第1話『凍れる過去の再会』 ~Section 9:『復讐の鬼と、再会の対峙~
暖炉の薪がパチリと爆ぜた。
その小さな音が、やけに大きく響くほどの静寂が部屋を支配していた。如月さんがここを『敵のホームグラウンド』だと断言してから、僕たちは会話を途切れさせ、それぞれの思考に沈んでいた。
僕は、結束バンドで縛られた手首の痛みを紛らわせるように、隣に座る如月瑠璃を盗み見た。
彼女は壁に背中を預けて床に座り込み、冷徹な瞳で天井のシミを睨んでいる。その横顔は美しく、そして痛々しいほどに白い。
埃にまみれた黒いゴシックドレスが、皮肉にも彼女の肌の白さと、王族のような気品を際立たせていた。
ドレス……。
その漆黒の布地を目にした瞬間、僕の脳裏に、数時間前——あるいは一日前なのかもしれない——の車内での記憶が、暴力的な鮮明さでフラッシュバックした。
『失礼しますッ!』
あの時、ガスが充満する密室で、僕はとっさに自分の防弾スーツの上着を脱ぎ、それを彼女の頭から被せた。
そして——。
(……あ、あ、ああああああッ!!)
僕の心臓が、恐怖とは別の理由で早鐘を打ち始めた。
思い出してしまった。鮮明に、スローモーションで再生されてしまった。
僕は彼女の上に覆いかぶさり、彼女を座席と僕の体の間に閉じ込めたのだ。いわゆる『車内ドン』。しかも、ただ壁に手をつくだけじゃない。ガスを吸わせないために、僕の胸板を彼女の顔に押し付け、全身で密着して……。
スーツのジャケット越しとはいえ、あの時の感触がリアルに蘇る。
華奢な肩のライン。驚くほど柔らかな肢体の感触。
そして、僕を見上げていた、涙で濡れた紫の瞳。
鼻先をかすめた甘い百合の香りと、彼女の吐息の熱さ。
(やっちまった……完全にやっちまった……!)
僕は拘束されたまま、床の上で芋虫のように身悶えした。
なんてことをしてしまったんだ!
緊急避難措置だったとはいえ、僕みたいな地下アイドルオタクの凡人が、神聖不可侵である如月財閥の令嬢に対して、あんな、あんな濃厚接触を!
これは不敬罪? いや、万死に値するのではないか?
今まで『女性と手が触れたら爆発する』レベルの耐性しかなかった僕が、いきなり最終回レベルのイベントを発生させてしまった。
いや、そもそも僕の心臓が持たない。今思い出しても顔から火が出そうだ。この極寒の部屋で、僕の顔だけが沸騰している。体温が急上昇し、冷や汗が滝のように流れ出る。
「……何をしておる、サクタロウ」
隣から、氷点下の声が降ってきた。
ビクゥッ! と僕の体が跳ねる。
恐る恐る視線を上げると、壁にもたれて座っている如月さんが、床で悶える僕を汚物を見るような目(いつもの三割増し)で見据えていた。
「あ、いや、その! な、何でもありません! 寒さで震えが止まらないというか、その……!」
「嘘をつけ。先ほどから顔を赤くしたり青くしたり、芋虫のようにのた打ち回ったり……。ガスで脳に異常でもきたしたか? それとも、自分の無力さを嘆いて発狂でもしたか」
「ち、違います! ただちょっと、その……車の中でのことを思い出して、とんでもないことをしてしまったなと……!」
「車の中?」
彼女は小首を傾げ、数秒の沈黙の後、すぐに「ああ」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「あの『人間フィルター』のことか。……別に気にしておらん。お主のジャケットは化学繊維の油臭い匂いがして不快極まりなかったが、おかげでガスの吸引量は最小限で済んだ。盾としての機能は果たしたと褒めてやる」
「油臭いって……あれ、黒田さんが用意した最新の防弾繊維なのに……」
僕はガックリと項垂れた。
どうやら彼女にとっては『盾として機能したか否か』が全てであり、僕がドギマギしていたことなど、路傍の石ころ以下の関心事らしい。
まあ、それで軽蔑されるよりはマシか……。いや、油臭いと言われたのは地味にショックだが。
その時だった。
ガチャン。
部屋の入口にある重厚な鉄扉の鍵が、外から開けられる音がした。
重く、冷たい金属音が、静寂を引き裂く。
僕の場違いな羞恥心は一瞬で消し飛び、心臓が凍りついた。
「……来たか」
如月さんが姿勢を正し、鋭い視線を扉に向ける。その瞳から、先ほどまでの呆れた色は消え、鑑定士としての冷徹な光が宿る。
ギィィィィ……。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉がゆっくりと外側へと開いた。
ヒュオオオオオッ……!
猛烈な冷気が、白い霧となって部屋に流れ込んでくる。
その霧の向こうから、二つの人影が現れた。
コツ、コツ、コツ。
軍用ブーツの硬い足音が、床を叩く。
入ってきたのは、初老の男と女だった。
いや、『初老』という言葉では表現しきれない、異様な空気を纏っていた。
男の方は、四十代半ばだろうか。
白髪混じりの髪を短く刈り込み、痩せこけてはいるが、その眼光はカミソリのように鋭い。顔立ちは整っているが、左目の下に深い傷跡があり、それが彼の端正な顔を歪なものにしていた。
着ているのは厚手の防寒コートだが、その下には仕立ての良いスーツが見える。
女の方は、六十代くらい。
深く刻まれたシワが、彼女の人生の過酷さを物語っているが、その瞳には狂気じみた光が宿っている。口元には、上品さと下品さが同居したような、奇妙な笑みが張り付いていた。
如月透。四十四歳。
前原香澄。六十代後半。
十九年という歳月が、彼らをただの人間から『復讐の化身』へと変貌させていた。
北の監獄で、来る日も来る日も如月への憎悪を煮詰め続けた結果、彼らの魂は純粋な悪意の結晶となっていたのだ。
彼らが部屋に入ってきた瞬間、ただでさえ低い気温が、さらに数度下がったような錯覚を覚えた。
「……寒くはないか?」
男——透が、静かに口を開いた。
その声は、驚くほど穏やかで、紳士的だった。二十年前に自分の姪である翡翠さんを誘拐し、麻酔で眠らせた犯人とは思えないほどに。
「暖炉の薪は足りているかな。ここは夜になるとマイナス二十度まで下がる。……凍えて死ぬには、少し早すぎるからね」
彼はゆっくりと歩み寄り、僕たちの前で立ち止まった。
そして、拘束されている如月瑠璃を見下ろし、目を細めた。
まるで、展示ケースの中の宝石を値踏みするかのような、粘着質な視線。
「はじめましてだな、俺の可愛い姪っ子」
透は、皮肉たっぷりに口角を上げた。
「君が生まれた時、俺はすでに鉄格子の中だった。……写真では見ていたが、実物は母親の菫さんにそっくりだ。特に、その生意気そうな目がね。姉の翡翠よりも、君の方が『如月』の血を濃く引いているようだ」
「……誰かと思えば」
如月さんは、床に座ったまま、一切怯むことなく彼を睨み返した。
その声には、微塵の恐怖も混じっていない。あるのは、純粋な軽蔑のみだ。
「家系図から名前を消された犯罪者が、何の用じゃ。……十九年の監獄暮らしで、自分の立場も忘れてしまったのか? 透」
呼び捨て。
しかも、汚物を呼ぶかのような声音だ。
僕は肝を冷やした。相手は誘拐犯だぞ? 殺されるかもしれないのに、なんでさらに煽るんだ!
だが、如月さんは顎を上げ、さらに言葉を続けた。
「その顔の深いシワ……随分と老け込んだものじゃな。敗北者の哀愁が、顔面に年輪のように刻まれておるぞ」
「……ハハハ! 言うねぇ」
透は怒るどころか、声を上げて笑った。だが、その目は全く笑っていない。
「さすがは彰の娘だ。教育が行き届いている。……だが、その減らず口もいつまで続くかな」
透の笑い声が止むと、今度は後ろに控えていた香澄が一歩前に出た。
彼女は、愛おしそうに透の背中に手を置き、枯れ木のような指で如月さんを指差した。
「透、無駄話はそのくらいにおし。……この小娘は、所詮は『代用品』よ。二十年前に逃した翡翠の代わりの、ね。生意気な口を利けるのも今のうちだけさ」
代用品。
その言葉に、如月さんの眉がピクリと動いた。
「どういう意味じゃ」
「そのままの意味だよ」
透がしゃがみ込み、如月さんの顎を乱暴に掴んだ。
黒い革手袋が、彼女の白い肌に食い込む。僕は叫びそうになったが、透の背後にいる大男たち——護衛らしき男たちが銃に手をかけているのを見て、息を呑んだ。
僕が動けば、即座に撃たれる。
「二十年前、俺たちは失敗した。……詰めが甘かった。だが、今回は違う。十九年かけて計画を練り直し、この一年の潜伏期間で完璧な準備を整えた」
彼は如月さんの顔を左右に振らせ、品定めをするように眺めた。
「瑠璃ちゃん。君は賢いそうだね。なら、自分の価値も理解しているはずだ。……君は、如月コンツェルンという巨大な金庫を開けるための『生体鍵』だ」
「……身代金目的か? 今更?」
「金? そんな端金で俺たちの十九年が贖えるものか」
透の目が、瞬時に氷のような冷徹さを帯びた。
そこにあるのは、金銭欲などという生易しいものではなく、もっと根深く、ドロドロとした執着だった。
「俺たちが欲しいのは『すべて』だ。如月の資産、権利、そして名誉。……彰から全てを剥奪し、俺が正当な後継者として返り咲く。そのために、君には人質として、そして彰を精神的に殺すための最高の人形として働いてもらう」
透は指を離し、立ち上がった。
彼は懐から一枚の写真を取り出し、如月さんの目の前に放り投げた。
それは、拘束された僕たちの写真だった。ついさっき撮られたものだ。
「これを今、彰に送った。……『返して欲しければ、一週間後の株主総会ですべての権利を譲渡すると発表しろ』とな」
「……父が、そんな脅しに屈するとでも?」
如月さんは、透を鼻で笑った。
「見くびるなよ、三流。如月の当主が、私情で会社を売ると思うてか」
「屈するさ。彼は二度も娘を失うことに耐えられない。……特に、二十年前に翡翠を守れなかったトラウマがある彼なら、な」
透は勝ち誇ったように笑い、ゴミを見るような目で僕——サクタロウを一瞥した。
「そっちの男は……まあ、いい。殺す手間も惜しい。せいぜい、孤独な姪っ子の話し相手にでもなってやれ。……もっとも、明日の朝まで生きていればの話だが」
彼らは背を向け、出口へと向かった。
去り際に、香澄が振り返り、不気味に笑った。
「楽しみにしてなさい。……今夜、本番の『ショー』を始めるわ。彰も菫も、きっと喜んで駆けつけてくれるはずよ」
ガチャン。
重い鉄扉が閉ざされ、再び鍵がかけられた。
部屋には、僕と如月さん、そしてパチパチと燃える暖炉の音だけが残された。
僕は震えが止まらなかった。
透の目。あの目は、本気だ。
彼は狂っているのではない。あまりにも正気に、あまりにも論理的に、十九年分の復讐を実行しようとしているのだ。
「おい……サクタロウ」
静かな声だった。
僕はビクリとして顔を上げた。
如月さんは、膝を抱えることも、視線を逸らすこともなく、ただ真っ直ぐに鉄の扉を睨みつけていた。
その背筋はピンと伸び、女王のプライドは傷一つついていなかった。
「お主、震えておるぞ」
「は、はい……すみません。怖くて……」
「情けない奴じゃ。……わしの助手なら、あの程度の雑音に怯えるな」
彼女はフンと鼻を鳴らし、僕を見た。
「人形になどなるものか。……奴らは如月を見くびっておる。父も、そしてこのわしもな」
彼女の瞳には、恐怖ではなく、燃えるような怒りの炎が宿っていた。
この状況下でも、彼女は折れていない。むしろ、逆境を楽しんでいるかのようにすら見えた。
ここは北の監獄。
ショーの幕は上がってしまった。
だが、主役である彼女が降りない限り、この劇は終わらない。




