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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 5:出所の足音と、無言の宣戦~

 菫さんの話が終わった後、応接室には、空調の微かな駆動音だけが響いていた。


 僕は、喉の奥がカラカラに乾いているのを感じていた。目の前の高級なティーカップに手を伸ばすことさえ憚られるような、圧倒的な『悪意の歴史』に飲み込まれていたからだ。


 二十年前の夏。


 生まれたばかりの翡翠さんを、物理的に存在しないはずの『隠し部屋』へと消し去った神隠し。


 犯人は、実の親族である透と香澄。


 そして、その動機は如月コンツェルンの乗っ取り。


 まるでサスペンス映画のような話だが、これはフィクションではない。目の前に座る如月瑠璃という少女の家族に刻まれた、消えない傷跡なのだ。


 僕は恐る恐る、沈黙を守っている如月さんの横顔を盗み見た。


 彼女は、表情一つ変えずに紅茶の液面を見つめている。だが、その紫の瞳の奥には、冷たい怒りの炎が揺らめいているように見えた。


「……十九年」


 僕の口から、無意識にその言葉が漏れた。


「十九年って……僕が生まれてくるよりも、ずっと前じゃないですか。僕の人生よりも長い時間を、彼らは刑務所の中で過ごしていたんですね」


「ええ。異例の厳罰だったわ」


 菫さんが、疲労の滲む声で答えた。


「誘拐、監禁、傷害、背任……。あらゆる罪状が加算された結果よ。けれど、彼らは控訴しなかった。ただ無言で判決を受け入れ、北の果てにある星見上の監獄へと消えていった。……まるで、そこで次なる復讐の爪を研ぐ時間を手に入れたかのようにね」


 北の監獄。


 先ほど如月さんが鑑定した、窓ガラスの泥の出処。


 点と線が、あまりにも残酷な形で繋がっていく。


 僕が幼稚園に入り、小学校を卒業し、高校生になるまでの全ての時間。彼らは鉄格子の向こうで、ただひたすらに『如月家』への憎悪を煮詰めていたのだ。


「黒田」


 如月さんが、静かに、しかし鋭く警備主任を呼んだ。


「はっ」


「先ほど、奴らは一年前の五月に出所したと言ったな。……ならば、この一年の間、奴らはどこで何をしていた?」


 その問いこそが、今この場における最大の懸念事項だった。


 刑期満了は一年前。


 つまり、透と香澄は、三百六十五日もの間、自由な身でありながら、如月家に一切の接触をしてこなかったのだ。


 脅迫状の一つも送らず、姿も見せず。


 黒田さんが、悔しげに拳を握りしめる。


「……分かりません。出所後、彼らは保護司との面談にも現れず、完全に消息を絶ちました。我々も興信所を使って行方を追いましたが、住民票も移動させず、カードの使用履歴もない。……まるで、社会のシステムから意図的に『消えた』かのような徹底ぶりでした」


「消えた、か」


 如月さんが鼻を鳴らした。


「違うな。奴らは消えたのではない。『潜っていた』のじゃ。……深い深い水底で、息を殺して、わしらの喉笛に食らいつくための準備を整えていたのじゃよ」


 彼女は立ち上がり、プロジェクターに投影されたままの『本社ビルの図面』に歩み寄った。


 二十年前、翡翠さんが監禁されていた四十八階と四十九階の間の『隠し部屋』。


 そして今日、泥の足跡がつけられた四十八階の『窓ガラス』。


「サクタロウ。お主、あの足跡を見て、最初に何を感じた?」


「え? 何って……気持ち悪いとか、どうやってつけたんだろうとか……」


「そうじゃ。『どうやって』じゃ。……奴らは、あの足跡一つで、わしらに強烈なメッセージを送ってきておる」


 如月さんは、図面の四十八階部分を指先で強く叩いた。


「『我々は戻ってきた』。そして、『二十年前と同じように、この巨大な城の死角(バグ)を掌握しているぞ』とな」


 僕は息を呑んだ。


 あの泥の足跡は、単なる嫌がらせではなかった。


 それはデモンストレーションだ。


 最新鋭のドローンが飛び交い、何重ものセキュリティに守られた地上二百メートルの聖域に、誰にも気づかれずに到達し、証拠を残して去る能力があるという証明。


 かつて、『隠し部屋』という死角を利用して神隠しを行った男が、十九年の時を経て、再びこのビルのシステムを嘲笑うかのように現れたのだ。


「……宣戦布告、ですね」


 僕が呟くと、菫さんが蒼白な顔で頷いた。


「そうよ。彼らは言っているの。『いつでも、誰でも、好きな時に狩れる』と。……あの足跡は、如月さんがよく使うラウンジの窓につけられていた。それが何を意味するか……」


 標的は、如月瑠璃。


 もちろん、如月家の人間なら誰でもいいのかもしれない。だが、最も象徴的で、次期当主として目されている彼女のテリトリーに痕跡を残したことは、明白な殺害予告にも等しい。


「……ふざけた真似を」


 如月さんの声が低く響く。彼女は恐怖よりも、自分の領域を土足で踏み荒らされたことへの激しい不快感を露わにしていた。


「十九年前に敗北した負け犬風情が。……わしを、姉の時のように無力な赤子と同じだと思うてか」


 強気な言葉。


 けれど、僕は見ていた。彼女が握りしめているスカートの裾が、微かに、本当に微かに震えているのを。


 相手は、生まれたばかりの赤ん坊に平気で麻酔を使い、僕が生まれる前からずっと、檻の中で憎悪を育ててきた狂気だ。


 いくら天才鑑定士とはいえ、彼女はまだ十六歳の少女なのだ。


 その時、応接室の扉がノックされ、秘書の一人が慌てた様子で入ってきた。


「菫様、社長室の彰様より緊急連絡です! 本社ビルの地下駐車場および周辺エリアにて、不審な車両の目撃情報が相次いでいます。ナンバーはいずれも偽造、または盗難車です」


「……始まったか」


 黒田さんが、瞬時に『警備主任』の顔に戻った。


 その岩のような形相には、もはや一寸の油断もない。


「菫様。もはや一刻の猶予もありません。奴らはすでに行動を開始しています。この本社ビルは、構造を知り尽くしている透にとっては、自分の庭も同然です。……ここに留まるのは危険です」


「えっ? ここ、本社ビルですよ? 一番安全なんじゃないんですか?」


 僕が驚いて尋ねると、黒田さんは首を横に振った。


「光太郎さん。先ほどの話をお忘れですか? このビルには、透ですら知らない『誰かが作った隠し部屋』が存在するのです。……透は二十年前、それを見つけ出して利用した。十九年の間に、彼がさらなる『抜け穴』を思い出していたら? あるいは、出所してからの空白の一年で、新たな侵入ルートを確保していたとしたら?」


 背筋が粟立った。


 そうだ。この巨大なビルには、会長すら知らない『謎の空間』がある。


 足元の床が、壁の裏が、本当に安全だという保証はどこにもないのだ。


 むしろ、ここは敵のホームグラウンドかもしれない。


「直ちに『コード・アカツキ』を発令します」


 黒田さんがインカムに向かって叫んだ。それは、如月家における最高レベルの緊急事態宣言——事実上の戒厳令だ。


「全館封鎖! 外部からの入館を一切遮断せよ! 役員フロアのエレベーターを停止! 警備部隊は第一種装備で各フロアの『死角』を重点的に警戒しろ!」


 応接室の外が、にわかに騒がしくなる。


 遠くでサイレンのような音が聞こえ、窓の外では、複数のドローンが編隊を組んで旋回を始めていた。


 平和な午後が、一瞬にして戦場へと変わった。


「瑠璃」


 菫さんが立ち上がり、娘の肩を強く掴んだ。


「あなたは、ここから移動しなさい。黒田が用意した、郊外の『セーフハウス』へ。あそこなら、透も構造を知らないわ」


「逃げろと言うのか、母よ」


 瑠璃が不服そうに眉をひそめる。


「敵前逃亡など、如月の名折れじゃ。わしはここに残り、奴らの化けの皮を……」


「聞きなさい!」


 菫さんの鋭い声が、瑠璃の反論を遮った。


 それは、秘書としての命令ではなく、娘を失うまいとする母親の悲痛な叫びだった。


「お願いだから……言うことを聞いて。二十年前、私は翡翠を守れなかった。……あんな思いは、二度とごめんなの。あなたまで失ったら、私は……!」


 菫さんの瞳に、涙が滲んでいる。


 その涙を見た瞬間、瑠璃の強がりが崩れた。彼女は小さく唇を噛み、視線を逸らして呟いた。


「……分かった。移動しよう」


 如月さんは、僕の方を見た。


「サクタロウ、お主も来るのじゃ」


「は、はい! もちろんです!」


「お主は盾としては凡庸すぎるが、まあ、荷物持ちくらいにはなるじゃろう。……それに、わしの目の届かない場所で殺されるよりはマシじゃ」


 憎まれ口を叩きながらも、彼女が僕を連れて行こうとするのは、僕を一人にしたら狙われるかもしれないという配慮だ。


 僕は拳を握りしめた。


 僕は無力だ。喧嘩も弱いし、特別な才能もない。


 だけど、この不器用で傲慢で、でも本当は家族思いな『お嬢様』が、僕が生まれる前からの怨念に晒されようとしている今、逃げ出すわけにはいかない。


「準備が整いました!」


 黒田さんが叫ぶ。


「地下三階の専用ガレージより、防弾仕様のリムジンで出発します。ルートはダミーを含めて三経路。……敵の裏をかき、最短最速でシェルターへ向かいます」


「行くぞ、サクタロウ」


 如月さんが歩き出す。


 その背中は凛としていたが、その小さな肩には、如月家という巨大な運命と、過去からの亡霊という重圧がのしかかっていた。


 僕たちは応接室を出て、警備員たちに囲まれながら廊下を急ぐ。


 窓の外では、いつの間にか雪混じりの雨が降り始めていた。


 ガラスを叩く激しい雨音が、まるでこれから始まる長い夜と、北の地から迫り来る冷たい足音の予兆のように聞こえた。


 十九年の沈黙を破り、怪物が動き出した。


 そして僕たちは、その怪物の張り巡らせた蜘蛛の巣の中へと、自ら飛び込もうとしていたのだ。


 この移動こそが、彼らの待ち望んでいた『獲物が巣から出てくる瞬間』だとは、まだ誰も気づいていなかった。



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