第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 1:招かれた助手と、禁忌の名前~
月見坂市の旧市街。
錆びたトタン屋根と、迷路のように入り組んだ路地が続くこのエリアは、僕にとって唯一安らげる場所だ。放課後の気だるい空気の中、肉屋の軒先で買った安売りのコロッケを齧りながら自宅へ向かっていた僕のスマートフォンが、かつてないほど激しく震えたのは、ちょうど駅前の商店街を抜けたあたりだった。
『至急、本社ビル四十八階のラウンジへ来い。拒否権はない。――如月瑠璃』
その簡潔すぎるメッセージを見た瞬間、僕の胃は鉛を飲み込んだように重くなった。
如月瑠璃の助手になって数ヶ月。彼女の『至急』がろくな事態であった試しがない。僕は食べかけのコロッケを口に放り込み、慌てて駅へ引き返した。旧市街から新市街の中心に聳える如月コンツェルン本社ビルまでは、徒歩と電車を乗り継いで三、四十分はかかる。
この『物理的な距離』こそが、如月家と僕たち庶民との絶望的な格差そのものだ。
四十分後。
僕は空港のゲートよりも厳重なセキュリティを、如月さんから送られてきたデジタル通行証でようやく突破し、直通エレベーターに飛び込んだ。
上昇する重力に内臓を押し下げられながら、僕は鏡のような壁面に映る自分の情けない姿を見た。ヨレた制服。旧市街の埃を吸った靴。これから向かう地上二百メートルの聖域には、あまりにも不釣り合いだった。
チン、という澄んだ電子音と共に、四十八階の扉が開く。
そこは、社員専用ラウンジという名の、静謐な無菌室だった。
最高級の絨毯が足音を殺す中、僕は奥にある窓際のソファへと急いだ。
「失礼します……。あの、如月さん……」
声をかけた僕の視界に入ってきたのは、不機嫌を絵に描いたような顔で座る如月瑠璃と、その傍らに立つ一人の美しい女性だった。
如月菫さん。
如月コンツェルンの社長である如月彰さんの妻であり、自らも社長秘書として辣腕を振るう、この巨大組織の屋台骨の一人だ。
年齢は四十歳だと聞いているが、その肌には陶磁器のような滑らかな艶があり、年齢を感じさせない若々しさと気品が漂っている。如月さんと同じ艶やかな漆黒の髪を、仕事の邪魔にならないよう後頭部で美しくまとめ上げ、銀縁の薄い眼鏡の奥からは、あらゆる事象を見通すような知的な瞳が覗いていた。
身長百六十二センチ。すらりとした立ち姿は隙がなく、まさに『デキる女』を具現化したような才媛だが、その眼差しには娘を想う母としての温かい色が宿っている。
「遅いぞ、サクタロウ。お主を待つ間に、ダージリンが完全に冷めてしまったではないか」
如月さんは僕を一瞥し、手元のティーカップをソーサーに置いた。
その紫の瞳には、いつもの傲岸不遜な光に加え、抜き差しならない鋭い緊張感が宿っている。
「す、すみません! 旧市街から急いで戻ってきたんですけど……。あ、あの、お母様までいらっしゃるなんて、何か大事でもあったんですか?」
僕が精一杯の敬意を込めて尋ねると、菫さんは僕の方を振り返り、銀縁眼鏡の位置を直しながら、微かに眉を下げて頷いた。
「急に呼び出してごめんなさいね、朔くん。寒かったでしょうに。でも、今のこの状況は……私たちの手に負えるかどうか、判断が難しいのよ」
菫さんの声は、鈴を転がすように美しく、丁寧だった。
見た目のクールな印象とは裏腹に、彼女は僕のような一般人に対しても常に物腰が柔らかい。しかし、その声の底には、いつもの冷静な秘書としての響きに加え、隠しきれない動揺が滲んでいた。
如月さんはソファから立ち上がり、窓ガラスの特定の箇所を指差した。
「御託はいい。サクタロウ、お主の凡庸な眼でこれを確認せよ。これはお主たちの住む泥臭い世界の住人による、挑戦状じゃ」
僕は言われるがままに窓へと近づき、そこにある『不純物』を凝視した。
——足跡だ。
赤茶色の泥にまみれた、右足だけの、無骨なブーツの跡。
それが、地上四十八階の窓ガラスの『外側』に、べったりと付着していた。
「な……なんですかこれ。外側? 窓の外に人がいたっていうんですか?ただでさえ寒いのに」
「物理的には不可能じゃな」
如月さんは冷淡に言い放つ。
ここは地上二百メートル。窓清掃はすべて自律型ドローンが行い、人間が作業する足場などどこにもない。そこへ、片足の跡だけがスタンプのように押されている。
「黒田。屋上の侵入警報はどうなっておる」
瑠璃が鋭く問いかけると、ラウンジの入り口から一人の大男が足早に入ってきた。
如月家の警備主任、黒田さんだ。
百九十センチ近い屈強な肉体。岩のように厳つい顔立ちと、鍛え上げられたその体躯は、並の警備員数人分を圧倒する威圧感がある。彼は如月家の五人のボディーガードの中でも唯一の『如月瑠璃専属』であり、かつては自由奔放な彼女に振り回され、半泣きになりながら街中を捜し回っていたという苦労人でもある。
「……申し訳ありません、お嬢様。屋上の赤外線センサー、外壁の荷重センサー共に反応はありません。ドローンの飛行ログにも外部干渉の形跡はなく……まさに、忽然と現れたとしか言いようがありません」
黒田さんの低い声には、沈痛な響きがあった。
鉄壁の守りを誇る如月本社ビルにおいて、このような『悪意の侵入』を許したことは、彼にとって警備人生最大の屈辱なのだろう。
「センサーを潜り抜け、重力を無視して足跡を残す。……幽霊の仕業とでも言いたいのか?」
如月さんは嘲笑するように鼻を鳴らすと、ブレザーのポケットから銀色の特注ルーペを取り出し、右目にカチャリと当てた。
彼女の鑑定が始まった。
「サクタロウ。お主、この『泥』に何か見覚えはないか?」
「見覚えって……ただの赤茶色の泥にしか見えませんけど……」
「凡庸じゃな。よく見るがいい。この泥には、この月見坂の土壌には存在しない成分が多分に含まれておる」
如月さんはルーペ越しに、ガラスにへばりついた粒子の細部までを解剖していく。
「月見坂の土は黒土がベースじゃが、これは酸化鉄を大量に含んだ粘土質……テラロッサに近い。さらに、この時期にしては異常な濃度の塩化カルシウムが含まれておる」
「塩化カルシウムって……凍結防止剤ですか?」
僕が問うと、如月さんは頷いた。
「左様。今は十二月とはいえ、この月見坂で凍結防止剤が撒かれることなどあり得ん。……つまりこの土は、一年のうち四ヶ月近くが深い雪に閉ざされ、日常的に路面に融雪剤や凍結防止剤が散布されるような、北の寒冷地から持ち込まれたものだという証明になる」
北の地。
その言葉が出た瞬間、後ろで控えていた菫さんの肩が、ピクリと震えたのが分かった。
「北の、赤土……」
菫さんの顔から、急速に血の気が引いていく。
如月さんは構わずに続ける。
彼女の脳内にある膨大なデータベースが、この土の成分と一致する場所を検索し、一つの答えを弾き出そうとしていた。
「さらに、この土の中に混じる微細な『煤』と『古いレンガの粉末』を見ろ。……これは明治期に建てられた重厚なレンガ建築の瓦礫じゃ。北の寒冷地にあり、赤土の地盤の上に立ち、百年前の監獄の建材を今なお利用している特殊な施設」
如月さんはルーペを下ろし、紫の瞳で菫さんを真っ直ぐに見据えた。
「母よ。……心当たりがあるのではないか? この国の北にある、広大な土の運動場を持つ場所」
菫さんは、まるで亡霊を見たかのように目を見開き、震える唇で、その場所の名前を紡ぎ出した。
「星見上市……。重犯罪者収容刑務所……」
「正解じゃ」
如月さんは冷徹に頷いた。
「この足跡の主は、つい最近まで、北の星見上市にある刑務所の中を歩いていた人間じゃ。……その靴のまま、あるいはその土を意図的に保存して持ち込み、わざわざこの月見坂の本社ビルの窓に叩きつけた」
星見上の刑務所。
僕でも聞いたことがある。凶悪犯や、国家レベルの重要犯罪者が収容されるという、北の果ての監獄要塞。
そんな場所から、誰かがやってきたというのか。
「黒田」
菫さんが、掠れた声で警備主任を呼んだ。
その声には、巨大企業のトップ秘書としての冷静さを保とうとする意志と、それに抗う恐怖が混ざり合っていた。
「はっ」
「……『あの親子』の出所日は、いつだった?」
あの親子。
その言葉が落ちた瞬間、ラウンジの空気が重く、粘りつくようなものに変わった。
黒田さんはタブレット端末を操作し、沈痛な面持ちで答えた。
「……確認しました、菫様。十九年前、翡翠様誘拐事件の首謀者として収容されていた如月透、および如月香澄。両名とも刑期を満了し、一年前の五月に出所しております」
「一年前……。なぜ今まで報告がなかったの!」
菫さんが声を荒げた。普段の穏やかな彼女からは想像もつかないほど、切羽詰まった響きだった。
「申し訳ありません。保護観察官からの連絡が途絶えており、我々も行方を追ってはいたのですが……まさか、月見坂に戻ってきているとは」
如月透。
如月香澄。
僕の知らない、如月家の過去に封印された名前。
その名前が、地上四十八階の窓ガラスについた泥の足跡と結びついた時、この巨大な本社ビル全体が、見えない悪意の包囲網の中に囚われているような錯覚を覚えた。
如月瑠璃という少女の顔から、一切の感情が消え失せた。
彼女は再び窓の外の足跡を見つめ、吐き捨てるように呟いた。
「……なるほどな。泥のルーツは割れた」
彼女は、ガラスに映る自分自身の顔と、その上に重なる泥の足跡を睨みつけた。
「十九年の時を経て、北の監獄から這い出てきた亡霊からの、ご丁寧な挨拶状というわけか。……虫唾が走る」
僕は、その場の異様な雰囲気に飲み込まれ、立ち尽くすことしかできなかった。
「サクタロウ、ついて参れ」
如月さんは踵を返し、出口へと向かった。
「え、どこへ……?」
「応接室じゃ。母も、黒田も来い。……この愚鈍な助手に、我が家の恥部と、二十年前に起きた『不純物』の歴史を講義してやらねばならんようだからな」
その背中は、いつもの傲慢な令嬢のものだったが、握りしめられた拳だけが、白くなるほど強く固められていた。
窓の外では、冷たい風が唸り声を上げている。
まるで、北の地から忍び寄る亡霊の声を代弁するかのように。




