第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 14:迷宮の回廊と、共通する病巣~
隠し扉の向こう側に広がっていたのは、表向きの木造山荘が演じていた「温かみ」とは似ても似つかない、冷徹で無機質な異界だった。
剥き出しのコンクリートの壁。
天井を這う無数の配管と、黒い被覆に覆われた極太のケーブルの束。
足音を不気味に吸い込む、業務用の灰色のリノリウム床。
そして鼻をつくのは、古い黴と赤錆、そして機械油と微かな薬品が混じり合ったような、肺の奥が重くなる刺激臭だ。
そこはまるで、巨大な生物の内臓か、あるいは地下深くに建造された核シェルターのようだった。人の生活感など微塵もなく、ただ『機能』と『循環』だけが剥き出しにされた空間。
僕たちは、点々と続く透の血痕を頼りに、その薄暗い回廊を進んでいた。
「ひッ!」
僕の喉から、短い息が漏れた。
前を歩く如月さんが、何の前触れもなく唐突に立ち止まったからだ。
僕は慌てて足を踏ん張り、彼女の背中からわずか数十センチの距離で急停止した。
危ない。もう少しでぶつかるところだった。
僕は安堵の溜息をつきながら、半歩下がって距離を取り直した。彼女の髪から漂う百合の香りが鼻先をかすめるだけで、僕の心拍数は警告音を鳴らし始める。物理的な接触など、今の僕の精神状態では許容範囲外だ。
「……急に止まらないでくださいよ。驚くじゃないですか」
僕が小声で抗議すると、如月さんは振り返りもせずに、コンクリートの壁を指差した。
「サクタロウ。この壁を視ろ」
「壁、ですか? ……ただのコンクリートに見えますけど」
「ただのコンクリートではない。この打設の跡、そして表面の気泡の少なさ。……これは、三十年以上前の施工技術じゃな」
彼女は、汚れたコンクリートの壁を、まるで最高級の美術品でも愛でるかのように、黒いレースの手袋越しにそっと撫でた。その手つきは、壁の温度、質感、そしてそこに刻まれた時間の堆積を、指先から読み取っているようだった。
「通常、山荘の隠し通路程度なら、ブロック積みか簡易な木枠で済ませるものじゃ。だが、ここは違う。この建物は、最初から『この裏側の空間』をメインとして設計されておる。表の山荘は、この醜悪な内臓を隠すための『皮』に過ぎん」
彼女の視線が、天井の配管へと移動する。
太い空調ダクトと、赤い消火配管が、まるで蛇のように複雑に絡み合いながら奥へと伸びている。その配置は、素人目に見ても異常だった。人が歩くスペースを圧迫してまで、配管が優先されているのだ。
「そして、この配管の取り回し。合理的かつ、病的なまでに空間効率を優先しておる。人間が歩くスペースよりも、機能維持のための動線を優先した設計。居住性よりも、管理と監視、そして『隠蔽』を目的とした構造……」
如月さんの瞳が、怪しく細められた。
彼女の脳内で、何かのピースが嵌まった音がした気がした。
「似ておるな」
「似てるって、何にですか?」
「本社ビルじゃよ」
彼女は断言した。
「月見坂の如月本社ビル、四十八階。……あの『隠し部屋』の構造と、この回廊の設計思想が、建築家の指紋のように一致しておる」
僕は息を呑んだ。
本社ビルの隠し部屋。二十年前に翡翠さんが監禁されていた場所であり、僕たちが最初に巻き込まれた事件の現場。
そして今、僕たちが歩いているこの場所。
数百キロ離れた二つの場所に、同じ『悪意の匂い』があるというのか。
「でも、本社ビルは二十年前に建てられたんですよね? ここは三十年以上前……。時代が違うじゃないですか」
「そうじゃ。だからこそ、面白い」
如月さんは懐から銀のルーペを取り出し、配管の接合部にある溶接痕を覗き込んだ。
「透は言っていたな。『本社ビルの隠し部屋は、俺が作ったんじゃない。見つけたんだ』と。……奴の言葉は真実じゃったわけだ」
彼女は顔を上げ、暗い回廊の奥を睨み据えた。その瞳には、手負いの透ではなく、もっと巨大な何かを見据える色が宿っていた。
「透はこの施設を知っていた。そして、この施設の『設計者の癖』を熟知していた。だからこそ、新しく建てられた本社ビルを見た時、直感したのじゃろう。『あの建築家なら、ここにも必ず同じような隙間を作っているはずだ』とな」
つまり、こういうことか。
透は、この北の施設の構造をマスターキーとして、本社ビルの隠し部屋を見つけ出した。彼にとって、この場所は『実家』のようなものであり、彼の悪意の原点なのだ。
「じゃあ、やっぱり透がここを作らせたわけじゃないんですね」
「ああ。奴ごときに、これほどの『歪な機能美』は作れん。奴はただの利用者じゃ。……この迷宮を作ったのは、もっと根深く、もっと巨大な意志を持った『建築家』じゃよ」
建築家。
その言葉が、冷たいコンクリートの壁に反響し、僕の心臓を冷たく撫でた気がした。
僕たちは、透という誘拐犯を相手にしているつもりだった。でも、如月さんが見ている敵は違う。透の背後にいる——あるいは透すらも駒として利用している——顔のない設計者を見ているのだ。
「行くぞ、サクタロウ。この血の跡が、その設計者の『署名』へと続いておるはずじゃ」
如月さんが再び歩き出す。
ドレスの裾を翻し、カツカツとヒールの音を響かせて。
僕は慌ててその後を追う。もちろん、彼女の影を踏まないように、適切な距離を保ちながら。
点々と続く血痕は、迷路のような回廊を曲がりくねり、やがて一つの重厚な扉の前で途切れていた。
そこには『電気室』というプレートがかかっていたが、その扉は明らかに他のものより頑丈な鋼鉄製で、ノブの横には赤く光る電子的なロックキーが設置されていた。
透の血は、この扉のノブに付着し、そして扉の向こう側へと続いていた。
彼はこの中に逃げ込んだのだ。
「開けられるか、サクタロウ?」
如月さんが、顎で電子ロックを示した。
キーパッドには赤いランプが点灯し、堅牢な拒絶を示している。
「えっ、僕ですか!? ……いや、無理ですよ。こんな厳重な業務用ロック、ピッキングなんてできませんし、映画みたいに配線を切って解除なんて芸当もできません」
「厳重? 凡人の目にはそう映るか」
彼女は呆れたように鼻を鳴らし、キーパッドに顔を近づけた。銀のルーペを取り出し、ボタンの隙間や摩耗具合を観察する。さらに、ドレスの袖をまくり、扉に直接耳を押し当てて、目を閉じた。
静寂。
彼女は今、機械の『脈』を診ているのだ。
数秒後、彼女はゆっくりと目を開けた。
「静電容量方式じゃな。リレー回路の駆動音からして、内部の物理機構は生きているが、制御基板は経年劣化でかなりノイズが混じっておる。……配線を直結すれば開くが、道具がない。分解するには時間がかかりすぎるな」
彼女は「開ける理屈」は看破したものの、物理的な「手段」の欠如に小さく舌打ちした。
爆破しようにも、もう素材がない。この扉はさっきの山荘への扉よりも分厚い。
万事休すか。
僕は、諦めきれずにその古ぼけたキーパッドを覗き込んだ。
メーカーロゴが擦れて消えかかっているが、型番の刻印が見える。
『Model-92...』
どこかで見たことがある数字の羅列。
そして、この無骨なプラスチックのボタンの配置。
「……あれ? これ、見たことあるぞ」
僕の記憶の引き出し——『アルバイト経験』という、普段は何の役にも立たない雑多な記憶が詰まった引き出し——が、微かな音を立てて開いた。
「これ……昔、僕がバイトしてた配送センターの倉庫で使われてたのと同じ型番のロックですよ。かなり古いタイプで、確かメーカーが倒産してサポートが切れてるんです。だから、現場では『だましだまし』使われてて……」
「ほう?」
如月さんが、興味なさそうに、しかし期待を込めた目で僕を見た。
「で? その倉庫番の経験によれば、この骨董品はどうすれば開くのじゃ?」
「えっと……こういう古い設備って、管理者が変わるたびにパスワードを設定し直すのが面倒で、結局『工場出荷時の初期コード』に戻しちゃってることがよくあるんです。特に、透たちみたいな不法侵入者が勝手に使ってるなら、わざわざ複雑な設定をするとは思えなくて……」
僕は記憶の糸を手繰り寄せた。
あの時、バイト先の店長が「どうせ誰も来ないし、俺たちしか使わないんだから、一番簡単な設定にしとけよ」と笑っていたのを思い出す。
人の怠慢というのは、時代や場所を超えて共通するものだ。
「でも、まさか透に限ってそんな……あんなに用意周到な男が……」
「試せ」
如月さんが短く命じた。
「え?」
「Mの設計した完璧な施設において、管理者がそのような初歩的な怠慢を犯す確率は極めて低い。0.1%未満じゃろう。……だが、可能性がゼロでない以上、試行する価値はある」
彼女は、決して『あり得ない』とは言わなかった。
確率は低いが、検証すべき仮説だと認めたのだ。
僕はゴクリと喉を鳴らし、震える指をキーパッドへ伸ばした。
指先が、冷たいボタンに触れる。
0、0、0、0……エンター。
ピッ、ピッ、ピッ……ポーン。
カシャッ。
電子音が鳴り、重いロックが解除される音が響いた。
ランプが赤から緑に変わる。
「う、嘘だろ。開いた……」
僕は自分でも驚いて、ポカンと口を開けた。
まさか、バイト先での適当な管理体制の記憶が、こんな極北の監獄で役に立つなんて。
十九年の怨念だの、復讐だのと高説を垂れていた透が、パスワード設定すら面倒くさがっていた——あるいは、自分たちの支配力を過信してセキュリティを軽視していた——なんて、拍子抜けにも程がある。
「ふむ」
如月さんは、開いた扉を見て、手帳を取り出し、サラサラと万年筆を走らせた。
「ハードウェアは完璧でも、運用する人間が『不完全』であれば、そこが死角になるということか。……記録しておこう」
彼女はサクタロウの知識を褒めたわけではない。ただ、『人間の怠慢という変数がセキュリティホールになり得る』という事実を、自身のデータベースに記録しただけだ。
だが、その横顔は少しだけ楽しそうだった。
完璧に見えた敵の城に、凡人らしい『隙』があったことが愉快なのかもしれない。
「たまには、その無駄な経験も役に立つようじゃな」
如月さんは、万年筆をしまうと、躊躇なくドアノブに手をかけ、押し開けた。
その先には、透が逃げ込んだ『建物の心臓部』——そして、この施設の正体を示す「設計図」が眠る場所が待っていた。




