第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 17:偽りの王座と、螺旋の処刑台~
香澄の狂乱という名の嵐が去った後の管理室には、耳鳴りがするほどの重苦しい静寂が降り積もっていた。
僕はその静けさに急き立てられるように、冷え切ったコンクリートの回廊へと足を踏み出した。小脇に抱えたプラスチック製の図面筒が、歩くたびに肋骨に当たって鈍い音を立てる。その中には、この巨大な監獄の正体であり、如月家の歴史に潜む顔のない建築家【M】の悪意そのものが封じ込められているのだ。ただの古い紙の束であるはずなのに、それは鉛のように重く、僕の体温を奪っていくような錯覚すら覚えた。
前を歩く如月さんの背中は、先ほどの狂人との対峙など全く意に介していないかのように、どこまでも優雅で揺るぎがなかった。彼女の足元からはカツ、カツという硬質なヒールの音が規則正しく響き、この無機質な迷宮において唯一の道標として機能している。僕はその足音のリズムに自分の呼吸を合わせ、狭い通路で彼女のドレスの裾を踏んだり、不用意に肩が触れたりしないよう、細心の注意を払って一定の距離を保ち続けた。
回廊の奥へと進むにつれ、空気の質が明確に変化し始めた。
先ほどまでのカビと錆の匂いに代わり、鼻腔を突くような鋭い冷気が流れ込んできたのだ。どこかから外の空気が吹き込んでいる。血の跡はさらに奥、上層へと続く階段の方向へと点々と伸びており、透がこの極寒のさらに先へ向かったことを示していた。
突如として、その冷たい空気を切り裂くように、鼓膜を劈く甲高いノイズが鳴り響いた。
キィィィィィンッ!
マイクのハウリング音だ。僕は思わず図面筒を抱えたまま両手で耳を塞ぎ、顔をしかめた。
音源は、天井の四隅に設置された、赤錆の浮いた旧式のスピーカーだった。三十年以上も放置されていたはずの音響設備に突如として電力が供給され、強引に叩き起こされたような不快な破裂音が回廊に反響する。
そして、ノイズの波の向こう側から、ひどく歪んだ、しかし聞き覚えのある男の声が降ってきた。
『あー、マイクテスト。聞こえるかな、瑠璃ちゃん。それと、優秀なネズミ君』
透の声だ。
暖炉の爆発による熱風を至近距離で浴びたはずなのに、彼の声には苦痛の色が全く混じっていなかった。それどころか、まるで自分の主催するパーティーに遅れてきた主賓を歓迎するような、異様な高揚感と余裕すら孕んでいる。スピーカー越しのくぐもった音質が、彼の狂気をより一層非現実的なものへと変質させていた。
『まずは称賛を贈ろう。あの暖炉のギミックには驚かされたよ。まさか熱衝撃で鋳鉄を破壊し、こちらへ熱風を逆流させるとはね。おかげで顔の半分が酷い火傷だ。だが、その機転と執念、さすがは本家の血を引くお嬢様だと感服した』
天井から降り注ぐその言葉に、僕は背筋が凍るのを感じた。顔の半分に火傷を負いながら、なぜここまで冷静でいられるのか。十九年という刑務所での歳月は、彼の肉体から痛覚すらも奪い去ってしまったのだろうか。
『管理室には辿り着いたようだね。母さんがそっちへ行ったはずだが、静かになったところを見ると、上手くあしらったらしい。まあいい、あのヒステリーには僕も辟易していたところだ。……さて、本題に入ろうか』
スピーカーの向こうで、透が息を吸い込む音がした。ひゅるり、と隙間風のような冷たい音が混じる。彼がいる場所は、密室ではない。常に外気に晒されている場所だ。
『君ならもう気づいているはずだ。この建物の圧倒的な美しさに。そして、本社の四十八階に隠されたヴォイドが、ここを模倣した粗悪なレプリカに過ぎないという事実に。僕は十九年前、この図面を見つけた時に震えたよ。これは僕のために用意された城だと確信した。本家の連中が見向きもしなかった極北の地に、これほど完璧な砦が眠っていたんだからね』
「……城、だと? 呆れた勘違いじゃな」
如月さんが、スピーカーに向かって冷ややかに吐き捨てた。彼女の声はマイクを通していないため透に届くはずもないが、彼女は透と会話をするつもりなど毛頭なく、ただその貧困な解釈を訂正せずにはいられないだけだった。
『屋上へ来い、瑠璃ちゃん。猛吹雪だが、君たちを迎える準備はできている。ここで全ての決着をつけよう。如月の正統な後継者がどちらなのか、この城の頂上で決めようじゃないか。逃げ道はないよ。待っている』
ブツッ、というノイズと共に、スピーカーからの音声が途切れた。
後に残されたのは、遠くでヒュルヒュルと鳴る吹雪の音と、足元に続く暗い階段だけだった。
「……罠ですよ、如月さん」
僕は乾いた唇を舐め、震える声で進言した。
「あいつ、わざと僕たちを屋上に誘い込んでます。顔に火傷を負って、血まで流してるのに、あんなに強気なのは絶対におかしい。待ち伏せして、銃で一網打尽にするつもりです。お願いですから、ここから引き返して、なんとか外へ出るルートを探しましょう。Mの図面という証拠も手に入れたんですから、これ以上危険を冒す必要はありません」
僕の言葉は、一般人として極めて妥当で、生存確率を最も高めるための論理的帰結だったはずだ。しかし、振り向いた如月さんの紫の瞳には、氷のような冷笑が浮かんでいた。
「引き返す? サクタロウ、お主は鑑定士の助手を名乗りながら、まだ何も分かっておらんようじゃな。……証拠を手に入れて警察に突き出すことなど、単なる事務処理に過ぎん。わしにとっての『事件』は、透という小悪党の逮捕ではなく、この『繭』という不可解な建築物のルーツを完全に解き明かすことじゃ」
彼女は図面筒を僕の胸に軽く押し当て、その鋭い視線で僕の怯えを縫い留めた。
「透は言ったな。ここが自分の城だと。自分がこの建物の支配者であると。……それは、この建物を設計したMという建築家に対する、最大の侮辱であり誤読じゃ。あの男は、十九年間も図面を眺めていながら、自分がMの手のひらで踊らされているだけの滑稽なピエロであることに気づいていない。わしは鑑定士として、その偽の家主に『退去勧告』を突きつけ、この建物の正しい評価を言い渡さねばならん。途中で鑑定を放棄するなど、如月瑠璃の美学が許さん」
ブレない。この人は、どれほど命の危機が迫ろうとも、自らの知的好奇心と美学を最優先する。彼女にとって、透が銃を持っていようが罠を張っていようが、それは『鑑定を完了させるための障害物』でしかなく、逃げる理由にはならないのだ。
「……わかりましたよ。行けばいいんでしょう、屋上に」
僕は諦めの溜息をつき、図面筒を抱え直した。凡人の僕に彼女を止めることはできない。ならばせめて、致命傷を避けるための肉の盾として機能するしかない。
僕たちは血の跡を追い、通路の突き当たりにある重い鉄扉を開けた。
そこに現れたのは、上へと続く無骨な鉄製の螺旋階段だった。
カン、カン、という硬い足音を響かせながら、僕たちは螺旋階段を登り始めた。
吹き抜けになった階段室は、まるで巨大な煙突のようになっており、上部からは猛烈な冷風と微細な雪の粒子が舞い落ちてきている。気温は急激に下がり、吐く息は真っ白な霧となって視界を遮った。
「透は勘違いをしておる」
吹き降ろす風の音に負けないよう、如月さんが階段を登りながら少し声を張り上げた。
「奴はこの建物を、外敵から身を守るための『城』だと思い込んでいる。だが、Mの設計思想は全く逆じゃ。図面を思い出せ。あの無駄に広いメンテナンス通路、どこからでも監視できる構造……この建物は『外からの侵入を防ぐ』ためではなく、『中の人間を逃がさない』ために作られている」
「つまり、牢屋ってことですか」
「牢屋よりも悪辣じゃ。牢屋は生かしておくことが前提だが、この『繭』は違う。管理室から屋上へと続くこの直線的な動線、そして異常なほど冷気を取り込む構造。……これは、異物を体外へと排出するための『消化器官』じゃよ。Mは、この建物に不要となった人間を、合法的に、かつ物理法則を利用して排除するためのギミックを屋上に用意しておるはずじゃ」
彼女の言葉に、僕は思わず足を止めた。
排出。排除。
それはつまり、この階段の先にある屋上が、透の言うような『王座』などではなく、最初から死が約束された『処刑台』であるという意味ではないか。
「サクタロウ、立ち止まるな。鑑定の仕上げじゃ。透という寄生虫が、自ら惚れ込んだMの毒牙にかかって自滅する瞬間を、特等席で見届けてやろうではないか」
如月瑠璃は、吹き付ける雪を避けることもなく、口元に凄絶な笑みを浮かべてさらに階段を登っていく。
その背中を追いながら、僕は確信した。
これから屋上で起きることは、銃撃戦や殴り合いといった泥臭い殺し合いではない。設計図という名の『予言書』を読み解いた鑑定士による、残酷なまでの物理的論破なのだと。
頭上の分厚い鉄扉の隙間から、猛吹雪の咆哮が聞こえてきた。
狂った復讐者が待つ、白銀の処刑台はもう目の前だった。




