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如月令嬢は『成層圏の泥靴を履かない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 10:氷点下の密室と、凍える理性~

 ガチャン。


 重厚な鉄扉が閉ざされ、鍵がかけられる音が、まるで断頭台の刃が落ちる音のように響いた。

 コツ、コツ、コツ……。

 軍用ブーツの足音が廊下の奥へと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 後に残されたのは、圧倒的な静寂と、肌を刺すような冷気だけだった。


「……行っちゃった……」


 僕の口から、情けない独り言が漏れた。

 嵐が去った後の静けさではない。これは、処刑までのカウントダウンが始まった静けさだ。

 透と香澄。十九年の怨念を煮詰めた復讐者たち。彼らの目は本気だった。僕たちを生かしておくのは、あくまで『最高のタイミングで絶望させるため』であり、慈悲など欠片もない。


 パチッ、パチッ……。

 部屋の隅にある暖炉の火が、頼りなく揺らめいている。

 唯一の熱源。

 だが、その熱はあまりにも微力だった。外はマイナス十度以下の猛吹雪だ。壁や床の隙間から、見えない氷の刃が侵入し、僕たちの体温を容赦なく削り取っていく。


「さ、寒い……」


 緊張の糸が切れた途端、強烈な寒気が襲ってきた。

 ガチガチガチ……。

 奥歯が勝手に鳴る。防弾スーツを着ているはずなのに、下着一枚で雪の中に放り出されたような寒さだ。指先の感覚はとうにない。結束バンドで縛られた手首が、鬱血と冷えでどす黒く変色しているのが自分でも分かった。


「……如月さん、大丈夫ですか?」


 僕は震える声で隣を見た。

 彼女は壁に背中を預けたまま、じっと動かない。

 黒いゴシックドレスは、布地こそ多いものの、所詮は装飾品だ。レースやフリルに防寒機能などない。僕よりも遥かに寒いはずだ。

 だが、彼女は彫像のように表情を凍らせている。


「……やかましい」


 返ってきたのは、氷のように冷たく、しかし芯のある声だった。

 彼女は僕を見ずに、暖炉の火を睨んでいる。


「歯を鳴らすな、サクタロウ。そのリズムの悪いカスタネットのような音を聞いていると、不快指数が上がる」


「す、すみません。でも、勝手に……」


「精神で止めろと言っておる。……それより、仕事をしろ」


「仕事……?」


 こんな状況で? 僕は耳を疑った。


「わしらは今、十九年の怨念という檻の中に閉じ込められておる。……だが、ただ震えて死を待つのは、如月の流儀ではない。まずは現状把握(アセスメント)じゃ」


 彼女は拘束されたまま、顎で部屋を見渡すように指示した。


「サクタロウ。お主の凡庸な目には、この部屋がどう映る?」


「え? ……どうって……」


 僕は言われるがままに、薄暗い部屋を見回した。

 広さは十畳ほど。壁は黒ずんだレンガと木材。天井は高く、梁が剥き出しになっている。家具はほとんどなく、暖炉といくつかの木箱があるだけ。


「……古びた、山小屋か別荘……ですかね? カビ臭いし、結構ボロいというか……」


「……ふん。やはり凡人の節穴じゃな」


 如月さんは呆れたように鼻を鳴らすと、鑑定士の瞳を細めた。

 その紫の瞳が、薄暗がりの中で怪しく光る。

 彼女は今、恐怖や寒さに屈しているのではない。『謎』を前にした知的好奇心と、違和感を暴こうとする執念で、自身を奮い立たせているのだ。


「いいか、よく見ろ。……まず、あの扉じゃ」


 彼女の視線が、入口の鉄扉に向けられる。


「表面は木目調のシートで偽装されておるが、開閉音と閉じた時の重低音からして、あれは厚さ五センチ以上の鋼鉄製じゃ。……しかも、蝶番(ヒンジ)の位置を見てみろ。通常の内開きではない。外開きで、かつ溶接されておる」


「溶接……?」


「つまり、内側から蝶番を外して脱出することは物理的に不可能ということじゃ。……普通の別荘に、そんな監獄のような仕様の扉をつけるか?」


 言われてみればそうだ。

 ここは別荘地だとしても、玄関ならともかく、個室の扉をそこまで頑丈にする必要はない。


「次に、壁じゃ」


 彼女の視線が、黒ずんだレンガの壁をなめるように移動する。


「お主は『ボロい』と言ったが、それは表面的な経年劣化(エイジング)に過ぎん。……レンガの積み方を見ろ。イギリス積みでもフランス積みでもない。……あれは、遮音性と防爆性を高めるための特殊な複層構造じゃ」


「防爆……!?」


「うむ。おそらくレンガの裏には、分厚いコンクリートと鉛のシートが仕込まれておる。……ここでどれだけ大声を出そうが、あるいは手榴弾を爆発させようが、外には一切聞こえんし、壁が崩れることもないじゃろうな」


 背筋が寒くなった。

 ただの古い壁だと思っていたものが、急に『閉じ込めるための壁』に見えてくる。


「そして極め付けは、あの窓じゃ」


 僕たちが外の雪景色を見た、あの窓。


「ペアガラスと言ったが、訂正する。……あれはただの二重ガラスではない。ポリカーボネートと強化ガラスを交互に積層させた、防弾仕様の多層ガラスじゃ」


「防弾……? こんな山奥で?」


「そうじゃ。しかも、サッシを見てみろ。……開閉するためのノブも、クレセント錠もない。最初から『開かない』ように、枠ごと壁に埋め込まれておる」


 如月さんは冷笑を浮かべた。


「換気扇もない。通気口も見当たらん。……唯一の空気の通り道は、あの暖炉の煙突のみ」


 彼女の鑑定結果が、僕の脳内で一つの絶望的な図面を描き出した。

 鋼鉄の扉。防爆の壁。防弾の嵌め殺し窓。

 ここは部屋じゃない。

 巨大な金庫か、あるいはシェルターだ。


「……如月さん。ここは、ただの別荘じゃないんですか?」


「ああ。……ここは『収容施設』か、あるいは何らかの『実験場』じゃ」


 彼女は確信を持って断言した。


「この建物の建築様式……三十年ほど前の機能主義的なブルータリズムの影響が見られるが、用途が異質すぎる。……別荘として楽しむための『開放感』が皆無じゃ。逆に、内部の人間を絶対に逃がさない、あるいは内部で起きていることを絶対に外に漏らさないための『閉鎖性』に特化しておる」


「じゃあ、透たちが作ったアジトってことですか?」


「いや、違うな」


 彼女は首を横に振った。


「透たちは十九年間、刑務所にいた。この建物はそれより古い。……少なくとも築三十年は経過しておる。透たちが作ったのではない。彼らは、ここを『知っていた』、あるいは『見つけた』のじゃ」


 その言葉に、僕はハッとした。

 二十年前の事件。

 透は、本社ビル建設時に関わっていなかったにも関わらず、隠し部屋の存在を知っていた。

 そして今回もまた、彼らは自分たちが作ったわけではない『完璧な監獄』を利用している。


「……まるで、あつらえ向きですね。彼らにとって」


「ああ。……だが、今は『誰が作ったか』という歴史ミステリーに浸っている場合ではない」


 如月さんは、ドレスの裾から覗く白い足をさすりながら、現実に意識を戻した。

 その顔色が、先ほどより悪くなっている気がする。唇の色も薄い。

 暖炉の火は燃えているが、部屋の空気は確実に冷えてきている。


「結論を言うぞ、サクタロウ。……物理的な脱出は不可能(インポッシブル)じゃ」


 彼女は冷徹に、死刑宣告のような分析を続けた。


「扉を破るにはC4爆薬が必要じゃ。窓を割るにも、ハンマー程度では傷もつかん。……仮に窓を割れたとしても、その先には鉄格子代わりの原生林と猛吹雪が待っておる。装備なしで飛び出せば、一時間で凍死じゃ」


「そ、そんな……。じゃあ、どうすれば……」


「……待つしかない」


 彼女は悔しげに唇を噛んだ。


「奴らのシナリオに乗るしかないのじゃ。……今夜の『ショー』とやらで、奴らがこの扉を開ける瞬間。その一瞬の隙を突く以外に、ここから生きて出る道はない」


 待つ。

 この極寒の中で?

 結束バンドで縛られたまま?


 ガチガチガチ……。

 また、僕の奥歯が鳴った。止めようとしても止まらない。

 体の芯が冷え切って、内臓まで凍りつきそうだ。

 

「寒いか、凡人」

 如月さんが、不機嫌そうに言った。


「は、はい……。正直、死にそうです……。如月さんは、寒くないんですか……?」


「寒いに決まっておろうが。……このドレスの素材はシルクとレースじゃ。断熱性など皆無に等しい」


 彼女は強がっているが、その白い指先は小刻みに震えているのが分かった。

 彼女の方が限界に近いのだ。華奢な体。

 このまま夜を迎えれば、低体温症で意識を失うのは彼女の方が先だ。


「……くそっ」


 僕は自分の無力さを呪った。

 手を動かせれば、暖炉に薪をくべることができるのに。

 今の僕にできることは、ただ隣で歯を鳴らし、無駄に二酸化炭素を排出することだけだ。


「……サクタロウ」


 如月さんが、ポツリと言った。


「少し、寄れ」


「え?」


「聞こえんのか。寄れと言っておる。……暖炉の熱が届かん」


 彼女は視線を合わせずに、命令口調で言った。

 僕の方を見ようともしない。ただ、前方の虚空を睨んでいる。


「お主は無駄に代謝が良さそうじゃ。その熱エネルギーを無為に空気中に放出するのは非効率的じゃろう。……わしの暖房器具として有効活用してやる。光栄に思え」


 あくまで上からの物言い。

 震えるだとか、怖いだとか、助けて欲しいだとか、そんな弱音は一切ない。『合理的判断』として、僕をストーブ代わりに使おうとしているのだ。

 それでこそ、僕の主人だ。


「……わかりました。お役に立てて光栄です」


 僕は戸惑いながらも、芋虫のように床を這って、彼女の方へ数センチ移動した。

 そして、言われた通りに体を寄せた。

 僕の右腕と、彼女の左腕が触れ合う。


「冷たッ……!」


 思わず声が出た。

 ドレス越しの彼女の腕は、まるで氷柱のように冷え切っていた。ここまで体温が下がっていたのか。


「……騒ぐな。温度差があるほど熱伝導率は高まる。物理の法則じゃ」


 如月さんは眉一つ動かさず、淡々と言った。

 そして、僕の体に体重を預けることも、頭を乗せることもなく、ただ毅然と背筋を伸ばしたまま、僕の隣に『置物』のように鎮座した。

 触れているのは腕と肩の一部だけ。

 甘えなど微塵もない。ただ、熱を奪うためだけの接触。

 その徹底した態度に、僕は逆に彼女の凄みを感じた。この状況で、ここまで自分を律することができるのか。


 窓の外では、吹雪が唸りを上げている。

 日は傾き始め、部屋の中の闇が濃くなっていく。

 夜が来る。

 マイナス二十度の世界と、十九年の怨念を連れて。


 僕たちは、互いの体温だけを頼りに、その時を待っていた。



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