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番外編第1巻:如月令嬢は『成層圏の泥靴を履かない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 21:帰還の空と、不可視の迷宮~

 軍用規格の大型ヘリコプターが発する鼓膜を劈くようなローター音と、機体全体を軋ませる暴力的な振動すらも、今の僕にとっては極上の子守唄のように感じられた。

 極北の白銀世界から空へと舞い上がった機内の暖房設備は完璧に機能しており、分厚いサバイバルブランケットに包まれた僕の身体から、骨の髄にまでこびりついていた死の冷気を確実に奪い去っていく。同行していた女性の救急隊員が僕の毛布の乱れを直そうと手を伸ばしてきた際、僕は反射的に座席の奥へと身を縮めてその接触を回避してしまったが、彼女は単に僕が寒さに震え上がっているだけだと解釈してくれたようだった。僕の女性に対する病的で致命的な拒絶反応は、こうした極限状態においては上手くカモフラージュされるらしい。


 向かいの座席では、五十代手前とは思えない筋骨隆々の巨漢である黒田さんが、まるで迷子になった子供のように鼻をすすり上げ、大きなハンカチで赤く腫らした目元を何度も拭い続けていた。彼は主を無事に奪還できた安堵と、自らの失態に対する不甲斐なさの板挟みになり、離陸してからずっとこの調子で静かに涙を流している。彼ほどの圧倒的な戦闘力を持つボディーガードが、ここまで感情を露わにして泣きじゃくる姿はひどくアンバランスで滑稽にも見えたが、その根底にある如月家への狂気的なまでの忠誠心を思うと、ただの高校生である僕が安易に慰めの言葉をかけることなど到底できなかった。


 当の主である如月さんは、そんな忠犬の暑苦しい涙など全く視界の端にも入れていなかった。

 彼女は革張りのVIPシートに深く腰掛けながら、機内の心許ない読書灯の明かりを頼りに、早くも膝の上で青焼き図面を広げて解読作業を再開している。火傷や凍傷のチェックを申し出た医療スタッフを冷酷な一瞥だけで退け、ススで汚れたドレスを着替えることすら拒否した彼女の全神経は、すでに過去となった誘拐事件の顛末ではなく、これから対峙すべき顔のない建築家との知恵比べへと完全に移行していた。

 窓から差し込む朝の光が彼女の銀色の髪を神秘的に輝かせ、その横顔に絶対的な知性の影を落としている。彼女が時折、図面の特定の箇所を指先でなぞりながら薄い唇に好戦的な笑みを浮かべるたび、僕はそこに潜む狂気的な美しさに背筋が粟立つのを感じた。


 数時間のフライトの後、窓の外の景色は、人を拒絶する極北の雪山から、地平線の彼方まで続く人工的な光と鋼鉄の海へと変貌を遂げた。

 月見坂市だ。

 如月コンツェルンの中枢であり、高度なAIによってインフラの全てが一元管理されている煌びやかな新市街。そして、その影に隠れるように存在する、僕が住む時代に取り残されたような錆びついた旧市街。その二つの顔を持つ巨大な都市が、眼下に圧倒的な質量を持って広がっている。現実のいかなる地図からも切り離されたようなこの独立都市を見下ろしながら、僕は今まで感じたことのない異様な寒気に襲われた。


 昨日まで、この月見坂市は僕にとって退屈で安全な日常の象徴だった。

 しがない高校一年生として、ただ平穏に学校に通い、旧市街の片隅で誰の目にも留まらずに生きていく。それが僕の分相応な人生のはずだった。しかし、今は違う。圧倒的な機能美を誇るこのスマートシティのどこかに、あの『繭』を設計したMという悪趣味な建築家の思想が根を張っているのだ。如月本社ビルの四十八階に隠されていたヴォイドのように、眼下に林立する無数の高層ビル群の中にも、人間の尊厳を嘲笑うような悪意の死角が仕掛けられているのかもしれない。

 そう考えると、この光り輝く巨大都市そのものが、僕たちを飲み込もうと口を開けて待つ、途方もない規模の迷宮のように思えてならなかった。


「怯える必要はない、サクタロウ」


 僕が窓の外の景色に呑まれそうになっているのを見透かしたかのように、如月さんが図面から顔を上げずに静かに言った。


「どれほど巨大で複雑なスマートシティであろうと、人間が設計し、物理法則の上に成り立っている以上、必ず意図という名の足跡が残る。Mがこの月見坂市にどれほどの罠を仕掛けていようと、わしがその全てを鑑定し、論理の光を当てて白日の下に引きずり出してみせる。AIの管理網すら欺いて隠蔽された死角を暴き、虚構の城を一つ残らず解体していくことこそが、如月瑠璃の鑑定士としての使命じゃ」


 彼女は図面をくるくると巻き上げ、それを指揮棒のように軽く振って僕を指し示した。


「そして、お主にはその解体作業の特等席を与えてやる。同じ学び舎に通うただの同級生という隠れ蓑と、凡人ならではの異常なまでの危機回避能力をフルに活用し、これからもわしの優秀な助手として存分に働くが良い」


 それは、労いの言葉でもなければ、生還を祝う言葉でもない。僕という人間を今後も容赦なく危険地帯へと連れ回すという、冷徹な主従契約の継続宣言だった。

 普通なら冗談じゃないと逃げ出す場面だろう。学校に戻ったらすぐに彼女と距離を置き、元の冴えない旧市街の高校生に戻るべきなのだ。しかし、僕の口から出たのは、自分でも驚くほど素直で、そして諦念に満ちた返答だった。


「分かりましたよ。どうせ僕の平穏な日常なんて、あの本社ビルの隠し部屋に足を踏み入れた瞬間に終わってたんです。とことん付き合いますよ、如月さん」


 僕の答えを聞いて、如月さんは満足そうに目を細め、再び窓の外へと視線を向けた。

 眼下には、月見坂市の中心にそびえ立つ如月本社ビルの巨大な威容が迫ってきている。透という身内の反逆者を排除したところで、如月家の歴史に巣食う病巣はまだ取り除かれてはいない。むしろ、ここからが本当の戦いの始まりなのだ。


 僕は深く息を吸い込み、ヘリの空調越しに微かに漂う機械油の匂いを肺の奥底まで満たした。

 顔のない建築家が仕掛けた不可視の迷宮。その最深部に潜む真実を暴くため、僕は美しくも恐ろしい同級生の隣で、これからも絶対的な盾として生き延びていくのだと、改めて覚悟を決めた。



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