表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
如月令嬢は『成層圏の泥靴を履かない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/24

第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 16:老婆の狂気と、優しい嘘~

 逆光の中に浮かび上がったその老婆の姿は、十九年という途方もない歳月と、決して報われることのない妄執が、人間をどのように腐敗させていくかを如実に示す生きた標本のようだった。


 前原香澄。現・如月コンツェルン会長である如月弦十郎の元妻であり、透の母親。

 彼女は決して日陰を歩いてきた女ではない。かつて如月家の当主に嫁ぎ、一時は絶対的な権力の中心に身を置いたはずの人間だ。しかし、彼女の連れ子である透には『如月の血』が流れておらず、どれほど優秀であろうと、正当な血筋である瑠璃の父・彰さんに後継者の座を奪われる運命にあった。圧倒的な富と権力に囲まれながらも、決して越えることのできない『血の壁』に直面し続けた絶望。その強烈な劣等感と嫉妬が、二十年前の幼児監禁という大罪へと彼女を駆り立てたのだ。

 小柄で背中の丸まったそのシルエットからは、物理的な質量を遥かに凌駕する、どす黒い怨念のオーラが陽炎のように立ち上っていた。


 彼女が右手に力強く握りしめているのは、刃渡り三十センチはあるであろう肉切り包丁だった。赤茶けた刃先は長年の放置でボロボロに欠けており、それが逆に、どんな名刀よりも恐ろしい破傷風や肉を削ぎ落とすような鈍い痛みを連想させる凶器となって、僕たちの眼前に突きつけられている。


「よくも。よくも私の可愛い透を、あんな目に遭わせてくれたねえ」


 喉の奥でヘドロが煮えたぎるような、しわがれた声が管理室に響き渡る。彼女の視線は僕たちを真っ直ぐに捉えているようでいて、その実、まったく焦点が合っていなかった。狂気に濁った瞳の奥に映っているのは、目の前にいる僕たちではなく、脳内に焼き付いた『傷ついた息子』の幻影であり、同時に、自分の人生を狂わせた『如月の血』という見えない呪縛なのだろう。

 理性という名のブレーキは完全に粉砕され、ただ憎悪のエンジンだけがフルスロットルで空回りを続けている。それが今の彼女だった。


「やかましい」


 しかし、如月瑠璃という少女は、凄惨な凶器を持った狂人を前にしても、眉一つ動かさなかった。彼女にとって、目の前の老婆は恐怖の対象ではなく、自分の高尚な知的探求を妨害する不快なノイズでしかない。瑠璃は優雅に顎をしゃくり、手に持った青焼き図面の入った筒で、自分のドレスの埃を払うように軽く叩いた。


「前原香澄。お主のドロドロとした劣等感や、如月家への個人的な愛憎になど、わしはこれっぽっちも興味はない。ただ一つ答えろ。この『Mの図面』をどこで手に入れた。透の個人的な手回しで、あの偏執狂的な建築家とコネクションが作れるとは思えん。祖父か? それとも、お主が如月家に嫁いだ時代に、偶然この遺産を見つけたのか」


 瑠璃の問いかけは論理的かつ核心を突くものだったが、それは相手が正常な言語野を持った人間であればこその話だ。香澄の耳には、瑠璃の冷徹な声など微塵も届いていない。彼女の脳内を支配しているのは、ただ一つ。自分たち母子を不当に貶め、今また息子の王座を奪おうとしている『泥棒猫の娘』を排除するという、歪んだ母性だけだった。


「黙れ。黙れ黙れえっ! 憎き如月の血が! あの(すみれ)の娘がぁっ!」


 鼓膜を破らんばかりの絶叫と共に、香澄が床を蹴った。

 年齢からは到底考えられない、アドレナリンに支配されたヒステリックな瞬発力だった。振り上げられた錆びた包丁が、空気を裂いて瑠璃の顔面めがけて一直線に振り下ろされる。


「如月さんっ!」


 僕は思考より先に身体を動かしていた。瑠璃の前に飛び出し、小脇に抱えていた図面の筒を盾にするように頭上へ掲げる。ガギンッ、という硬質な衝突音が鳴り響き、筒の分厚いプラスチックケースが包丁の刃を間一髪で受け止めた。強烈な衝撃が手首の骨を軋ませ、僕は思わず顔をしかめたが、なんとか直撃だけは防ぐことができた。

 もちろん、僕はその防御の最中であっても、瑠璃のドレスの裾を絶対に踏まないよう、そして彼女の肌に僕の腕が触れないよう、極めて不自然な姿勢で身をよじって距離を保っていた。僕の精神の安全装置は、狂人の刃よりも女性との接触を重大なエラーとして認識してしまうからだ。


「野蛮な。サクタロウ、蹴り飛ばせ。理屈の通じぬ相手に言葉は不要じゃ」


 背後で瑠璃が心底不快そうに言い放つ。彼女は全く恐怖を感じていないばかりか、自分の盾となっている僕の健闘を褒めることもなく、ただ物理的な障害物の排除を命じてきた。


「無茶言わないでくださいよ。相手は刃物を持ったお年寄りですよ」


 僕は悲鳴のような声を上げながら、防いだ反動を利用してジリジリと後退した。香澄は弾かれた包丁をすぐに引き戻し、再び獣のような低い姿勢で構え直している。その目は爛々と異様な光を放ち、口元からは涎が垂れていた。

 駄目だ。この人はもう、言葉が通じる次元にいない。瑠璃の言う通り、物理的に制圧するしかないのか。しかし、腕力に自信のない僕にそんな芸当ができるわけがないし、何より、彼女の狂気を見ていると、恐怖と同時に言いようのない哀れみが込み上げてきて、手が出せなかった。

 彼女は、ただ息子を愛し、その正当性を世界に認めてもらいたかっただけなのかもしれない。その愛情が、如月という巨大な権力と劣等感の中で腐敗し、猛毒に変質してしまっただけで。


 愛情。執着。狂信。

 そのキーワードが脳内を駆け巡った瞬間、僕の記憶の底から、かつて地下アイドルのライブ会場で目撃したある光景がフラッシュバックした。

 推しのアイドルに人生の全てを捧げ、現実と虚構の区別が完全につかなくなってしまった『ガチ恋』と呼ばれる狂信的なファンたちの姿。彼らは論理では決して動かない。運営スタッフの冷静な説得も、屈強な警備員の制止も、彼らの耳には届かないのだ。彼らの行動を唯一制御できるものがあるとすれば、それは『推し』から発せられる言葉だけである。


 僕は、目の前で刃物を構える狂った老婆と、記憶の中の熱狂的なファンを重ね合わせた。

 彼女にとっての絶対的な『推し』は、透だ。

 ならば、僕が取るべき行動は、警備員として彼女を武力で排除することではない。『運営スタッフ』として、彼女の狂信を利用し、平和的に誘導することだ。


「香澄さん!」


 僕は腹の底から大声を出した。今までで一番大きく、そして一番『嘘くさい』声を、わざと管理室の壁に反響させるように響き渡らせる。


「何をしているんですか。今の館内放送が聞こえなかったんですか」


 僕の突然の剣幕に虚を突かれたのか、香澄がピタリと動きを止めた。狂気に濁った瞳が、初めて僕という存在を認識して瞬きをする。僕はその僅かな隙を見逃さず、壁に設置された無機質なスピーカーを指差しながら、必死の形相で熱演を続けた。


「透さんが呼んでいますよ。たった今、放送が入ったんです。『母さん、どこにいるんだ。俺は怪我をして動けない。母さんの助けが必要なんだ』って」


 当然ながら、そんな放送など一秒たりとも流れていない。完全なでっち上げだ。瑠璃が聞けば鼻で笑って即座に論破するような、穴だらけで低レベルな嘘である。

 だが、香澄の表情は劇的な変化を遂げた。鬼のような憎悪の形相が溶けるように消え去り、そこには、迷子になった我が子を心の底から心配する、ただの母親の顔だけが浮かび上がったのだ。


「透が。あの子が、私を呼んでるのかい」


「はい。『母さんがいないと俺は何もできない』って、泣きそうな声で言っていました。早く行ってあげてください。屋上のほうから声がしましたよ」


 その言葉は、彼女が十九年間、あるいは如月家に嫁いでからずっと、喉から手が出るほど欲しかった言葉だったのかもしれない。息子からの明確な必要性。自分こそが、あの子の唯一の理解者であり、あの子を救える唯一の存在であるという証明。

 たとえそれが、敵である僕の口から出た見え透いた嘘であったとしても、妄執に囚われた彼女の脳は、それを自らにとって最も心地よい【真実】として都合よく書き換えてしまうのだ。


「ああ、透。今行くよ。待ってておくれ」


 香澄は、まるで憑き物が落ちたかのように錆びた包丁を床に取り落とした。そして、僕たちのことなど視界から完全に消え去ったかのようにきびすを返し、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。カツ、カツ、カツと、ヒールの潰れた靴の不規則な足音が、薄暗い廊下の向こうへと急速に遠ざかっていく。


 管理室に、再び重苦しい静寂が戻った。

 僕は膝の震えを抑えきれず、壁に背中を預けてズルズルと座り込みそうになるのを必死で堪えた。心臓が痛いほど早鐘を打っている。

 人を騙した。しかも、あんな残酷な嘘で。彼女が屋上へ辿り着いたとしても、あの冷酷な透が彼女を必要とし、感謝する保証などどこにもない。むしろ、役に立たないと切り捨てられる可能性の方が高い。僕は彼女の愛情を利用して、彼女を絶望の淵へと突き落としただけなのではないか。


「見事なものじゃな」


 一部始終を黙って観察していた瑠璃が、呆れたように、しかし明確に感心した響きを含んだ声で言った。


「詐欺師の才能があるのう、お主。あの手の狂人を一言で手なずけ、自発的に退場させるとは。心理的なハッキングとしては満点に近い」


「褒めないでくださいよ。ちっとも気分のいいもんじゃないです」


 僕は床に転がったままの、赤茶けた包丁を見つめた。彼女はもう武器を持っていない。物理的な脅威は去った。でも、僕の胸の奥には、鉛を飲み込んだような後味の悪い澱がこびりついて離れない。


「あれが、一番平和的な解決策だったんです。彼女を傷つけずに済んだし、僕たちも無駄な体力を使わずに助かった。それでいいじゃないですか」


「平和的、か。わしには、真実という刃を突きつけるよりも遥かに残酷な仕打ちに見えたがな」


 瑠璃は一切の同情を交えずに冷ややかに言い放ち、製図台の上の図面筒を拾い上げて僕の胸に押し付けた。彼女にとって、嘘や欺瞞は事実を歪める不純物だ。事実のみを愛し、真実を暴くことにしか価値を見出さない彼女の目には、僕のついた優しい嘘は、単なる一時しのぎのエラーデータにしか映らないのだろう。


「行くぞ、サクタロウ。母親を舞台から降ろしたのなら、次は主役の出番じゃ。透も屋上で、この図面の答え合わせを待っておるじゃろうて」


 彼女は振り返ることなく、香澄が消えていった出口へと向かって優雅に歩き出した。

 僕は大きく深呼吸をして、自分の頬を両手で強く叩いた。感傷に浸っている暇はない。嘘をついてしまった以上、その嘘の行き着く先を見届ける義務が僕にはある。

 僕は重くなった足を引きずり、設計図の入った筒をしっかりと抱え直して、彼女の背中を追った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ