最終話:静かな旋律(ユメリア)
禁書が開く音は、しなかった。
封印が解けるとき、雷鳴や光が走る――
そんな劇的なことは、何一つ起きなかった。
ただ、空気が少しだけ軽くなった。
最奥区画の机の上で、
『雨のあと、光のまえに』は、ゆっくりと表紙を緩めている。
私は深呼吸した。
怖さはある。
でも、もう逃げたいとは思わなかった。
「……開くよ」
セリスは、すぐ隣にいる。
触れない距離。
でも、同じ高さで。
私は、指先でページをめくった。
紙は古い。
文字は少ない。
詠唱も、歌も、旋律も――どこにも書かれていない。
あるのは、短い一文だけ。
――音は、鳴らさなくてもいい。
間が、届けばそれでいい。
胸の奥で、何かがほどけた。
前世で、私は「音を鳴らさなければ価値がない」と思い込んでいた。
評価されるには、響かせなければならない。
聞こえなければ、存在しない。
でも、この禁書は違う。
音にならなかった想い。
鳴らせなかった旋律。
それでも確かに存在した“間”。
それが、ここに書かれている。
「……これ、魔法じゃない」
私が言うと、セリスは頷いた。
「魔法になる“前”のものだな」
私は目を閉じた。
前世で、最後まで書けなかった旋律を思い出す。
うまく鳴らせなかった音。
評価されなかった余白。
それでも、好きだった。
私は机の上に紙を広げた。
五線譜は引かない。
音符も書かない。
代わりに、言葉を書いた。
短く、静かに。
雨が止んだあと、
誰も気づかない光が、確かにそこにある。
その瞬間。
禁書庫の空気が、わずかに揺れた。
音はない。
光も強くない。
でも、胸の奥で、確かな“完成”を感じた。
「……終わった?」
セリスが聞く。
私は、少し考えてから答えた。
「ううん。
やっと、始まった」
身体が、軽い。
耳鳴りはない。
胸の痛みもない。
私は気づいた。
――今日は、うさぎにならなかった。
音があったのに。
禁書が動いたのに。
それでも、逃げなかった。
セリスは、私を見て言った。
「……もう、獣にならなくても大丈夫そうだな」
私は、小さく笑った。
「完全じゃないよ。
また怖くなる日もあると思う」
それでも。
「でも、今は……生きられる」
彼は、静かに息を吐いた。
それは、安堵だった。
禁書は、ただの本になった。
力は失われた。
でも、問いは残った。
私はその問いを、胸に抱いたまま立ち上がる。
「……セリス」
呼ぶと、彼はすぐに答えた。
「どうした」
「これからも、隣にいてくれる?」
恋人になる、という言い方はしなかった。
約束、という言葉も使わなかった。
ただ、選択として。
セリスは、ほんの少し考えてから言った。
「お前が選ぶ限り」
それで、十分だった。
禁書庫を出ると、王都は静かだった。
祝祭の余韻は消え、
人々はそれぞれの生活に戻っている。
遠くで鐘が鳴った。
私は、耳を塞がなかった。
音は、まだ少し怖い。
でも、もう刃じゃない。
セリスの歩幅に合わせて、私は歩く。
音が魔法の世界で、
私は音を鳴らさない生き方を選んだ。
それでも、確かに――
胸の奥で、
静かな旋律が、鳴っている。
後書き
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は「鳴らせなかった音」や「言えなかった言葉」が、
それでも確かに存在している、という想いから生まれました。
もしあなたの中にも、
まだ鳴らしていない旋律があるなら。
それは、きっと“間”の中で、生きています。
どうか、急がずに。
静かに、大切に。




