エピローグ:残された青写真と、次なる死角
極北の死地から生還して数日が経過した。
月見坂市の空は、あの狂乱する猛吹雪がまるで質の悪い幻覚であったかのように、人工的なまでに澄み切った青空を広げている。高度なAIによってインフラの全てが一元管理された新市街の空域には、都市機能の点検を担う小型のドローン群が規則正しい羽音を立てて飛び交い、徹底的に計算された平和と秩序を無機質に主張していた。
僕はその完璧すぎる新市街の恩恵をほとんど受けることのない、錆びついた旧市街の安アパートから、いつもと変わらない高校の制服に身を包んで登校の途についていた。しがない高校一年生としての、限りなく平凡な日常の再開である。
凍傷の一歩手前まで追い詰められ、全身の筋肉が悲鳴を上げていた肉体の痛みは、市販の湿布と痛み止めでどうにか誤魔化せる程度にまで回復している。だが、コンクリートの壁の裏側に広がる冷たい暗闇の記憶と、雪崩と共に谷底へ消えていった前原透の狂気に満ちた眼差しは、どれだけ暖かい布団に包まれても僕の脳裏から完全に消え去ることはなかった。
放課後。僕が向かったのは、帰路である旧市街へのバス停ではなく、新市街の中心にそびえ立つ如月本社ビルでもない。そのさらに奥、都市の喧騒から完全に切り離された高台に位置する、如月家の本邸だった。
重厚な門を抜け、美術館のように静まり返った広大な屋敷の一室。分厚いマホガニーの扉をノックして鑑定室の中に入ると、そこにはすでに、この数日間、文字通り一睡もしていないであろう美しき同級生の姿があった。
「遅いぞ、サクタロウ。学校の授業などという無価値な反復練習に、いつまで時間を割くつもりじゃ」
如月瑠璃は、部屋の中央に置かれた巨大なアンティークのテーブルに身を乗り出し、僕の顔を見ることなく不機嫌な声で言い放った。
彼女は学校の制服ではなく、室内用の豪奢なドレスを身に纏っている。その周囲には、あの極寒の管理室から持ち帰った『繭』の青焼き図面をはじめ、如月コンツェルンが所有する数多の建築物の設計データが、まるで狂気のモザイクアートのように所狭しと広げられていた。
部屋の隅では、主を命懸けで守り抜けなかった自責の念から完全に立ち直り、さらに過保護という名の重装甲を身にまとった巨漢の黒田さんが、微動だにせず直立不動の姿勢で控えている。その極太の腕には、いつでも主の命に従い実力行使に出られるよう、磨き上げられた特殊警棒が握り締められていた。
「無価値って言われても、僕らは一応、普通の高校生ですからね。出席日数が足りなくて留年でもしたら、助手の仕事どころじゃなくなりますよ」
僕は不用意に彼女のパーソナルスペースを侵さないよう、テーブルからきっちり一・五メートルの距離を保って立ち止まった。かすかに漂う百合の香りが僕の防衛本能を過敏に刺激するが、顔の半分を焼かれた復讐鬼が迫ってくる恐怖に比べれば、この程度の緊張感は日常のスパイスに過ぎない。
「それで、徹夜の解読作業の進捗はどうなんですか。その目の下の微かな隈から察するに、あまり良い知らせではなさそうですが」
僕の指摘に、如月さんは手にした銀のルーペをテーブルの上に乱暴に放り投げ、苛立ちを隠すことなく深い溜息をついた。
「最悪じゃよ。透という小悪党を排除したところで、如月の歴史に巣食う病巣は全く取り除かれてはおらんかった」
彼女は細く白い指先で、テーブルの上に広げられた何枚もの図面を次々と指し示した。
「北の監獄と、本社ビル四十八階の隠し部屋。その二つは、Mという顔のない建築家が仕掛けた悪意の、ほんの氷山の一角に過ぎん。ここ数日で如月の地下アーカイブから過去の建築データを洗い直した結果、同様の不自然な死角や、物理法則を利用した悪辣な機能が隠蔽された施設が、この月見坂市内にいくつも存在していることが判明したのじゃ」
僕は息を呑んだ。
それはつまり、透が図面の存在を知らなかっただけで、このAIに管理された完璧なスマートシティのあちこちに、人間を実験動物のように扱うための巨大な罠が未だに口を開けて待っているということだ。
「透の母親である香澄が、なぜあのような古い図面の原本を持っていたのか。Mという建築家は、一体いつから如月コンツェルンの中枢に入り込み、誰の庇護を受けてこれほどの虚構をこの都市に刻み込んだのか。謎は深まるばかりじゃ」
如月さんは、薄暗い間接照明の下で、獲物を狙う猛禽類のような鋭い視線を図面の束に向けた。彼女にとって、これは単なる財産管理やセキュリティの問題ではない。自らの血族が築き上げた絶対的な帝国が、顔のない他者の悪意によって設計されていたという、鑑定士としての矜持を根底から揺るがす最大の屈辱なのだ。
「この月見坂市に潜むMの痕跡を一つ残らず洗い出し、論理の光を当てて完全に解体する。AIの監視網すら欺いて作られた死角を暴き出すこと。それが、如月瑠璃の次なる仕事じゃ。サクタロウ、お主にも当然、最前列の特等席を用意してあるぞ」
「特等席っていうか、どうせまた真っ先に未知の罠に放り込まれるカナリア役なんでしょ。分かってますよ」
僕は肩をすくめ、小さく笑いながら答えた。
旧市街の安アパートで過ごす退屈で安全な日常は、もう二度と戻ってこない。顔のない建築家が仕掛けた不可視の迷宮は、この大都市のコンクリートと電子回路の隙間に、今も静かに脈打っているのだ。
だが、その迷宮の最深部に潜む真実を暴き出すのは、透のような怨念に囚われた復讐鬼でも、都市を管理する無機質なAIでもない。目の前に立つ、絶対的な知性と誇りを持つ美しき鑑定士なのだ。
僕は制服のネクタイを少しだけ緩め、テーブルの上に広げられた広大な都市の設計図へと、彼女と共に視線を落とした。
次なる死角の扉は、すでに開かれている。
~如月令嬢は『成層圏の泥靴を履かない』 fin~




