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如月令嬢は『成層圏の泥靴を履かない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 2:歪な家系図と、二人の後継者~

 通された応接室は、先ほどのラウンジ以上の重圧が支配する空間だった。

 壁一面には歴代の経営者と思しき人物たちの肖像画が飾られ、部屋の中央には、運動会ができそうなくらい巨大で重厚なマホガニーの一枚板テーブルが鎮座している。

 その上座に如月瑠璃、その隣に母である菫さんが座り、背後には岩のようなボディーガード、黒田さんが仁王立ちで控えている。


 僕はといえば、場違いな空気に胃を痛めながら、テーブルの最も下座にある革張りの椅子に、申し訳程度に腰を下ろしていた。


「さて。どこから話せばいいのかしらね」


 菫さんが、手元のタブレット端末を操作しながら静かに口を開いた。

 テーブルの中央に設置されたプロジェクターが起動し、空中に青白い光で構成された複雑な家系図が投影される。

 そこには、月見坂の支配者として君臨してきた『如月一族』の、栄光と影が克明に刻まれていた。


「朔くん。あなたは、瑠璃の父である彰さんが、どういう経緯で今の社長の地位に就いたか知っている?」


 突然の問いに、僕は背筋を伸ばした。


「いえ……。如月コンツェルンの御曹司として、普通に継承されたものだとばかり思っていましたけど」


 僕の凡庸な回答に、上座で紅茶を啜っていた如月さんが、冷ややかな鼻笑いを漏らした。


「『普通』などという牧歌的な言葉は、この家には存在せんよ。わが家の歴史は、常に外部から侵入しようとする不純物との、泥沼の防衛戦の連続じゃ」


 不純物。彼女が好んで使うその言葉が、今はひどく生々しく響く。

 菫さんは悲しげな眼差しで、家系図の一角——瑠璃の父親である彰さんの名前の上にある、一人の女性の名前を指し示した。


「三十四年前。彰さんがまだ八歳の時に、実母である(さき)さんが病気で亡くなったの。咲さんはとても聡明で優しい方で、当時の如月コンツェルンの社長でもあったわ。彼女の早すぎる死は、まだ幼かった彰さんの心を深く傷つけ、一族全体に大きな動揺をもたらした」


 ホログラムに、若き日の——今の如月さんによく似た面差しを持つ——少年の写真が映し出される。

 母を失った八歳の少年。その孤独につけ込むようにして、物語の歯車は狂い始めたのだという。


「それから二年後。三十ニ年前のことよ。彰さんが十歳の時、会長であり父でもある弦十郎(げんじゅうろう)様は再婚された。……その時、後妻として如月家に嫁いできたのが、前原香澄(まえばら かすみ)という女性だった」


 家系図の弦十郎さんの横に、新たな枝が伸びる。

 そして、その香澄という女性の下に、もう一つの枝が。


 前原透(まえばら とおる)

 彰さんより二つ年上の、当時十二歳。

 突然現れた、血の繋がらない『兄』の存在。


「傍目には、突然兄弟ができた彰さんと透さんは、仲良く育っているように見えたわ。母を亡くして塞ぎ込んでいた彰さんにとって、二つ年上の頼れる兄の存在は、最初は救いのように思えたのかもしれない。……けれど、それは欺瞞に満ちた平穏に過ぎなかった」


 菫さんの声が、微かに硬くなる。

 彼女の指が、香澄という女性の顔写真をなぞった。美しく、しかしどこか冷たい瞳をした女性だ。


「香澄さんと透さんは、最初から『如月』という名前と、その莫大な資産だけを目的にこの家に入り込んできたのよ。……いわゆる、乗っ取りね」


「乗っ取り……ドラマみたいな話ですね」


 僕が思わず呟くと、黒田さんが重々しく口を挟んだ。


「ドラマよりも(たち)が悪いですよ、光太郎さん。……当時、社長不在のまま会長の弦十郎様が実権を握っていた如月コンツェルンにおいて、次期社長の座は、当然ながら直系の息子である彰様のものになるはずでした。しかし、香澄は巧みに弦十郎様を籠絡し、自らの連れ子である透を後継者に据えようと、執拗な工作を開始したのです」


 二人の後継者候補。

 一人は、亡き母の面影と如月の血を正当に受け継ぐ、繊細な少年・彰。

 もう一人は、野心家の母に操られ、他人の家に潜り込み、その座を奪おうと爪を研ぐ侵入者・透。

 二人の少年は、同じ屋根の下で『兄弟』として暮らしながら、水面下では互いを排除すべき敵として認識せざるを得なかったのだ。


「透は優秀だったわ。……認めたくはないけれど、天才的と言ってもいい」


 菫さんが苦々しげに語る。


「彼は彰さんとは対照的に、人の心の隙間に入り込む(すべ)と、組織の『死角』を見つけることに異常な才能を持っていた。彼は成長するにつれ、如月の内部に独自の派閥を作り上げ、徐々に彰さんを孤立させていったの。『正当な血筋だけの無能な弟』と『血は繋がっていないが有能な兄』という構図を作り上げてね」


「透という男の恐ろしさは、その『システムへの理解度』にあります」


 黒田さんが、まるで忌まわしい記憶を掘り起こすように言った。


「彼は、人間関係だけでなく、物理的なセキュリティや建物の構造といった『ハードウェアの死角』を見つけることにも長けていました。……今回の、あの四十八階の足跡もそうです。彼がかつて培ったこのビルへの知識と、十九年の獄中生活で練り上げた執念が結びついた結果でしょう」


「十九年……」


 僕はその数字の重さに、改めて息を呑んだ。

 二十年前に起きた誘拐事件。犯人として捕まった透さんと香澄さんは、十九年という長い歳月を、北の地の鉄格子の中で過ごしてきたのだ。


「彼らは、如月という大樹に寄生しようとして失敗し、切り捨てられた枯れ枝なの。……けれど、その枯れ枝は、北の果てで腐ることなく、復讐の毒をたっぷりと蓄えていた」


 菫さんは、タブレットの電源を切った。

 空中に浮かんでいた青白い家系図がフッと消え、応接室に再び重苦しい沈黙が戻る。


「一年前、刑期を終えて出所した彼らの消息を、私たちは見失っていた。……けれど、あの窓の足跡がすべてを物語っているわ。彼らは戻ってきた。そして、今度は権力争いなんて生温い手段ではなく、『如月の血』そのものを物理的に断ち切るために、動き出したのよ」


 菫さんの視線が、隣に座る娘——瑠璃に向けられる。

 だが、その視線はすぐに宙を彷徨い、底知れぬ不安に揺れた。


「問題は、彼らの標的が誰かということよ」


「標的って……如月さん、あなたのことじゃないんですか?」


 僕が如月さんの顔を見て尋ねると、菫さんは首を横に振った。


「分からないわ。彼らの目的は、如月コンツェルンの全権限。そのためなら、手段もターゲットも選ばない。……ここにいる瑠璃かもしれないし、長女の翡翠(ひすい)が再び狙われるかもしれない。あるいは彰さん、会長である弦十郎様(お養父様)……いえ、私という可能性だってある」


 背筋が凍った。

 個人的な恨みではない。『家』そのものに対するテロリズム。

 あの四十八階の足跡は、『如月の名を冠する人間なら誰でも、いつでも狩れる』という、一族全体への死刑宣告だったのだ。


 如月さんが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 その長い黒髪が、静かな怒りに揺れる。


「……ふん。誰が標的であろうと関係ない。如月の名を継ぐ者として、その程度の不純物に怯えてどうする。後継者争いに敗れ、十九年も檻の中で泥を啜っていた男が、今更何をしようというのじゃ」


 如月さんは不敵に微笑んでみせた。

 いつもの、絶対的な自信に満ちた『鑑定士』の顔だ。

 けれど、その言葉とは裏腹に、彼女の手元——ティーカップを持つ指先が、ほんの一瞬だけ、微かに震えたのを僕は見てしまった。


 それは恐怖か、それとも生理的な嫌悪か。

 彼女は、自分だけでなく、姉や両親までもが『泥靴』の標的になっているという事実に、かつてないほどの警戒心を抱いているようだった。


「黒田、警備を最大レベルに引き上げよ。姉と父、祖父の護衛も倍に増やせ。……サクタロウ」


「は、はい」


 名前を呼ばれ、僕は反射的に背筋を正した。

 如月さんは、僕を真っ直ぐに見据えて告げた。


「お主も明日からは、わしの半径三メートル以内から離れるな」


「え? トイレもですか!?」


 僕が素っ頓狂な声を上げると、如月さんはゴミを見るような目で僕を見下ろした。


「……愚か者。誰が喜んでお主の用足しなど鑑賞するか。個室の扉の前で待機しておれという意味じゃ」


「あ、ああ、なるほど……」


「だが、それ以外は常について回れ。……敵の狙いが絞りきれぬ以上、わしの身近にいる『弱点』も塞いでおかねばならんからな」


 弱点。

 彼女はそう言ったが、その瞳の奥には、僕まで巻き込まれることへの不器用な懸念が見え隠れしていた。

 如月家全体を狙う巨大な悪意。その余波は、間違いなく僕のような一般人にも及ぶ可能性がある。


 二人の後継者による戦いは、二十年前に終わったはずだった。

 けれど、その火種は消えていなかったのだ。

 十九年前の怨念という油を注がれ、今、再び月見坂の街を焼き尽くそうと燃え上がっている。

 そしてその炎は、今まさに、僕たちの日常へと手を伸ばそうとしていた。



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