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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 12:生存戦略と、反撃の狼煙~

 パチッ……。

 暖炉の中で、最後の一片の薪が爆ぜ、白い灰へと崩れ落ちた。

 それは、この部屋に残されていた唯一の希望の灯火が、物理的に死を迎えた瞬間だった。

 部屋を辛うじて満たしていた橙色の光が、急速に冷たい闇へと収束していく。代わって部屋を支配したのは、窓の隙間から忍び込む吹雪の咆哮と、僕自身の歯の根が合わないガチガチという情けない打楽器のような音だけだった。


 視界が完全に奪われる。

 闇だ。絶対的な闇と、骨の髄まで凍みる冷気が、物理的な質量を持って圧し掛かってくる。

 意識の輪郭が、寒さでぼやけ始める。

 眠い。いや、これは睡魔ではない。脳がエネルギー消費を抑えるために、強制的にシャットダウンしようとしているのだ。指先の感覚はとっくにない。自分の手足がどこにあるのかさえ、目視できない闇の中では判然としない。

 ただ、背中合わせに密着している如月さんの存在感だけは、暗闇の中で研ぎ澄まされた刃のように鋭利さを増していた。


 ガチ……ガチガチ……。


 僕の震えが、背中を通じて彼女に伝わってしまう。止めようとしても止まらない。恐怖と寒冷による生理現象は、理性の制御を遥かに超えていた。


 その時、背中合わせの彼女が、グッと体重をかけてきた。

 背骨と背骨が軋むほどの圧力。

 それは「黙れ」という、無言の、しかし強烈な意志表示だった。


「(声を、出すな)」


 耳元で、羽毛が触れるような微かな吐息が聞こえた。

 囁き声ですらない。声帯を震わせず、ただ呼気に言葉を乗せただけの、極限の密談(ウィスパー)

 僕は息を呑み、震える顎を必死で固定した。


「(暖炉の、奥を見ろ。……いや、闇に目を凝らせ。……燃焼室の側面に、不自然な黒い開口部があるのが分かるか?)」


 彼女の声は、鼓膜を震わせるのではなく、脳に直接響いてくるようだった。僕は言われるがまま、闇の中で薄ぼんやりと赤熱している暖炉の奥を凝視した。

 煤で汚れたレンガの隙間に、確かに奇妙な『穴』がある。本来、排気のための煙突は上部に伸びているはずだ。側面に、あれほど大きな穴があるのは不自然だ。


「(吸気口(インテーク)じゃ。だが、通常の設計ではない。……あそこは、壁の裏のメンテナンス用通路に直結しておる。……そして今、その向こう側には『奴』がいる)」


 心臓が跳ねた。

 壁の向こうに、透がいる。

 さっき如月さんが暴いた通り、透は『建物の死角』に寄生する男だ。奴はわざわざ鉄扉を開けて監視などしない。十九年前、翡翠さんを隠し部屋に閉じ込め、壁の裏からその泣き声を聴いて愉悦に浸っていたように、今もまた、壁一枚隔てた向こう側で、僕たちの絶望を『聴いて』いるのだ。


 この静寂の中で、僕が漏らした泣き言も、震える音も、すべて奴に筒抜けだったということか。全身の毛穴が収縮するような悪寒が走った。


「(聞け、サクタロウ。……この状況を打開する計算式を伝える)」


 如月さんの唇が、僕の耳たぶに触れそうなほど近くにある。だが、そこに色恋の熱など微塵もなかった。あるのは、獲物を屠る瞬間の猛禽類のような、冷徹な殺気だけだ。


「(外部からの救助は、現時点では『期待値ゼロ』と断定する。……父や黒田がわしらの行方を追っておるのは間違いなかろう。だが、敵の鮮やかな交通掌握を見れば分かる通り、奴らは撹乱のプロじゃ。捜査網がこの一点に集束するには、最短でも四十八時間はかかる)」


 四十八時間。

 このマイナス二十度の冷凍庫の中で?


「(……無理です。朝までもたない)」


 僕もまた、音にならない呼気だけで返した。


「(左様。二日後、助けが来た頃には、わしらは美しく冷凍保存された標本となって奴らを出迎えることになる。……ならば、結論は一つ。……自力で出る)」


 彼女は、背中で僕を強く押した。その華奢な体のどこに、これほどの熱量が残っているのかと思うほど、その意志は熱く、硬かった。


「(わしは、被害者という名の泥靴を履いて、無様に地べたを這いずり回る趣味はない。……泥を塗られたなら、その泥の組成を分析し、倍にして投げ返してやるのが如月の流儀じゃ。……お主はどうする、助手? ここで凍死して、わしの『無能な遺品』として歴史に名を刻むか?)」


 屈辱的な言葉。だが、それは凍りついた僕の思考回路を焼き切るための、彼女なりの荒療治だった。

 遺品。無能。

 そんな言葉で終わってたまるか。

 僕は、感覚の消えかかった足を床に押し付けた。鈍い痛みが脳を叩き、思考を無理やり覚醒させる。

 如月さんは、僕よりも遥かに寒いはずだ。あの薄いドレス一枚で、僕よりも遥かに大きな復讐の標的として狙われている。なのに、その理性の炎は一分たりとも揺らいでいない。


「(誰が、遺品になんてなりますか。僕はあなたの助手ですよ。手足にだって、ストーブにだってなります。……だから、プランを。僕たちが生き残るための、サバイバルプランを聞かせてください)」


「(……ふん。ようやく熱効率が上がったようじゃな。……ならば、お主の背中にあるバックルを使え。……外の、風の音に合わせるのじゃ)」


 彼女の指先が、僕の腰のあたりで蠢き始める。

 その時、外で一際大きな風の唸りが響いた。


 ——ヒュオオオオオオオオオッ!!


 窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。古い山荘がきしむ音。その騒音に紛れ、如月さんの指が僕のベルトのバックルに爪を立てた。

 カチ、という微かな金属音。壁の向こうの透には、風鳴りの一部にしか聞こえないはずだ。


「(見えなくても、分かる。……ピンの先端の返り(バリ)の感触。……これは安価なプレス成形品じゃ。精度が低い分、構造に『遊び』がある。……わしの爪先でピンを誘導し、結束バンドのロック爪をコンマ数ミリだけ浮かせる)」


 彼女は暗闇の中で、指先の触覚だけで『鑑定』を行っていた。物質の硬度、摩擦係数、構造的欠陥。すべてを指先から読み取り、解錠への道筋を描いているのだ。


「(……次、風が吹いたら……腰を右に、三ミリ引け。……躊躇するな。摩擦熱で皮膚が焼けるかもしれんが、耐えろ)」


 再び、暴風が山荘を揺らす。

 ——ガガッ、ガタッ!!


 今だ。

 僕は言われた通り、闇の中で腰を鋭く振った。

 グッ、という鈍い抵抗。手首を縛るプラスチックのエッジが、逃げ場を失って肉に食い込む。焼きごてを当てられたような激痛。熱い血が滲む感触があったが、僕は奥歯を噛み締め、絶叫を喉の奥で押し潰した。


 パチン。


 風の音にかき消されるような、小さな解放の音。

 僕の両手は自由になった。血が巡り始め、ジンジンと痺れるような痛みが指先に広がる。僕は即座に自分の血で滑る指を動かし、如月さんの手首のバンドに爪をかける。彼女の指示通り、風の音に合わせて、慎重に、かつ大胆に。


 数分後、僕たちは音もなく、自由な手足を取り戻した。

 だが、僕たちは依然として『縛られた囚人』を演じ続けなければならない。壁の裏の耳を欺くために、姿勢は崩さず、背中合わせのまま、次の工程へと移行する。


「(……生存戦略、フェーズ2。……奴の裏口を、火葬場に変える)」


 如月さんの指が、僕の腕を這い、暖炉のそばに置かれた備品へと僕の意識を誘導した。

 融雪剤(塩化カルシウム)の袋、度数の高いウォッカのボトル、そして木箱の中に放置された古いボロ布。

 奴らが僕たちに『絶望を味わわせるため』に用意した残酷な小道具だ。


「(奴は、寒さでわしらが思考停止していると、慢心しておる。……だからこそ、こんな危険な化学物質を、不用意に放置した。……サクタロウ、その黒田のスーツを脱げ。……命と引き換えに、弁償じゃ)」


「(……えっ……?)」


「(防弾繊維の、炭素素材(カーボンファイバー)が必要じゃ。……融雪剤の塩化カルシウムを、残り火に撒け。……水和熱で、温度を急上昇させる。……そこに、酒と、スーツをバラした繊維を詰め込むのじゃ)」


 彼女のプランは、もはや鑑定の域を超えた、冷徹な化学兵器の構築だった。

 塩化カルシウムによる急激な発熱(ヒートショック)を利用し、暖炉の煙突効果を逆流させる。

 通常、煙は上へ昇る。だが、彼女はスーツの繊維を使って吸気口を部分的に目貼りし、熱風の逃げ道を『奴が覗き込んでいるであろう吸気口』一点に絞るつもりなのだ。


「(……いいか、サクタロウ。……金属は、急激な温度変化に弱い。……極低温から一気に数百度の熱を与えれば、組織が変態を起こし、脆く崩れる。『熱衝撃破壊(サーマルショック)』じゃ。……奴が覗き窓からこちらを覗き込んだその瞬間、この極寒のエネルギーを……すべて奴の顔面に、叩きつけてやる)」


 僕は戦慄した。

 彼女は、このマイナス二十度の環境そのものを『火薬』に変えようとしている。

 透が物理法則で僕たちを追い詰めたなら、如月さんはその法則をさらに歪め、増幅させて、檻ごと奴を焼き払うというのだ。

 

「(文句は、あるまいな?)」


 彼女の瞳が、闇の中で妖しく光った。


「(……ありません。……僕のスーツどころか、僕の身を削ってでも、ここからあなたを連れ出します)」


「(……ふん。……殊勝な心がけじゃ)」


 僕は、震える手で黒田さんの高級なスーツを脱いだ。弁償なんて、一生かかっても無理だろう。だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 僕は影のように床を這い、暖炉の灰の中に融雪剤を、音もなく流し込んだ。


 パチッ……パチッ……。


 灰の下で眠っていた微かな火種が、塩化カルシウムと反応し、化学反応による熱を持ち始める。

 ウォッカのボトルを開ける。強烈なアルコール臭が鼻をつくが、今はそれが頼もしい。

 防弾スーツの裏地を引き裂き、中の特殊繊維をむき出しにする。ナイフはないが、暖炉の鉄格子を使って無理やり切断する。


 すべては、壁の向こうの聴衆に気づかれないように。

 吹雪の轟音をBGMに、僕たちは着々と反撃の準備を整えていく。


 壁の向こうでは、透がまだ、勝利の美酒に酔いしれながら、僕たちの『死へのカウントダウン』を聴いているはずだ。

 だが、彼が聴いているのは、演出された偽物の静寂。

 

 如月瑠璃の理性が、暗闇の中で反撃の導火線に火をつけた。

 四十八階の泥の足跡から始まったこの悪夢。その航路を逆に辿り、亡霊たちを光の下へ引きずり出す。


「(準備せよ、サクタロウ。……亡霊を、物理的に焼き払う時が来た)」


 戦場は、ここから逆転の極致へと加速する。



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