第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 20:夜明けの救助と、不機嫌な鑑定士~
処刑台と化した極寒の屋上から螺旋階段を下り、再び旧管理室へと戻ってきた僕たちは、そこから永遠とも思えるような長く静かな時間を過ごした。
暖炉のある部屋は爆発で使い物にならず、他の部屋にどのような罠が仕掛けられているか分からない以上、Mの設計図が広げられていたこの薄暗い管理室が、皮肉にも最も安全な待機場所となったのだ。空調が完全に死んでいるため室温は氷点下に近いままだが、吹きすさぶ猛吹雪を分厚いコンクリートの壁が遮ってくれるだけでも、死の淵からは一歩遠ざかることができた。
僕は部屋の隅で膝を抱え、破れたスーツの隙間から入り込む冷気にガタガタと震えながら夜明けを待っていた。極度の緊張が解けた反動からか、筋肉は強張り、疲労と安堵が入り混じった奇妙な睡魔が何度も襲ってくる。ここで眠ればそのまま凍死してしまうかもしれないという本能の警告に従い、僕は自分の頬を平手で打ち、痛覚で無理やり意識を繋ぎ止めるという惨めな作業を繰り返した。
だが、僕から数メートル離れたコンソールデスクの前に座る如月瑠璃という少女は、僕のような無様な姿を一切見せなかった。
彼女は埃まみれの事務椅子に背筋を伸ばして優雅に腰掛け、非常用のバッテリーで微かに点灯する小さな手元灯の明かりを頼りに、ひたすら青焼きの図面を読み込んでいた。ススで汚れ、所々が破れた痛々しいドレス姿でありながら、その横顔には王族のような絶対的な気品が漂っている。彼女は寒さに震えることも、疲労に顔をしかめることもない。彼女の全神経は、図面の線一本一本に込められた顔のない建築家の意図を読み解くことに集中しており、肉体的な苦痛など意識の奥底へと完全に追いやられているようだった。
その人間離れした集中力と美しさに、僕は不謹慎にも見惚れてしまい、おかげで凍死せずに済んだのかもしれない。
やがて、窓のない管理室の換気口から差し込む僅かな光の色が、漆黒から群青へと変わり始めた頃だった。
ズズズズズという重低音が、分厚いコンクリートの壁を震わせた。
最初は吹雪の風切り音かと思ったが、違う。それは一定のリズムを持った機械的な振動であり、徐々にその音量を増しながら僕たちの頭上へと近づいてくる。ヘリコプターのローター音だ。
「如月さん、今の音!」
僕が弾かれたように顔を上げると、如月さんは図面から視線を外すことなく、ゆっくりと銀のルーペを折りたたんだ。
「遅い。黒田め、始末書だけでは済まさんぞ」
口では厳しいことを言いながらも、彼女の声には僅かな安堵の響きが混じっていた。
それから十分も経たないうちに、管理室の重厚な鉄扉が外側から乱暴に蹴破られた。
砂埃を巻き上げて飛び込んできたのは、漆黒のタクティカルスーツに身を包み、アサルトライフルを構えた数名の屈強な男たちだった。彼らは部屋の中を一瞬で制圧するように銃口を巡らせた後、僕と如月さんの無事を確認すると、一斉に銃を下ろして直立不動の姿勢をとった。
その男たちの間を割るようにして、一人の大柄な男が進み出てきた。
黒田さんだ。
五十代手前という年齢を全く感じさせない筋骨隆々とした屈強な肉体を、特注のスリーピーススーツに押し込んでいる彼は、如月家が抱える数多のボディーガードの中でも屈指の実力を誇る、如月瑠璃の専属護衛である。
猛吹雪の雪山に突入してきたというのに、その服装に乱れはなかった。だが、岩石のように厳つい顔にはいつもの精悍さは微塵もなく、深い自責の念と共に、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めていた。
彼はコンソールデスクの前に座る如月さんの前まで進み出ると、文字通り床に膝から崩れ落ち、額をコンクリートに擦りつけるほどの勢いで平伏した。大粒の涙が、その無骨な頬を伝って床に次々と落ちていく。彼は元来ひどく涙もろい性格であり、これまでも様々な意味で如月さんに泣かされてきた男だが、今回ばかりは文字通りの血の涙を流さんばかりの悲痛さだった。
「お嬢様。お迎えに上がりました。護衛の任にありながら、敵の罠を見抜けず車内に催眠ガスを流し込まれ、あろうことか私自身が昏倒し、お嬢様を誘拐されるという万死に値する失態を犯しました。生きてお顔を合わせる資格もない愚行、どのような罰も受ける覚悟でございます」
嗚咽を交えながら絞り出す黒田さんの謝罪に、如月さんは冷ややかな視線を向けた。
「生憎じゃが、お主の命を受け取ったところで腹の足しにもならん。むさ苦しい巨漢の切腹など見たくもないのでな。さっさと涙を拭け。言い訳と処分は後回しじゃ。状況を報告せよ」
如月さんが冷たく命じると、黒田さんは目元を乱暴に拭い、感情を押し殺した事務的な口調で報告を始めた。
「ハッ。私が意識を取り戻した後、直ちにあの逃走車両に仕掛けられたガスの経路と、車両自体のGPSの履歴を逆探知いたしました。そこから前原透の所有するダミー会社が、三十年前にこの星見上市の山林を購入していた事実を特定しております。吹雪による視界不良で空路の確保に難航し、到着が遅れましたが、明け方のアプローチにて強行着陸いたしました。先ほど、本館の地下を徘徊していた前原香澄を確保。さらに、屋上から数十メートル下の雪の斜面にて、両脚と肋骨を複雑骨折して身動きが取れなくなっていた前原透を発見し、医療チームによる応急処置の後、拘束いたしました」
その的確すぎる報告を聞いて、僕は全身の力が抜け、ついに床へと座り込んだ。
終わったのだ。
僕たちを拉致し、極寒の密室でなぶり殺しにしようとした復讐鬼たちは、これで完全に無力化された。もう熱風に焼かれることも、狂った老婆の包丁から逃げ回ることもない。僕の口から、安堵の長い溜息が漏れた。
救助隊の隊員の一人が、僕の肩に分厚いサバイバルブランケットを掛け、温かいコーヒーの入った水筒を差し出してくれた。僕は彼の手指に触れないよう慎重に水筒を受け取り、その温もりを両手で包み込んだ。
「ご苦労。連中は警察に引き渡す前に、如月の私設医療機関で徹底的に治療しろ。死なれては、十九年分の不正な資産流用のツケを払わせることができんからな」
「承知いたしました。すでに手配は完了しております。お嬢様にもお怪我はないでしょうか。直ちに下界の病院へお連れいたしますが」
「わしは無傷じゃ。だが、サクタロウの貧弱な身体は限界に近いじゃろう。先にヘリへ運んでやれ」
如月さんは僕の方を顎でしゃくった。心配してくれているというよりは、壊れかけの機材を労わるような冷淡な響きだったが、それでも彼女なりの最大限の配慮であることは理解できた。
「ありがとうございます、如月さん。でも、如月さんはどうするんですか?」
僕がブランケットに包まりながら問いかけると、彼女は不機嫌そうに端正な眉をひそめ、コンソールデスクの上の青焼き図面を指先で強く叩いた。
「この施設の構造は、全てこの図面に記されておる。黒田、救助部隊を二手に分けろ。一隊は我々を月見坂へ護送。もう一隊はこの施設に残り、図面と照らし合わせながら、隠された資料や設備を根こそぎ回収せよ。紙切れ一枚、ネジ一本たりとも残すな」
「ハッ。しかしお嬢様、この建物は前原透の個人的なアジトに過ぎないのでは」
「透などという小悪党は、もはやどうでもいい。問題は、この『繭』を設計した建築家じゃ」
如月さんの声が、一段と低く、重みを増した。
彼女は黒田さんから差し出された純白のハンカチで指先の埃を拭いながら、図面の右下にある『Architect : M』の署名を睨みつける。
「このMという怪物は、人間の尊厳を奪い、管理し、そして排出するための完璧な機能美を三十年前に完成させていた。透はそれを見つけ、本社ビルの構造にも同じ死角が存在することに気づいただけじゃ。つまり、Mは如月コンツェルンの根幹に深く入り込み、我々の足元に無数の爆弾を仕掛けていったまま、歴史の闇に姿を消しているということになる」
黒田さんの顔色が変わった。百戦錬磨のボディーガードであっても、如月という巨大帝国の足元そのものが三十年前から何者かによって設計された虚構かもしれないという事実は、計り知れない脅威として映ったのだろう。
「お分かりか、黒田。我々が対峙すべき真の敵は、怨念に狂った落ちこぼれの身内などではない。如月の莫大な資産を利用し、己の異常な建築思想を世界に刻み込んだ、顔のない亡霊じゃ」
如月さんは図面を丸めて筒に収めると、それをステッキのように手にして立ち上がった。
その瞳には、生き延びたことへの安堵など微塵もなく、未だ解き明かされていない謎に対する強烈な飢餓感と、敗北に近い不機嫌さだけが渦巻いていた。彼女にとって、透たちを退けたことは単なる事務作業であり、Mの正体を特定できなかった事実こそが、鑑定士としての矜持を傷つける最大の屈辱なのだ。
「サクタロウ、立て。休憩はヘリの中で済ませろ」
彼女は僕を見下ろし、冷徹な声で命じた。
「月見坂の本邸に戻り次第、この図面の徹底的な解析に入る。透が持ち出さなかった資料が、まだ本社の地下アーカイブに眠っているはずじゃ。Mの痕跡を一つ残らず洗い出す。徹夜になるぞ、覚悟しておけ」
「えっ。帰ってすぐ徹夜ですか。僕、もう全身筋肉痛と凍傷の一歩手前で、まともにペンも握れないんですけど」
「安心しろ。頭脳さえ動けば、肉体の疲労は知的好奇心が麻痺させてくれる。どうしても動けぬと言うなら、黒田に頼んで強力な興奮剤でも注射してやろう」
本気とも冗談ともつかない彼女の恐ろしい提案に、僕は慌てて首を横に振った。このままでは本当に怪しい薬を打たれて、休む間もなく図面の山に埋もれる羽目になる。
僕はブランケットをきつく巻き直し、気力を振り絞って立ち上がった。
「分かりましたよ。やります、やればいいんでしょう。助手ですからね」
半ば自暴自棄になって答えると、如月さんは満足そうに小さく鼻を鳴らした。
僕たちは黒田さんと武装した隊員たちに前後を挟まれながら、破壊された管理室を後にする。来た時とは違い、ライトで煌々と照らされたコンクリートの回廊は、もはや恐ろしい迷宮ではなく、ただの無機質な抜け殻に過ぎなかった。
外に出ると、猛吹雪は嘘のように止んでおり、東の空からは冷たくも眩しい朝日が差し込んでいた。
雪原の中央で待機している大型のヘリコプターのプロペラが、周囲の雪を激しく舞い上げている。その轟音の中へ向かって歩きながら、僕は心の中で深く溜息をついた。
誘拐事件は解決した。だが、僕の平穏な日常はもう戻ってこない。如月瑠璃という美しくも容赦のない鑑定士の助手として、僕はこれから先も、Mという見えない建築家が仕掛けた無数の死角へと足を踏み入れていくことになるのだ。
それは恐怖でもあり、同時に、僕の退屈な人生を劇的に変えてしまった強烈な引力でもあった。
僕は雪に足を取られないように慎重に歩みを進めながら、前を歩く彼女の凜とした背中を、見失わないようにしっかりと見つめ続けた。




