第3話:禁書庫最奥、雨のあとに(ユメリア)
目を覚ましたとき、私はまだ白いうさぎだった。
毛布の感触が、やさしい。
鼻先に、紙とインクの匂いがある。
禁書庫だ。
――生きてる。
その事実を理解した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
死ななかった。
音に削られきらず、ちゃんと朝を迎えられた。
私は小さく息を吐く。
うさぎの身体は、呼吸まで静かだ。
視線を上げると、石の天井が見えた。
天井が高い。
音が反響しにくい構造。
……ここは。
(最奥区画)
昨日、騎士――セリスが言っていた場所だ。
禁書庫でいちばん静かで、いちばん危険な場所。
危険、という言葉が遅れて胸に落ちてきた。
――私は、そんな場所に運ばれたの?
不安で身体が震えかけた、そのとき。
「……起きたか」
声がした。
反射的に、耳がぴくりと動く。
でも、刺さらない。
命が削れない。
私はゆっくり振り向いた。
セリスが、少し離れたところに立っていた。
剣は外し、代わりに分厚い手袋をしている。
こちらに近づきすぎない距離。
……配慮だ。
(この人、本当に……)
言葉がない分、感情がそのまま胸に流れ込んでくる。
「無理に戻らなくていい。今は、うさぎのままで」
その言葉に、私はほっとした。
人の姿に戻ることが、少し怖かったから。
音。
声。
視線。
人間の身体は、世界に近すぎる。
私は、うさぎのまま、彼を見上げた。
セリスはしゃがみ込み、床に視線を落としたまま話す。
「……ここは禁書庫の最奥だ。
封印された書しかない。詠唱は禁止。
騒げば、俺でも止められない」
それは忠告であり、同時に――
守るという宣言でもあった。
「司書長には話を通した。
しばらく、君はここで過ごす」
“君”。
その呼び方が、胸に残った。
うさぎの私にも、人としての位置をくれている。
私は、少しだけ前に出た。
毛布の端を越える。
セリスは動かない。
近づかせる。
でも、触れない。
選ばせてくれている。
私は勇気を振り絞って、彼の靴の先まで進んだ。
(……ありがとう)
声は出ない。
でも、この距離なら、きっと伝わる。
そのときだった。
最奥区画の奥、
巨大な封印棚の一角が――淡く光った。
(……?)
セリスが顔を上げる。
「今の……」
私はそちらを見た。
棚の中央。
一冊の本だけが、わずかに震えている。
音はない。
でも、“反応”だけがある。
禁書は、音に反応する。
詠唱、歌、祈り。
――なのに。
(私、何もしてない)
ただ、ここにいるだけ。
白いうさぎの私が、
静かに息をしているだけで。
セリスが立ち上がり、慎重に棚へ近づいた。
封印文字を確認する。
「……おかしい。
この本は、音詠系じゃない。
反応するはずがない」
彼は一瞬だけ迷ってから、俺を見る――いや、私を見る。
「……近づいてもいいか」
私は頷く代わりに、一歩前に出た。
セリスは、その動きを見てから棚の前に立ち、
布越しに本を引き出した。
分厚い革装丁。
古い。
けれど、どこか懐かしい。
表紙に、掠れた文字が刻まれている。
――『雨のあと、光のまえに』
その瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた。
前世の記憶。
書けなかった旋律。
誰にも聴かせられなかった音。
(……それ、私の)
思考が、身体を追い越した。
視界が白く滲み、
次の瞬間――
「……っ」
声が出た。
私は、人の姿に戻っていた。
床に膝をつき、息を荒くする。
耳鳴り。
でも、致命的じゃない。
セリスが、すぐに距離を詰めた。
でも、触れない。
触れないけど、逃がさない。
「ユメリア。聞こえるか」
私は、ゆっくり頷いた。
「……だいじょうぶ。まだ……生きてる」
声が、少し震えた。
それでも、ちゃんと出た。
セリスは安堵の息を吐き、
例の本を、私の視界に入る位置に置いた。
「この本に、反応した。
……心当たりは?」
私は、しばらく黙った。
言葉にするのが、怖かった。
でも、言わなければならない気がした。
「……前世で。
同じ題の曲を、書こうとしてた」
声が、小さい。
でも、止まらなかった。
「音が怖くなる前。
誰にも聴かせられなかった旋律。
完成する前に……壊れた」
禁書庫は静かだった。
音がないからこそ、言葉が落ちる。
セリスは、ゆっくりと本に視線を戻した。
「……つまり」
彼は、言葉を選びながら続ける。
「この禁書は、音ではなく
“記憶”に反応した?」
私は、はっとした。
音じゃない。
魔法でもない。
――記憶。
――未完の想い。
「……私、かもしれない」
そう言った瞬間、
怖さより先に、不思議な確信が来た。
私は、この世界に
偶然、転生したわけじゃない。
音に殺されかけた私が、
音が魔法の世界に来た理由が――
ここに、ある。
セリスは私を見た。
その目は、騎士のものじゃなかった。
欠落者の目でもない。
ただ、一人の人が、
隣に立つ誰かを見つめる目だった。
「……なら」
彼は静かに言った。
「その答えが出るまで、俺はそばにいる」
約束じゃない。
誓いでもない。
でも、逃げ道のない言葉だった。
私は小さく笑った。
音にならない笑い。
禁書庫最奥で、
静かに、物語が“動き出した”のを感じた。
(音じゃない。
言葉でもない。
それでも、確かに――これは、旋律だ)




