第5話:祝祭の日、音が溢れる(ユメリア)
王都は、祝祭の朝から違っていた。
窓の外が、ざわついている。
遠くで鐘が鳴り、人の声が重なり、通りを歩く足音が増えていく。
私は布越しに、その気配を感じていた。
――来てしまった。
祝祭。
音の魔法を讃える日。
この国で、いちばん音が溢れる日。
禁書庫の壁は厚い。
でも、完全ではない。
「……今日は、外に出なくていい」
セリスが言う。
いつもより低く、短い声。
私は頷いた。
分かっている。
外に出れば、私は死ぬか、獣に逃げる。
それでも、胸の奥がざわついていた。
逃げたい気持ちじゃない。
“置いていかれる”感覚だ。
祝祭は、生きている人のためのもの。
音を楽しめる人のためのもの。
私は、最奥区画の机に手を置いた。
例の禁書は、いつもより強く温かい。
(……聞こえてる?)
まるで、本が祝祭を知っているみたいだった。
「ユメリア」
セリスが、私の名前を呼ぶ。
振り向くと、彼はいつもより少しだけ近い距離にいた。
「……もし、限界が来たら」
彼は一瞬、言葉を探した。
「無理に耐えるな。
うさぎになってもいい。
戻れなくなっても……俺が運ぶ」
運ぶ。
その言葉に、胸が締めつけられた。
私は、逃げる自分が嫌だった。
でも、逃げ場を用意してくれる人がいることは――
こんなにも、心を弱くしてしまう。
「……ありがとう」
そのときだった。
外で、大きな音が弾けた。
詠唱の合図。
祝祭の開幕。
鐘が鳴る。
歌が始まる。
魔法が空を走る。
壁の向こうから、音が押し寄せてきた。
胸が、ぎゅっと縮む。
鼓動が速くなる。
(まだ……大丈夫)
私は、机の縁を握った。
指先が白くなる。
音は刃だ。
でも、ここは禁書庫。
まだ、耐えられる。
――そのはずだった。
最奥区画の扉が、わずかに震えた。
封印文字が、淡く光る。
「……まずい」
セリスが息を呑む。
「祝祭の音が、禁書に共鳴してる」
共鳴。
音が、音を呼ぶ。
禁書は“未完の想い”に反応する。
なら、祝祭の高揚は――
その想いを一気に揺さぶる。
頭が、ぐらりと揺れた。
視界が、白く滲む。
(……来る)
私は、声を出そうとした。
セリスを呼ぼうとした。
でも、喉が鳴らない。
次の瞬間、身体が軽くなった。
床が遠い。
視線が低い。
白い毛。
小さな足。
――また、うさぎだ。
でも今回は、違う。
音が、遠くならない。
祝祭の音が、壁を越えて、
骨を震わせ、心臓を叩き続ける。
(だめ……このままじゃ……)
意識が薄れる。
そのとき、床に影が落ちた。
「……ユメリア」
セリスの声。
彼は、迷わず私を抱き上げた。
鎧越しの体温。
安定した呼吸。
音が、少しだけ遠のいた。
「大丈夫だ。
俺の声だけ、聞いていろ」
彼は歩き出す。
最奥から、さらに奥へ。
誰も使わない、封印室の前。
扉を開ける音すら、彼は最小限にした。
中は、完全な静寂だった。
音が、ほとんどない。
私は、震えながら彼の胸にしがみついた。
(……助かった)
でも、分かっていた。
これは一時しのぎだ。
祝祭は、まだ終わらない。
封印室の中で、セリスは私を床に下ろし、
自分は扉の前に立った。
「……ここで、終わらせる」
何を、とは聞かなかった。
彼は、剣を抜かなかった。
代わりに、ゆっくりと息を整える。
「俺は欠落者だ。
音魔法は使えない」
静かな声。
「でも……音にならない“間”なら、作れる」
彼は、祝祭の音が流れ込む“隙間”に、
自分の存在を差し込んだ。
立つ。
動かない。
呼吸を合わせる。
魔法じゃない。
技でもない。
ただ、人がそこにいるだけ。
それなのに。
封印室の空気が、変わった。
祝祭の音が、壁の向こうで“滑る”。
共鳴が、途切れる。
禁書の震えが、止まった。
私は、はっと息を吸った。
世界が、戻ってくる。
白い毛が、消える。
手足が、伸びる。
私は、人の姿に戻っていた。
床に座り込み、肩で息をする。
生きている。
セリスが、振り返った。
その表情は、少し疲れていたけれど、
どこか安堵していた。
「……間に合ったな」
私は、声が出るまで少し時間がかかった。
「……どうして……」
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「祝祭は、音が主役だ。
だから……主役じゃないものが必要だった」
欠落者。
音を持たない騎士。
彼だからできた。
胸の奥が、熱くなる。
「……ありがとう」
私は、そう言うしかなかった。
でも、その言葉は足りなかった。
祝祭の音は、まだ遠くで鳴っている。
でも、もう怖くない。
私の世界には、
音にならない“支え”ができたから。
(逃げるだけじゃない。
向き合うだけでもない。
一緒に、耐えるという選択がある)




