第2話『虚ろな城の建築家』 ~Section 13:爆ぜる暖炉と、逆流する熱風~
パチッ。
暖炉の灰の中で、乾いた音が弾けた。
それは、静寂に包まれた極北の監獄において、反撃の狼煙となる最初の合図だった。
僕が灰の中に混ぜ込んだ大量の融雪剤——塩化カルシウムの白い粒が、残り火の微かな熱と化学反応を起こし、不気味な赤黒い輝きを放ち始めたのだ。
水和熱。高校の化学で習った単語が、今は致死性の兵器となって目の前で稼働している。塩化カルシウムは水分と反応して発熱する性質を持つが、そこに僕がふりかけた高アルコールのウォッカが触媒となって引火し、反応速度を劇的に加速させていた。
さらに、細かく切り刻んで詰め込んだ黒田さんの高級スーツの成れの果て——防弾繊維に含まれる炭素繊維の束が、異常な高温に晒され、熱エネルギーを一点に凝縮していく。通常なら燃え尽きるはずの布切れが、ここでは熱を蓄える『炉心』の役割を果たしていた。
「サクタロウ、耳を塞げ。そして口を開けておけ」
闇の中で、如月さんの低い声が響く。
僕は慌てて両手で耳を覆い、彼女の背中から少し離れた位置で身を屈めた。密着は厳禁だ。これ以上接触すれば、爆発の前に僕の心臓が先に破裂してしまう。口を開けておくのは、急激な気圧変化で鼓膜が破れるのを防ぐためだ。彼女の指示は、いつだって合理的で、そして残酷なほど実践的だった。
如月さんは動かない。
彼女は汚れたドレスの裾を優雅に広げ、まるで実験の結果を見届けるマッドサイエンティストのように、燃え盛る暖炉を直視していた。その紫の瞳には恐怖も高揚感もない。ただ、計算式が正解を導き出す瞬間を待つ、冷徹な理性の光だけが宿っていた。
ズズズ、と暖炉の底から地鳴りのような重低音が響き始める。
空気が震えている。マイナス二十度の冷気と、急激に膨張する数百度の熱気がぶつかり合い、狭い燃焼室の中で悲鳴を上げているのだ。
臨界点が訪れた。
カァァァァァァァンッ!
爆発音とは違う。もっと硬質で、鋭利で、神経を直接ヤスリで削られるような破裂音が、狭い部屋の空気を引き裂いた。
金属の断末魔だ。
この山荘が建てられてから三十年以上、過酷な冬の寒さと暖炉の熱に晒され続けてきた鋳鉄。長年の使用による金属疲労と経年劣化で脆くなっていた鉄の塊が、マイナス二十度から一気に数百度へと跳ね上がった温度差——『熱衝撃』に耐えきれず、物理的に崩壊した音だった。
ドォォォォォンッ!
続いて、腹に響く重低音。
行き場を失った熱膨張した空気が、砕けた鋳鉄の隙間から噴き出し、唯一の逃げ道である『吸気口』——つまり、壁の裏にあるメンテナンス通路へと、猛烈な勢いで逆流したのだ。
部屋の中に、煤と化学繊維の焼ける嫌な臭いが充満する。
熱い。さっきまで極寒だった部屋が、一瞬にして灼熱のオーブンに変わったようだ。舞い上がった灰が、雪のように視界を白く染める。
「熱っ! けほっ、ごほっ!」
僕は顔を上げ、暖炉の方を見た。
そこには、無惨にひび割れ、砕け散った暖炉の残骸があった。レンガは崩れ、鉄枠は飴細工のように歪んでいる。そして、その奥の壁に開いていた黒い穴——吸気口からは、もう冷たい風は入ってこない。
代わりに、壁の向こう側から、何かが聞こえてきた。
「ッ! ゲホッ、ガハッ!」
人の声だ。
激しい咳き込み。そして、何かが倒れるような物音。
壁一枚隔てた向こう側に、確かに『誰か』がいたのだ。
「透だ」
僕は確信と共に、背筋が凍る思いがした。
本当にいたんだ。僕たちが凍えて死んでいく様子を、特等席で楽しんでいた観客が。
その顔面に、今、この部屋の煤と熱風と、炭素繊維の燃えカスと、有毒なガスが直撃したはずだ。想像してみてほしい。覗き穴を覗いていたら、そこから火炎放射器のような熱風が噴き出してくる瞬間を。
大火傷をしたんじゃないか。
僕の脳裏に、皮膚が焼け爛れる痛みが想像されて、胃の腑が縮んだ。
相手は誘拐犯だ。僕たちを殺そうとした悪党だ。自業自得だ。そう頭では分かっている。けれど、壁の向こうから聞こえてくる苦悶の咳き込みに、僕は反射的に痛そうという生理的な嫌悪感と、憐れみを感じてしまった。
僕は、やっぱりこういう暴力には向いていない。相手が誰であれ、人が傷つく音を聞くのは気分の良いものじゃない。
だが、次の瞬間。
壁の向こうから聞こえたのは、僕の甘い同情を粉々に砕く音だった。
「チッ、糞が」
舌打ち。
悲鳴でも、助けを求める声でもない。
底知れぬ苛立ちと、状況への怒りを含んだ、明確な敵意の音。
僕は耳を疑った。
あの至近距離で爆風を浴びて、舌打ち一つで耐えたのか。普通ならパニックになって叫び声を上げるはずだ。なのに、彼は即座に状況を理解し、次の行動に移ろうとしている。
カツ、カツ、カツ。
足音が遠ざかっていく。逃げたのだ。治療のためか、あるいは次の手を打つためか。
化け物かよ。
僕は戦慄した。
透という男の、底知れない執念とタフネス。彼はただのボンボンじゃない。十九年の刑務所暮らしで鍛え上げられた、本物の怪物だ。
だが、隣にいる少女は、その音を聞いて、満足げに小さく頷いただけだった。
「ふむ。やはり覗き穴であったか。仮説が実証されたな」
如月瑠璃は、ススで汚れたドレスの裾を払いながら、淡々と呟いた。
彼女は透へのダメージになど、これっぽっちも興味がないようだった。彼女が満足しているのは、自分の鑑定眼が正しかったこと——吸気口が監視ルートであり、壁の裏に空間が存在していたという事実——に対してのみだ。
「サクタロウ、あのバールを取れ」
彼女は、崩れた暖炉のそばに転がっている、ひん曲がった火かき棒を指差した。
「聞こえんのか。蝶番を見ろ。熱衝撃で組織が変態を起こし、焼き鈍し状態になっておる。今なら粘土のように抉じ開けられるぞ」
彼女の視線の先、鉄扉を支える頑丈な蝶番が、赤熱して脆くなっているのが見えた。
なるほど。爆発で吹き飛ばすのではなく、熱で金属の強度を下げて、物理的に破壊する。それが彼女の狙いだったのか。
「はい!」
僕は我に返り、熱くなった火かき棒を、スーツの切れ端で手を保護しながら拾い上げた。
彼女の冷徹さに、僕は透への恐怖とは別の種類の寒気を感じた。
彼女にとって、この爆発も、透の負傷も、すべては1+1=2と同じ、当然の帰結でしかないのだ。熱風が逆流すれば、そこにいる人間が火傷を負う。それは物理法則の結果であり、感情が入り込む余地はない。
「如月さん、下がってください。火の粉が飛びます」
僕はバールの先端を、熱で歪んだ扉の隙間に差し込んだ。
ジュッ、という音がして、塗装が焦げる臭いがした。
鉄が柔らかくなっている感触がある。普段なら絶対に動かない鋼鉄の塊が、今は粘土細工のように手応えを返してくる。
(うおおおおっ!)
僕は全身の力を込めた。
筋肉が悲鳴を上げる。普段、ペンライトくらいしか振っていない僕の貧弱な上腕二頭筋が、限界を超えて軋む。
ギギギギギ……バキンッ!
鈍い音と共に、溶接されていた蝶番の一つが破断した。
扉がガクンと傾き、その隙間から、冷たい外の空気が流れ込んでくる。
開いた。
「はぁ、はぁ……開きました」
僕は肩で息をしながら、バールを取り落とした。
手のひらがジンジンと痺れている。
「ご苦労。出よう、サクタロウ。こちらの観劇は終了じゃ。次は楽屋裏への訪問といくぞ」
如月さんは、開いた扉の隙間から優雅に廊下へと滑り出た。
その背中は、つい先ほどまで死にかけていたとは思えないほど凛としていて、誇り高い。ススで汚れた顔も、乱れた髪も、彼女の女王としての品格を損なうことはなく、むしろ戦場におけるジャンヌ・ダルクのような神々しさすら感じさせた。
僕は、壊れた暖炉を一瞬だけ振り返った。
そこには、まだ赤い火種が燻っている。
透を焼いた凶器。
心の中で「ざまあみろ」と「ごめん」を半分ずつ呟き、僕は彼女の後を追って廊下へと飛び出した。
**
廊下に出ると、そこは表の山荘の雰囲気とは一変していた。
まるで舞台セットの裏側に迷い込んだようだ。
飾り気のない、コンクリート打ちっぱなしの冷たい空間。足元には業務用の灰色のリノリウムが貼られ、天井には無機質な蛍光灯がチカチカと点滅している。
「ここは、本当に別荘なんですか? まるで地下鉄の構内か、工場の地下みたいだ」
僕が呟くと、如月さんは壁に手を這わせながら、速足で進んでいく。
彼女は逃げているのではない。まるで美術館で作品を鑑賞するかのように、この建物の骨格を確かめているのだ。
「このコンクリートの質感。骨材の粒度。そして、意図的に隠された配管の取り回し」
彼女はブツブツと鑑定結果を口にしながら、ある場所で足を止めた。
そこは、廊下の突き当たりにある、何の変哲もない壁だった。だが、壁の足元には、爆風で吹き出た黒い煤が不自然に広がっている。
「ここじゃな」
如月さんが壁を指差す。
「ここが、さっき透がいた場所——暖炉の裏側への入り口じゃ」
一見するとただの壁だが、よく見ると、床のタイルに微かな引きずり跡がある。隠し扉だ。
そして、その扉の隙間からは、まだ焦げ臭い煙が漏れ出しており、床には点々と赤い液体が落ちていた。
「血だ」
僕は息を呑んだ。
鮮やかな赤。
やっぱり、怪我をしている。それも、かなりの出血量だ。
「自業自得じゃ。他人の不幸を壁一枚隔てて覗き見ようなどという下劣な趣味を持つから、しっぺ返しを食らう」
如月さんは血痕を見ても眉一つ動かさず、むしろその隠し扉の構造に興味津々といった様子で、銀のルーペを取り出した。
彼女の関心は『透の怪我』ではなく、『隠し扉のギミック』にあるのだ。
「サクタロウ、この血痕を追うぞ。手負いの獣は巣に帰るものじゃ。この血の跡が、この建物の心臓部へと案内してくれるはずじゃ」
「追いかけるんですか? 逃げるんじゃなくて?」
「逃げる? どこへ?」
彼女は心底不思議そうに僕を見た。
「外は猛吹雪じゃ。装備なしで出れば死ぬ。それに、わしはまだ、この建物の作者を知らん。見てみろ、この美しいまでの無駄のなさ。透のような俗物に作れる代物ではない」
彼女は、血塗られた床を指差しながら、うっとりとした表情を浮かべた。
ゾクリとした。
この状況下で、建物の美しさに陶酔できる神経。
「この建物には意志がある。人間を閉じ込め、観察し、そして排除するための、完璧な機能美がな。わしはそのルーツを知りたい。透の復讐劇などという三流の芝居より、この建物の設計図の方がよほど魅力的じゃ」
ブレない。
この人は、本当にブレない。
命の危険よりも、知的好奇心が勝る。それが『鑑定士・如月瑠璃』なのだ。
そして、僕はその助手を務めると決めたのだ。
僕は大きくため息をつき、腹を括った。
血を流して逃げた透と、狂った母親の香澄。彼らが待ち受けるこの迷宮の奥へ、僕たちは自ら踏み込んでいくしかないらしい。
「わかりましたよ。行きましょう。でも、僕の後ろを歩いてくださいね。何が飛び出してくるか分からないから」
僕は、破れたスーツの下で震える足を叩き、彼女の前に立った。
凡人の僕にできるのは、せいぜい彼女の盾になって、最初に痛い目を見る役回りを引き受けることくらいだ。もちろん、彼女に触れないように、適度な距離を保ちながら。
「ふん。頼りにしておるぞ、助手」
如月さんの微かな笑みを背中に感じながら、僕は血の跡が続く暗い回廊へと足を踏み入れた。




