プロローグ:地上四十八階と、宙に浮く足跡
月見坂市の中心に突き刺さるように聳え立つ、地上五十階建ての摩天楼。
如月コンツェルン本社ビル。
その威容は、この街における『如月』という名の絶対的な支配力を具現化した墓標のようでもあり、あるいは天に向かって伸びる巨大なバベルの塔のようでもあった。
その地上四十八階。
選ばれた重役と、如月家の人間のみが入室を許される『社員専用ラウンジ』は、耳が痛くなるほどの静寂と、徹底的に管理された空調の微風に満たされていた。
床には足音を完全に吸い込む最高級の絨毯が敷き詰められ、壁には抽象的な現代アートが飾られている。空気中には微塵の埃も舞っておらず、まるで真空パックされた宇宙船の船内のような、生活感の欠片もない無機質な空間。
如月瑠璃は、その広大なラウンジの窓際にある革張りのソファに、退屈そうに身を預けていた。
「遅い」
ぽつりと漏らした独り言は、誰の耳にも届くことなく、冷たい空気に溶けて消えた。
彼女は今日、母である如月菫に呼び出され、学校帰りにこの本社ビルを訪れていた。用件は『今後の進路と、夏休みの公務についての確認』だというが、予定の時刻を十分過ぎても、母は現れない。
多忙を極める如月財閥の重鎮にとって、十分や二十分の遅刻など誤差の範囲なのだろうが、待たされる側の瑠璃にとっては、この『無菌室』のような空間に拘束されること自体が、耐え難い苦痛だった。
瑠璃は小さくため息をつき、視線を横に向けた。
そこには、床から天井までを一面の強化ガラスで覆われた、巨大な窓が広がっている。
地上二百メートル。
眼下には、ミニチュア模型のように小さくなった月見坂市の街並みが広がっていた。旧市街の雑然とした路地も、新市街の整然としたビル群も、ここから見ればすべてが等しく平坦な『図面』に過ぎない。
空は低く垂れ込めた冬の雲に覆われ、どんよりとした灰色が、この無機質なラウンジの閉塞感をさらに強めていた。
(つまらん景色じゃ)
彼女は、街を見下ろすことに何の感慨も抱かなかった。
支配者の視点など、彼女にとっては生まれた時から与えられた既定路線であり、そこに新鮮な驚きも、征服欲も存在しない。
ただ、ガラスの向こう側で吹いているであろう上空の強風が、雲を千切って流していく様を、ぼんやりと目で追っていた。
その時だった。
彼女の紫の瞳が、ふと、ガラスの表面にある『一点の染み』を捉えた。
「…ん?」
それは、完璧に磨き上げられた強化ガラスのキャンバスにおいて、あまりにも異質な存在だった。
瑠璃はソファから身を起こし、吸い寄せられるように窓ガラスへと近づいた。
自分の顔が映り込むほどの至近距離で、彼女はその『染み』を凝視する。
——足跡のように見えた。
それも、泥にまみれた、右足だけの靴跡。
サイズは二十七センチから二十八センチほど。無骨なブーツのような形状をしており、ガラスの表面にべっとりと、赤茶色の乾いた泥をこすりつけるようにして残されている。
だが、問題はその『位置』だ。
この足跡は、ラウンジの内側——つまり室内側についているのではない。
厚さ数センチの防弾強化ガラスを隔てた向こう側。
地上二百メートル、強風が吹き荒れる断崖絶壁の、何の手がかりもない垂直なガラスの壁面に、その足跡は付着していたのだ。
「ほう」
瑠璃の口から、冷ややかな感嘆の声が漏れた。
彼女はすぐさま思考のスイッチを切り替え、鑑定士としての冷徹な眼差しで、そのありえない不純物を解体し始めた。
物理的な矛盾。
まず、この如月コンツェルン本社ビルの窓清掃は、すべて最新鋭の自律型ドローンによって行われている。前時代的な『人間が乗るゴンドラ』など、このビルには一機も設置されていないし、そもそも屋上からロープを垂らして作業できるような構造ではない。
さらに、ここは地上四十八階。常に秒速十メートル以上のビル風が吹き荒れる過酷な環境だ。
生身の人間が、何らかの装備を使って外壁をよじ登り、このツルツルのガラス面に片足をつく?
不可能だ。物理法則と重力がそれを許さない。
(ドローンの誤作動か? いや、清掃ドローンの脚部は特殊なゴム製じゃ。こんな人間の靴底のようなパターンはしておらん。鳥の衝突? 否。鳥が泥靴を履いて飛ぶわけがない)
ならば、答えは一つしかない。
誰かが、何らかの『意図』と『トリック』を持って、この足跡をここにつけたのだ。
例えば、特殊な吸着装置を使ったドローンに靴を履かせて押し付けたか、あるいは長いアームのような重機を旋回させてスタンプのように押印したか。
金と技術、そしてこのビルのセキュリティホールを熟知していれば、物理的に不可能ではない。
だが。
瑠璃が微かに眉をひそめたのは、その『方法』に対してではなかった。
(なぜじゃ?)
彼女の胸の奥に、ざらりとした不快な感触が広がっていく。
なぜ、わざわざこんな高所に、たった一つの泥の足跡を残したのか。
窓を割るわけでもなく、侵入するわけでもなく、ただ汚すだけ。
そこには、合理的な利益も、明確なメッセージ性も見当たらない。あるのはただ、完璧な美貌を持つ本社ビルの顔に、唾を吐きかけるような、陰湿で粘着質な『悪意』のみ。
ルーツが見えない。
誰が、何のために、こんなにも手間のかかる無意味な行為をしたのか。
その『目的の欠落』が、瑠璃にはひどく気持ち悪かった。
まるで、理路整然とした数式の中に、一つだけ意味不明な落書きが混ざり込んでいるような、生理的な嫌悪感。
「不純物じゃな」
瑠璃は、ガラスの向こうの足跡を、汚物を見るような目で見据えた。
その赤茶色の泥は、灰色の空を背景にして、まるで空中に浮いているかのように見えた。
それは、あたかも透明な階段を登ってきた亡霊が、ここを通り過ぎていった痕跡のようにも見え——。
「——お待たせ、瑠璃」
背後から、凛とした女性の声が響いた。
ラウンジの自動ドアが開き、母である如月菫が、数名の秘書を引き連れて足早に入ってくるのがガラスの反射で見えた。
「遅いぞ、母よ。わしの時間は有限じゃ」
瑠璃は、窓の外の不快な足跡から視線を外し、ゆっくりと振り返った。
その表情は、いつもの不遜で退屈な令嬢のものに戻っていたが、彼女の紫の瞳の奥には、消えることのない微かな警戒の炎が燻り続けていた。
この時の彼女はまだ知らない。
その宙に浮く泥の足跡が、かつて如月家が葬り去ったはずの『過去からの亡霊』による、第一歩であることを。
そして、その一歩がやがて、彼女自身を成層圏から地獄の底へと引きずり込む、悪夢の始まりであることを。




