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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 3:祝福の宴と、消えた長女~

 時計の針を、今から二十年前へと巻き戻す。


 八月。

 月見坂市は、記録的な猛暑に見舞われていた。アスファルトが溶け出すほどの熱気と、耳をつんざくような蝉時雨。

 その喧騒から切り離された広大な敷地を持つ『如月本邸』は、ある種の熱狂と祝福の只中にあった。


 如月家の正当なる後継者、如月彰(当時二十二歳)と、その妻・菫(当時二十歳)の間に、第一子となる長女が誕生したのである。

 名は、翡翠(ひすい)

 その名の通り、透き通るような緑の瞳を持つ美しい赤子だった。


 先代会長の弦十郎は、初孫の誕生を涙を流して喜び、邸宅には連日、政財界からの祝いの品が山のように届けられた。

 彰と菫もまた、若き父母として、この小さな命を慈しんだ。

 母を早くに亡くし、複雑な家庭環境で育った彰にとって、翡翠は初めて手に入れた『無条件の愛』の結晶であり、彼自身の孤独を埋める光そのものだった。


 だが、光が強ければ強いほど、影もまた色濃く落ちる。

 その光景を、冷ややかな目で見つめる二つの影があった。

 彰の義母である香澄と、義兄の透(当時二十四歳)である。


**


 事件が起きたのは、翡翠が生後三ヶ月を迎えたある日の午後だった。

 その日は、親族や関係者を招いてのささやかな『お披露目会』が、本邸の大広間で催されていた。


 庭園には白百合が咲き誇り、冷えたシャンパンが開けられ、あちこちで笑い声が弾けている。

 誰もが幸福に酔いしれていた。如月の未来は盤石であり、この平和が永遠に続くと信じて疑わなかった。

 ——ただ一人、その(ほころ)びを虎視眈々と狙っていた男を除いては。


「彰、おめでとう。本当に可愛い姪っ子だ」


 グラスを片手に彰に近づいたのは、透だった。

 仕立ての良いスーツを着こなし、端正な顔立ちに柔和な笑みを浮かべている。二十四歳にして如月グループの要職を任されていた彼は、周囲からも『有能で弟想いな兄』として認知されていた。


「ありがとう、透兄さん。……兄さんにも、いつか抱っこしてやってほしいな」


「ああ、もちろんだ。……だが、今は菫さんも疲れているだろう。少し休ませてあげたらどうだ?」


 透の提案は、あまりにも自然的で、優しさに満ちていた。

 彰は素直に頷き、多くの客の対応に追われていた菫に、翡翠を連れて別室の和室で休むよう促した。

 本邸の離れにある、静かな和室。

 そこは、喧騒から離れた最も安全な場所のはずだった。


 午後二時十五分。

 菫は、眠ってしまった翡翠をベビーベッドに寝かせ、ミルクを作るために部屋を出た。

 厨房までは、廊下を歩いてわずか二分ほどの距離だ。

 その間、部屋には誰もいなくなるが、この本邸のセキュリティは万全だ。門には警備員が立ち、庭には防犯カメラがあり、廊下には使用人たちが行き交っている。

 外部からの侵入など、物理的に不可能。

 菫が厨房で哺乳瓶にお湯を注ぎ、再び和室に戻るまで、時間にしておよそ五分。


 ——たった、五分だった。


 午後二時十六分。

 誰もいない和室に、音もなく障子を開けて侵入した影があった。

 如月透である。


 彼は迷いなくベビーベッドへ近づいた。

 人の気配を感じたのか、翡翠が小さく身じろぎし、その大きな瞳を開けようとする。泣き声を上げられたら、すべてが終わる。

 だが、透の動きに慈悲も焦りもなかった。

 彼は懐から一枚のガーゼを取り出した。そこには、医療用の小児麻酔——甘い果実のような香りを放つ揮発性の液体——が、計算され尽くした濃度で染み込ませてあった。


(体重六キログラム。呼吸器系の未発達を考慮し、致死量は〇・五ミリリットル……。意識を断つだけなら、三秒で十分だ)


 彼は冷徹な計算式を脳内で弾き出しながら、翡翠の小さな口元にガーゼを押し当てた。

 一、二、三。

 翡翠が驚いて息を吸い込んだ瞬間、その小さな体から力が抜け、まぶたが重く閉じられた。

 死んではいない。だが、深い昏睡状態に落ちた。これなら数時間は目を覚まさないし、泣くこともない。


 透はガーゼを密閉袋に戻すと、慣れた手つきで翡翠を抱き上げ、事前に用意していた『隠し通路』——屋敷の設計図には存在しない、改築時に彼がこっそりと作らせた壁裏のスペース——へと姿を消した。


 午後二時二十分。

 和室に戻った菫の手から、哺乳瓶が滑り落ちた。

 パリン、という乾いた音が、静寂を引き裂いた。


 ベビーベッドは、もぬけの殻だった。

 布団はまだ温かく、ほんの数分前までそこに小さな命があったことを証明していた。

 だが、翡翠の姿だけが、煙のように消え失せていたのだ。


「……翡翠?」


 菫の悲鳴が屋敷中に響き渡り、宴の空気は一瞬にして凍りついた。


**


 直ちに屋敷中の門が封鎖され、警察が呼ばれた。

 如月本邸は、祝福の場から一転して、出口のない密室監獄へと変貌した。

 招待客、使用人、親族。全員がその場に留め置かれ、徹底的な捜索が行われた。


 しかし、見つからない。

 広大な屋敷のどこを探しても、翡翠の痕跡は一切なかった。

 窓は全て内側から施錠されており、廊下の防犯カメラにも、不審な人物や、赤ん坊を抱いて歩く者の姿は映っていなかった。

 まるで、神隠しだった。

 重力に逆らって天井へ消えたか、あるいは透明人間が連れ去ったとしか思えない不可解な消失。


 パニックに陥る彰を支え、陣頭指揮を執ったのは、皮肉にも透だった。


「兄さん……っ、翡翠が、どこにも……!


「彰、落ち着け。俺がついている。必ず見つけ出す」


「大丈夫だ。この屋敷から出られるはずがない。蟻の這い出る隙間もない警備だ。まだ屋敷のどこかにいるはずだ」


 透は冷静沈着に警備員へ指示を出し、警察とも連携を取り、献身的に弟を支える『理想の兄』を演じきった。

 その横で、義母の香澄もまた、ハンカチで目元を押さえながら菫に寄り添っていた。


「菫さん、気を確かにね。……あの子は如月の大事な跡取りよ。きっと無事に戻ってくるわ」


 その言葉の裏で、彼女たちが内心で舌を出していることに、動転した彰と菫が気づく由もなかった。

 この消失劇こそが、透が長年かけて如月のセキュリティシステムを研究し、その『死角』を突き止めた結果であることを。

 カメラの死角、人の動線の盲点、そして『身内を疑わない』という心理的な隙。

 それら全てをパズルのように組み合わせ、彼は五分間という空白の中で、物理的に赤子を蒸発させたのだ。


**


 一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎた。

 事態は最悪の方向へと進んでいった。

 『誘拐』であれば、犯人からの脅迫電話や身代金の要求があるはずだ。しかし、如月家にかかってくる電話は、心配する親戚からのものか、無言電話だけ。

 犯行声明は一切ない。


 警察の捜査も行き詰まっていた。

 外部からの侵入痕跡はゼロ。内部犯行の線も洗われたが、当日のアリバイがない者は使用人を含めて数十人に及び、特定には至らない。

 何より、赤ん坊という『物体』を、誰の目にも触れずに屋敷の外へ持ち出す方法が解明できなかった。


 屋敷を包む空気は、焦燥から絶望、そして腐敗したような重苦しさへと変わっていった。

 生まれたばかりの我が子を失った菫は、食事も喉を通らず、ただベビーベッドの前で泣き崩れる日々を送った。

 彰もまた、憔悴しきっていた。愛する妻と娘を守れなかった己の無力さに打ちひしがれ、次第に精神を病んでいく。


「……もう、駄目かもしれない」


 そんな空気が屋敷全体を覆い始めた頃、透と香澄は、次のフェーズへと計画を移行させた。

 すなわち、『不幸な事故による後継者の喪失』と、『心神喪失状態の社長に代わる、新たな指導者の擁立』である。


「彰、今の君には休息が必要だ。会社のことは俺と母さんに任せて、君は菫さんのケアに専念してくれ」


 透の言葉は、あくまで優しく、合理的だった。

 しかしそれは、如月コンツェルンの実権を、彰から透へと合法的に譲渡させるための、悪魔の囁きに他ならなかった。

 娘を奪い、希望を奪い、最後にその地位さえも奪い取る。

 完全犯罪。

 そうなるはずだった。


 だが、彼らは一つだけ誤算をしていた。

 会長である弦十郎が、老いてなお、その眼力を失っていなかったこと。

 そして、彼が極秘裏に雇っていた『外部の調査機関』が、警察すら見落としていたある『建築図面の違和感』に気づいたことである。


 翡翠は、屋敷の外には持ち出されていなかった。

 だが、屋敷の中にもいなかった。

 彼女は、物理的に『存在しないはずの場所』へと運ばれていたのである。



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