い占めるか、あるいは何らかの方法で人を遠ざけ、僕たちのための『処刑場』を用意していたというのか。
その時だった。
キキーッ!!
耳をつんざくようなブレーキ音と共に、先頭を走っていた一号車がスピンした。
脇道から、一台の巨大なゴミ収集車が、ミサイルのように飛び出してきたのだ。
ドォン!!
鈍い衝突音。
一号車の側面にゴミ収集車が突っ込み、そのまま壁へと押し付けた。
道が塞がれた。
「一号車!!」
黒田さんが叫ぶ。
「敵襲! バックだ! 三号車、下がれ!」
黒田さんがギアをリバースに入れ、アクセルを踏み込む。
だが、遅かった。
後方の三号車の後ろ——僕たちが入ってきた入り口の交差点で、信号待ちをしていたはずの大型タンクローリーが、ゆっくりと、しかし確実に交差点を塞ぐように横転したのだ。
ガガガガガ……!
アスファルトを削る音と共に、巨大なタンクが道を完全に封鎖する。
「挟まれた」
僕の口から、絶望的な言葉が漏れた。
前方には、壁に押し付けられて煙を上げる一号車とゴミ収集車。
後方には、道を塞ぐタンクローリーと、立ち往生する三号車。
そして、その中間に取り残された、僕たちの乗る二号車。
逃げ場はない。両側はビルの壁。前後は鉄の塊。完璧な『袋の鼠』だ。
「黒田、状況は」
如月さんが問う。その声には焦りではなく、腹の底から湧き上がるような不機嫌さが満ちていた。
「最悪です。分断されました」
黒田さんの額に、脂汗が滲んでいる。
「一号車、三号車共に沈黙。物理的に身動きが取れません。我々は孤立しました」
雨音だけが、不気味に響いている。銃声は聞こえない。爆発音もない。
ただ、『交通事故』と『工事』という日常的な風景を利用して、僕たちだけがこの暗い路地に切り取られたのだ。
「来るぞ」
黒田さんが特殊警棒を構え、シートベルトを外した。
彼の視線は、前方のゴミ収集車の運転席に向けられている。
そこから、ガスマスクをつけた男が一人、降りてきた。手には武器を持っていない。ただ、その腰には太いホースのようなものが繋がっており、背中にはタンクを背負っている。
「なんだ、あれは? 消毒業者か?」
僕が目を凝らすと、如月さんが窓に顔を近づけ、侮蔑の色を浮かべて吐き捨てた。
「……馬鹿な。ここは『外』じゃぞ? 開放空間でガスなど、効率が悪すぎる」
プシューッ……。
男がバルブをひねると、ホースの先から白煙が噴き出した。それは風に乗るのではなく、まるで生き物のように地面を這い、重力に従ってこの低い路地——『窪地』へと流れ込んでくる。
「比重の重いガスか!」
黒田さんが顔色を変えた。
「まずい、この場所は周囲より土地が低い。さらに両側をビルで塞がれている。ガスが滞留する『器』のような構造になっています! 空調を内気循環に切り替えますが、長くは持ちません!」
白煙が、車を取り囲んでいく。窓の外の景色が、真っ白な闇に塗り潰されていく。
これは、単なる襲撃ではない。信号操作による誘導。工事による迂回。そして地形を利用したガス攻撃。すべてが、この一点——この路地に僕たちを閉じ込めるために計算され尽くした、緻密なパズルだったのだ。
十九年の時を経て、北の監獄から帰還した男は、暴力ではなく『物理法則』と『都市機能』を使って、僕たちを狩りに来た。
僕は、ガタガタと震え出した自分の膝を抑え込んだ。
怖い。得体の知れないガスが、すぐ外まで迫っている。防毒マスクもない。このまま窒息するのか?
恐怖で呼吸が浅くなる。
「……鬱陶しい音を立てるな」
隣から、低い声がした。
見ると、如月さんが腕組みをして、冷徹な瞳で僕を見下ろしていた。彼女の手は震えていない。ドレスの黒いレース手袋が、微塵の揺らぎもなく膝の上に置かれている。
「サクタロウ。お主、まさかこの程度の子供だましで、わしを見捨てる気ではなかろうな?」
「そ、そんなわけないじゃないですか! でも、体が勝手に……」
「ならば精神でねじ伏せよ」
彼女は容赦なく言い放った。
「お主はわしの助手じゃ。わしの所有物じゃ。……主人が眉一つ動かしておらんのに、従者が先に腰を抜かしてどうする。如月の品位に関わる」
傲慢だ。どこまでも傲慢で、理不尽だ。でも、その不遜な態度が、今の僕には何よりの救いだった。彼女は怖がっていない。いや、正確には『恐怖』を『怒り』と『プライド』で完全にねじ伏せているのだ。土足で自分の領域を踏み荒らし、こんな三流の手品で自分を閉じ込めようとした透への激しい怒りが、彼女を支えている。
このゴシックドレスは、彼女の鎧だ。ならば、その鎧に恥じない盾になるのが、僕の役目だ。
「……わかりました。努力します」
僕は震える手で拳を作り、なんとか彼女の目を見返した。
「殊勝な心がけじゃ」
彼女はフンと鼻を鳴らし、再び窓の外へ視線を戻した。
その時。
車の屋根の上で、ドン、という何かが着地する音がした。続いて、換気ダクトの吸入口付近で、ガリガリと何かを抉開ける金属音が響く。
「フィルターを破る気か」
黒田さんが唸るように言った。
車内にはまだガスは入ってきていない。だが、この完全密閉された鉄の棺桶が、毒ガスの充満するガス室に変わるまで、恐らく時間は残されていない。
移動の罠。
僕たちは、あの泥の足跡が告げていた『死角』へと、自ら踏み込んでしまったのだ。




