第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 11:四十八階の泥と、繋がる航路~
静寂と冷気が、真綿で首を絞めるように僕たちを追い詰めていた。暖炉の火は、薪が燃え尽きようとしているのか、その輝きを刻一刻と弱めている。揺らめく赤い光が小さくなるにつれ、部屋の隅に溜まった闇が、じわりじわりと面積を広げ、僕たちの足元まで侵入してきていた。
寒い。痛いほどに寒い。先ほどよりも確実に室温が下がっている。おそらく、今はもう零下に達しているだろう。僕の右腕と、如月さんの左腕。互いの体温を分け合うために密着している接点だけが、この世界で唯一の熱源だった。だが、そこに甘美な感情など入り込む余地は微塵もない。あるのは、生物としての危機感と、凍死への恐怖だけだ。僕の皮膚感覚は、隣にいるのが異性であることすら忘れ、ただ『温かい物体』として認識し始めていた。如月さんも同じだろう。彼女は僕を人間としてではなく、効率的な『タンパク質製のカイロ』として利用しているに過ぎない。その証拠に、彼女は僕に体重を預けることもなく、ただ毅然と背筋を伸ばし、接触面積を維持することだけに集中している。
「……寝るなよ、サクタロウ」
隣から、低い声がした。如月さんの声だ。その声には感情の起伏がなく、まるで精密機械が音声を出力しているかのように無機質だった。
「……はい。寝たら、死にますよね」
「左様。低体温症の末期症状は、睡魔と幻覚じゃ。意識が落ちれば、そのまま心停止まで一直線だ。お主が死ねば、わしの熱源が一つ減る。無益な損失は避けねばならん」
彼女は前を向いたまま、瞬きもせずに言った。凍てつく空気の中で、彼女の理性だけは依然として熱を帯びたまま駆動を続けている。
「脳を動かせ。思考を止めるな。カロリーを消費してでも、脳をアイドリングさせ続けろ。それが、この冷蔵庫の中で正気を保つ唯一の方法じゃ。思考の空白は死への最短距離だと心得よ」
「脳を動かすって……何を考えればいいんですか。今の僕には、雪に埋もれて死ぬ未来しか浮かばないんですけど」
「嘆かわしい想像力じゃな。ならば、わしが思考の燃料を提供してやる。お主の凡庸な脳髄でも処理可能な、極上の謎解きじゃ」
如月さんは、結束バンドで背中合わせに拘束された手首を僅かに動かし、強張った指先の感覚を確かめるような仕草をした。
「サクタロウ。お主、先ほどの『再会』で、透の足元を見たか?」
「足元……ですか?」
僕は記憶を辿った。軍用ブーツ。黒い、厚底の。恐怖で顔ばかり見ていたから、足元の記憶は曖昧だ。
「……すみません。黒いブーツだったことくらいしか……」
「ふん、やはりな。凡人の観察眼などその程度か。わしは見たぞ。あの男がわしの顔を覗き込み、尊大な講釈を垂れていた時、そのブーツのソールに何が付着していたかをな。奴の傲慢さが、その足元に決定的な証拠を残しておった」
如月さんの紫の瞳が、暗闇の中で鋭く光った。鑑定士の目だ。極限状態にあっても、彼女は目の前の敵を『敵』としてだけでなく、『情報』として観察し、解剖していたのだ。
「泥……ですか?」
「うむ。正確には、赤土じゃ。水分を含んで黒ずんでおったが、乾燥すれば鮮やかな赤褐色に変わる粘土質の土壌じゃよ」
彼女の言葉で、僕の脳裏に最初の事件の記憶が呼び覚まされた。本社ビルのラウンジ。如月さんは、地上二百メートルの窓ガラスに付着していた泥をルーペで覗き込み、それが月見坂の土壌ではなく、北の寒冷地——星見上市の刑務所特有の赤土であると断言していた。
「……あの、四十八階の窓についていた泥と同じなんですか?」
「同一じゃ。土壌バクテリアの死骸、凍結防止剤の塩化カルシウム濃度、そして明治期のレンガ建築由来の煤の含有率。すべてが、わしが本社ビルで鑑定したデータと寸分違わず合致した。透が履いているあのブーツこそが、四十八階の窓ガラスにあの不純な足跡をスタンプした張本人であるという、動かぬ物証じゃ」
如月さんは、冷徹に、しかしどこか悦びを孕んだ声で断言した。
「つまり、あの足跡は透がどこからか持ち込んだ泥を投げつけたのではなく、奴自身があの窓の外に『立って』つけたものだということだ。お主は先ほど、物理的に不可能だと言ったな? ゴンドラもなく、ドローンの干渉もなかったあの場所に、なぜ足跡がついたのか」
「そうです……。いくら透が如月家の人間だからって、空を飛べるわけじゃない。地上二百メートルの垂直なガラス壁に、人間が片足をつくなんて、やっぱりどう考えても不可能です。窓も開かない嵌め殺しだったじゃないですか」
「ふん。お主の『不可能』は、観察不足による思い込みに過ぎん。いいか、サクタロウ。物理法則がそれを許さないというのなら、答えは一つしかない。奴には、わしたちには見えない『物理的な道』が見えていたのじゃ」
彼女の思考は、監獄の壁を透過し、遠く月見坂の本社ビルへと飛んでいた。
「わしはあの日、四十八階の窓ガラスを鑑定しながら、同時に建物の構造美を冒涜する『歪み』を捜しておった。透が十九年前に翡翠姉様を監禁した際に見つけ出したという、あのビルの『空白の空間』の正体をな。……そして、わしは気づいた」
「気づいた……? 何にですか?」
「本社ビルの設計思想じゃよ。あのビルはカーテンウォール工法を採用しておるが、その外壁を支えるメインフレームの節々に、意図的な『余白』が設けられておる。メンテナンス用ダクトや配管を通すためのスペースと公称されておるが、その実態は、外壁のガラス一枚を隔てたすぐ裏側に存在する、人間一人が通れるほどの『垂直の動線』じゃ。……そして、その動線の出口は、窓枠のサッシ部分に巧妙に隠蔽されておる」
「えっ……じゃあ、透はビルの中から外に出たってことですか?」
「左様。四十八階の会議室の壁裏から、垂直ダクトを伝って窓のすぐ側まで移動し、サッシの隙間から命綱を外壁のレールに固定して、ほんの一瞬だけ外へ身を乗り出したのじゃよ。奴は、お掃除ドローンの巡回ルートも、赤外線センサーの死角も、すべてを把握しておった。奴が狙ったのは、センサーがスキャンを行わないコンマ数秒の『瞬きの瞬間』じゃ」
如月さんの語るトリックは、あまりにも地味で、そしてあまりにも異常な執念に満ちていた。空を飛ぶような華々しい仕掛けではない。ビルの骨組みの隙間に潜り込み、埃にまみれて這いずり、精密な計算のもとに重力と風圧の限界に挑む。それはまさに、如月という巨大な大樹の内部を食い荒らす『寄生虫』のやり口だった。
「奴は、自分がかつて当主として君臨するはずだったあの城の、誰一人として気づかなかった『裏設計図』を十九年以上も前から脳内に構築しておったのじゃ。あの足跡は、その知識の誇示に他ならん。……『俺はこの建物の構造(骨)まで愛している。お前たちの知らない肉体の隙間をすべて知っている』という、歪んだ愛の告白じゃよ」
背筋が凍りついた。寒さのせいだけではない。透という男の、十九年に及ぶ憎悪の深さが、その論理的な行動の裏に透けて見えたからだ。彼はただ刑務所にいたのではない。一日の大半を、かつて自分が歩いた本社ビルの回廊や、利用した隠し部屋の寸法を思い出すことに費やしていたのだ。
「……気持ち悪いですね。そんなことに十九年もかけるなんて」
「執念は、時に天才を凌駕するからな。だが、この事実はわしたちに一つの重要な示唆を与えてくれる。……サクタロウ、考えてもみろ。透が『既存の死角』を利用するタイプの犯罪者だとするならば、この今わしたちが閉じ込められている『完璧な監獄』はどうじゃ?」
如月さんの言葉に、僕は意識を『今』へと引き戻した。Section 10で彼女が鑑定した、この異常に頑丈な部屋。防爆の壁、溶接された鉄扉、防弾の窓。
「……如月さんは、ここも透が作ったわけじゃないって言ってましたよね」
「そうじゃ。築三十年以上の機能主義建築。透が中学生の頃にはすでに存在しておった施設じゃ。……つまり、ここにもあるはずなのじゃよ。奴がここをアジトに選んだ決定的な理由……奴だけが知っている『隠しルート』がな」
彼女の視線が、再び部屋の中をなめるように移動した。今度は脱出の不可能性を確かめるためではない。この部屋の構造に潜む『バグ』を探し出すための、冷徹な解析の眼差しだ。
「透は、自分で一から物理的な障害を作ることを好まん。奴は常に、他人が作ったシステムの『綻び』を寄生先として選ぶ。……ならば、この防爆壁の裏か、あるいはあの暖炉の煙突の構造に、必ず奴が利用している『物理的な裏口』が存在するはずじゃ」
「裏口……。でも、僕たちの手足は縛られてますよ。もし見つけたとしても、そこまで辿り着けるか……」
「……黙れ。できない理由を探すのは凡人の悪癖じゃ」
如月さんは僕の言葉を切り捨てると、密着している僕の腕に、さらに強く自分の腕を押し付けてきた。熱を奪うためではない。僕の動揺を抑え込み、その思考を強制的に同期させるための、威圧的な接触だ。
「いいか、サクタロウ。四十八階の足跡が、奴が『道なき道』を歩いてきた証明であるならば、この部屋もまた、外側からは密室に見えても、内側には必ず『航路』が通っておる。透の靴底についていたあの赤土は、奴がその航路を通ってここへやってきたという証拠でもあるのじゃ」
彼女の理性が、凍える空気を切り裂き、暗闇の中に一本の細い光の道を描き出そうとしていた。透が十九年かけて練り上げた絶望のシナリオ。その中に唯一存在する、設計者ですら気づかなかった『構造上の欠陥』。如月さんは今、その微かな歪みを、その紫の瞳で捉えようとしている。
「見せてやろう。如月の鑑定士が、奴の愛する『死角』をいかに無価値なゴミへと変えるかをな」
彼女の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。それは極限の状況においてなお、支配者としての矜持を失わない女王の笑みだった。吹雪の唸り声も、身体を蝕む冷気も、彼女の論理を止めることはできない。
泥の足跡が繋いだ航路。その先にあるのは、絶望の完成か、あるいは逆転への綻びか。
暖炉の火が最後の一跳ねを見せ、部屋の闇がさらに深まった。だが、僕の隣にいるこの少女の瞳だけは、依然として誰にも消せない理性の火を燃やし続けていた。
「……サクタロウ。お主の背中にある金具……ベルトのバックルじゃな。形を教えろ。指先だけで解錠構造を模倣する」
「……え、あ、はい。……楕円形で、ピンが一本のタイプですけど……」
「ふん、単純な構造じゃな。寄れ。わしの指が届く位置までな。……わしの鑑定眼に、死角など存在せん」
彼女の細い指が、僕の背後で蠢き始める。それは、絶望的な密室に開けられた、唯一の風穴だった。




