第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 4:隠し部屋と、十九年の檻~
翡翠が消えてから十日が経過していた。
如月本邸を覆っていたのは、もはや悲壮感を超えた、死のような静寂だった。
警察の捜索は完全に手詰まりとなり、メディアも『如月財閥の令嬢、神隠しか』とセンセーショナルに報じ立てていた。
本邸の書斎。
憔悴しきった彰は、デスクに突っ伏していた。頬はこけ、目は落ち窪み、かつての聡明な青年実業家の面影は見る影もない。妻の菫もまた、心労で倒れ、ベッドから起き上がれない状態が続いていた。
「……彰。もう、十分だ」
その背中に、透が優しく手を置いた。
彼の手には、一束の書類が握られている。『社長権限の一時委譲に関する合意書』。
表向きは、心身共に限界を迎えた彰を休ませるための措置だが、その実態は、如月コンツェルンの全権を透と香澄が掌握するための『無血クーデター』の完了を意味していた。
「このままでは会社も立ち行かなくなる。株主たちも動揺しているんだ。……一旦、俺と母さんが引き受ける。君は翡翠ちゃんを探すことと、菫さんのケアだけに専念してくれ」
透の声は、悪魔的なまでに甘く、合理的だった。
思考能力を奪われた彰は、虚ろな目で兄を見上げ、震える手で万年筆を取った。
これを書けば、楽になれる。責任から解放される。
ペン先が、紙に触れようとしたその瞬間だった。
「——その紙切れに価値はない」
重厚な扉が乱暴に開かれ、怒号のような声が響き渡った。
入ってきたのは、杖をついた老紳士——如月コンツェルン会長、如月弦十郎だった。
その後ろには、数名の屈強な男たちと、作業着を着た見知らぬ技術者たちが控えている。
「父さん……? 何を……」
「黙っていろ、透。……貴様の描いたシナリオは、ここで打ち切りだ」
弦十郎は、透が差し出した書類を杖で叩き落とすと、背後の技術者に顎をしゃくった。
彼らは警察ではない。弦十郎が極秘裏に雇っていた、海外の『建築構造解析』と『対諜報活動』のスペシャリストたちだった。
「彰、警察は『人の動き』ばかりを追っていた。だが、私は『建物の構造』を洗わせた。……この屋敷から赤子を運び出すのが不可能なら、そもそも『外には出ていない』と考えるのが道理だ」
弦十郎は一枚の青焼き図面をデスクに広げた。
それは、如月本邸の図面ではない。
月見坂市の中心に聳える、如月コンツェルン本社ビルの設計図だった。
「透。貴様は、翡翠を屋敷から連れ出したのではない。……屋敷の隠し通路を使って地下搬入口まで運び、そこから『機密文書廃棄用』のコンテナに紛れ込ませて、本社ビルへと移送したな?」
透の眉が、わずかにピクリと動いた。
完璧だったはずのポーカーフェイスに、初めて亀裂が入る。
「……何の証拠があってそんな妄言を。本社ビル? あそこは全フロアがオフィスと会議室だ。赤ん坊を隠せる場所なんて……」
「あるのだよ」
弦十郎の声が、地獄の底から響くように低くなった。
「私も知らなかった。……本社ビルの四十八階と四十九階の間。設計図には存在しない、空調ダクトと配管の隙間を利用した『空白の空間』がな」
**
一時間後。
如月コンツェルン本社ビル、四十八階。
役員用会議室の壁が、大型ハンマーを持った特殊部隊によって破壊された。
分厚い石膏ボードと防音材が剥がされると、そこには本来あるはずのない、鋼鉄製の重厚な扉が現れた。
透と香澄は、両脇を警備員に拘束され、青ざめた顔でその光景を見つめていた。
扉が開かれる。
中から漂ってきたのは、無機質な機械油の匂いと、微かなミルクの香りだった。
「……あ、う……」
十畳ほどの広さの、窓のない密室。
壁一面には謎のモニターや通信機器が埋め込まれ、中央には場違いなベビーベッドが置かれていた。
その中で、点滴を打たれ、弱々しくも呼吸をしている小さな命。
「翡翠!!」
彰が叫び、部屋の中へ飛び込んだ。
翡翠は生きていた。
透は、彼女を殺しはしなかった。あくまで『人質』として、そして将来的に彰を排除した後の『傀儡』として利用するために、最低限の栄養と睡眠薬を与え、生かしておいたのだ。
彰の腕の中で、翡翠が小さく声を上げて泣いた。
その産声のような泣き声が、十日間の悪夢を終わらせた瞬間だった。
**
事件は解決した。
犯人が身内、それも次期社長候補と目されていた透とその母であったという事実は、如月コンツェルンを揺るがす大スキャンダルになりかけたが、弦十郎の徹底した情報統制により、世間には『遠縁による営利誘拐』として公表された。
警察の取調室。
逮捕された透は、憑き物が落ちたように淡々と犯行を自供した。
動機は、如月の全権掌握。
彰への嫉妬。
香澄という母の呪縛。
だが、最後に一つだけ、捜査官も弦十郎も理解できない『謎』が残った。
それは、翡翠が監禁されていたあの『隠し部屋』の存在についてである。
「……透。あの部屋は、いつ作った?」
面会に来た弦十郎が問いただした。
「本社ビルが落成したのは、今から十年前。お前が十四歳、彰が十二歳の時だ。中学生だったお前に、ビルの設計や施工に関与できるはずがない。……後から改築して作ったにしては、ビルの主要構造体に組み込まれすぎており、あまりにも精巧だった」
透は、アクリル板の向こうで、虚ろな笑みを浮かべた。
「……俺じゃない」
「何?」
「俺が作ったんじゃない。……『見つけた』んだ」
透の証言は、背筋が寒くなるようなものだった。
彼は数年前、本社の地下アーカイブで、建設当時の『裏設計図』のような古いファイルを見つけたのだという。そこには、会長である弦十郎すら知らない、ビル内部の『隠し部屋』や『抜け穴』が記されていた。
「誰が作ったのかは知らない。……だが、あのビルには、俺たちが知らない『誰か』の意志が埋め込まれている。俺はただ、それを利用しただけだ」
——一体、誰が?
何のために、会長の目すら盗んで、本社ビルにあんな部屋を作ったのか?
それは、透たちの犯行とは別の、もっと根深く、巨大な闇の存在を示唆していた。
だが、その謎を解明するには、当時の資料はあまりにも少なく、透の証言以外の手がかりは皆無だった。
**
半年後。
裁判にかけられた如月透と前原香澄には、極めて重い判決が下された。
営利誘拐、監禁致傷、住居侵入、そして特別背任。
それらを複合し、さらに如月家の『社会的抹殺』という意向も加味され、情状酌量の余地なしと断じられた。
懲役十九年。
それは、殺人罪にも匹敵するほどの、異例の長期刑だった。
二人の名前は如月家の家系図から抹消され、その存在は『最初からいなかったもの』として闇に葬られた。
透は控訴することなく、その判決を受け入れた。
最後に法廷を去る際、彼は傍聴席にいた彰に向かって、声を出さずにこう呟いた。
——『まだ、終わっていない』
そうして、二人は北の果て、星見上市にある重犯罪者収容刑務所へと送られた。
厚いコンクリートと鉄格子、そして猛吹雪に閉ざされた監獄の中で、十九年という途方もない時間を、ただ復讐のためだけに息を潜めて過ごすことになる。
彰と菫は、戻ってきた翡翠を抱きしめ、二度とこの手を離さないと誓った。
その四年後。
二人の間に、次女となる瑠璃が誕生する。
平和は戻ったかに見えた。
しかし、本社ビルの四十八階には、今も『誰が作ったか分からない隠し部屋』が封鎖されたまま眠っており、北の地では二匹の鬼が、虎視眈々と帰還の時を待っていたのである。




