第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 15:管理室の図面と、Mの署名~
重厚な電子ロックの扉が、油の切れた蝶番を不快に軋ませながら内側へと開くと、そこから吐き出されたのは、長年密閉されていた空間特有の淀んだ空気だった。黴と埃、そして古い紙が酸化したような酸っぱい臭気が鼻をつき、僕は思わず顔をしかめて袖口で口元を覆った。
如月さんの背中を追って足を踏み入れたその場所は、暗闇に沈んでいた。僕は手探りで壁を伝い、指先に触れたプラスチックのスイッチを押し込む。天井の蛍光灯が数回、頼りなく明滅を繰り返した後、ジジジ……という虫の羽音のような不吉なノイズと共に安定し、部屋の全貌を薄暗く照らし出した。
目の前に広がった光景に、僕は言葉を失った。そこは単なる電気室や倉庫などではなく、かつてこの巨大な建物のすべてを監視し、支配していたであろう『管理室』の成れの果てだったのだ。
壁一面を埋め尽くす数十台のブラウン管モニターは、今はただ黒い瞳のような画面を虚ろに向け、中央に鎮座する巨大な制御コンソールにはうっすらと埃が降り積もっている。部屋の奥の棚には、無数の筒状のケースが整然と、まるで納骨堂の骨壺のように並べられていた。床には何かの書類が散乱しており、何者かが急いで何かを探したような、荒らされた形跡が生々しく残っている。
「透の血は、あそこで途切れておるな」
静寂を破った如月さんの声に視線を向けると、彼女は中央のコンソールデスクを指差していた。そこには、鮮やかな赤い血痕がべっとりと付着しており、透が傷ついた体を引きずってここに逃げ込み、一息ついたであろう痕跡を残していた。血の跡はデスクからさらに部屋の奥にある鉄扉——おそらく非常口へと続いていたが、如月さんはそれを追おうとはせず、足を止めた。
彼女の視線は、血塗られたデスクではなく、その脇にある製図台の上に広げられた『青い紙』に釘付けになっていたからだ。
「サクタロウ、こっちへ来い。出口を探すのは後じゃ。……ここに、この建物の『正体』がある」
獲物を見つけた猫のように目を細め、音もなく製図台へと近づいていく彼女の背中には、有無を言わせぬ引力があった。僕は早くここから出たいという逸る気持ちを抑え込み、彼女の隣——もちろん接触しない距離を保って——に立つ。
製図台の上に広げられていたのは、一枚の巨大な図面だった。最近の建築現場で見るようなCADで出力された白い図面ではない。深い藍色の地に白い線が走る、昔ながらの『ジアゾ式複写』の図面であり、そこから漂う微かなアンモニア臭が、この紙が経てきた三十年という歳月の重みを物語っていた。
「……美しいではないか」
如月さんが、恍惚としたため息を漏らして銀のルーペを取り出し、図面の上に覆いかぶさるようにして鑑定を始めた。
「見てみろ、この線の迷いのなさ。定規で引いた線ではない。これは、フリーハンドで描かれた原図を複写したものじゃ。線の強弱だけで空間の奥行きと光の陰影まで表現しておる。これは建築図面というよりは、一つの『思想書』に近い」
「思想、ですか? 素人の僕には、ただの複雑な建物の設計図にしか見えませんが……」
「凡人の目にはな。だが、鑑定士の目には、設計者の『悪意』がありありと映るのじゃよ」
彼女は黒いレースの手袋をした指先で、図面上のとある区画をなぞった。その動きは滑らかで、まるで迷路の解法を知り尽くしているかのようだ。
「サクタロウ、この図面の日付を見ろ。今から三十年以上前じゃ。そして、この建物の名称……『PROJECT : COCOON』とな」
「コクーン……繭?」
その奇妙な名称に僕が眉をひそめると、彼女は我が意を得たりとばかりに頷き、図面の中央、僕たちが閉じ込められていた部屋のあたりを指し示した。
「左様。ここは別荘でも、刑務所ですらない。『繭』じゃ。この部屋の配置を見てみろ。居住スペースが中央にあり、その周囲を『二重の壁』が取り囲んでおる。そして、その壁と壁の間には、人間一人が通れる『虚空』が血管のように張り巡らされておるのが分かるか?」
彼女の指が、迷路のような壁裏の通路をなぞっていく。それはまさに、僕たちがさっき歩いてきたコンクリートの回廊そのものだった。
「通常の建築では、メンテナンス通路はあくまで『裏方』として扱われ、可能な限り面積を削り、隅に追いやるものじゃ。だが、この設計者は逆じゃ。居住スペースよりも、この『監視通路』の方に、圧倒的な情熱と容積を割いておる。つまり、この建物は『住む』ためのものではない。『飼う』ためのものじゃよ。中にいる人間を、壁の裏から二十四時間、あらゆる角度から観察し、その生態を記録するための、巨大な実験水槽……それが『繭』の正体じゃ」
背筋が凍りつくような感覚に襲われた。僕たちは、透という個人的な敵に監禁されていたと思っていた。しかし、現実はもっと恐ろしいものだった。この建物そのものが、最初から『人間を閉じ込めて観察する』という機能を持って生まれてきた怪物であり、透はただ、その怪物のスイッチを入れただけの利用者に過ぎなかったのだ。
「じゃあ、透たちはここを見つけて、アジトにしたってことですか?」
「そうじゃろうな。見てみろ、この図面の端を」
如月さんが示した図面の隅には、赤ペンで乱暴に丸がつけられ、見慣れた筆跡で『本社ビル48階にも、同じ構造あり。利用可能』というメモが書き込まれていた。透の字だ。彼は十九年前、あるいはそれ以前にこの図面を発見し、狂喜したのだろう。自分の復讐劇に利用できる、完璧な舞台装置を見つけたと。そして、この図面から『設計者の癖』を学び取り、本社ビルにも同じ『死角』があることを突き止めたのだ。あの本社ビルのラウンジから始まった『不可能犯罪』の種明かしが、この一枚の青い紙の上にすべて記されていたということになる。
「やっぱり、全部繋がってたんですね……」
「ああ。透は、この設計図の信奉者じゃ。だが、わしが知りたいのは信者のことではない。教祖の正体じゃ」
如月さんは、図面の一番右下にある設計者の署名欄へとルーペを移動させた。そこには、設計事務所の名前も、担当建築士の名前も記されていなかった。ただ一つ、万年筆による流麗なサインが、青焼きの紙の上に黒々と、まるで呪いのように残されていた。
『Architect : M』
エム。たった一文字のイニシャル。僕がその文字を口の中で反芻すると、如月さんは目を細め、その文字を網膜に焼き付けるように凝視した。
「……M。如月コンツェルンの歴史に、そのような名の建築家は存在せん。少なくとも公式記録にはな」
「じゃあ、偽名ですか?」
「いや。この筆跡、このインクの沈み具合……これは偽名などという軽いものではない。自らの存在を歴史の闇に隠しつつ、それでも作品には己の魂を刻み込みたいという、強烈な自己顕示欲と、世間への嘲笑が込められておる」
彼女は、まるでその【M】という人物が目の前にいるかのように、図面に向かって語りかけた。その声には、怒りよりも、同種の才能に対する共感のような、奇妙な熱が帯びている。
「素晴らしい腕前じゃ。機能主義を装いながら、その実、人間の尊厳を冒涜することに無上の喜びを感じておる。お主は、建築家ではないな。石とコンクリートで物語を書く、悪趣味な小説家じゃ」
天才は天才を知る、というやつだろうか。僕にはただの不気味な図面にしか見えないけれど、如月さんには、この線の向こうに【M】という怪物の姿が見えているらしい。彼女は、透への復讐心などとうに超越し、まだ見ぬ強敵【M】との知恵比べをすでに始めているのだ。
「サクタロウ、この図面は押収する。丸めて筒に入れろ。これは透の犯罪の証拠である以上に、如月家の歴史に巣食う『病原菌』のカルテじゃ。本社ビルだけではないかもしれん。このMという建築家が、他にも如月の施設に関わっているとしたら……退屈はしなさそうじゃな。わしの鑑定すべき『ガラクタ』は、まだ山ほど埋もれておるようじゃ」
不謹慎にも楽しげな彼女の命令に従い、僕は埃っぽい製図台から図面を丁寧に外し、くるくると丸め始めた。助手の仕事だが、不思議と嫌じゃなかった。彼女がこうして目を輝かせている時、僕たちは『被害者』ではなくなる。理不尽な暴力に怯える子羊ではなく、真実を暴く『鑑定士と助手』に戻れるからだ。
その時だった。
管理室の入り口——僕たちが今入ってきた扉の方から、ザッ、という衣擦れの音が響いた。心臓が跳ね上がり、僕は丸めた図面をバットのように構えて振り返った。透か? 戻ってきたのか?
しかし、そこに立っていたのは透ではなかった。逆光の中に浮かび上がるシルエットは、小柄な老婆。如月香澄…いや、前原香澄。透の母親であり、二十年前の事件の共犯者だった。
彼女は、右手になにやら鈍く光るものを握りしめている。錆びついた肉切り包丁だ。
彼女の目は焦点が合っておらず、そこにあるのは理性ではなかった。息子を傷つけられたことへの怒りと、自分たちを十九年間も閉じ込めていた『如月』という血脈への、どす黒い劣等感だけが渦巻く、狂気の眼差しだった。
「……見つけた」
しわがれた声が、怨嗟となって僕たちの耳朶を打つ。
「よくも、よくも私の可愛い透を……!」
「話の通じぬ手合いが来たようじゃな」
Mという知的な怪物との対話を楽しんでいた彼女にとって、香澄のような感情の化け物は、最も相性の悪い相手だ。
Mの図面、透の血、そして狂った母親。役者は揃った。だが、この舞台には出口がない。




