第2話:欠落者の騎士は、音を知らない(セリス)
禁書庫は、王都の裏側にある。
王城の華やかな塔から少し離れた、石造りの低い建物。
窓は小さく、扉は重い。
外から見ればただの倉庫みたいで、観光客も近づかない。
でも、この国で本当に怖いものを知っている人間は、禁書庫を「城」だと思っている。
ここには禁じられた詠唱が眠っている。
聞いただけで心を壊す歌。
うっかり声に出せば、街ひとつ焼けるほどの音魔法。
だから――禁書庫は、静かでなければならない。
静かであることが、封印そのものなのだ。
その禁書庫に、俺は配置されている。
騎士団のセリス。
ただし、騎士としては半端者。
俺は――欠落者だ。
生まれつき、音魔法を感知できない。
この国の魔法は、音で編まれる。
詠唱の一音の狂いで火は暴れ、癒しは毒になり、結界は穴を開ける。
普通の騎士は、耳でそれを判断する。
詠唱が正しいか、間が合っているか、結界が鳴っているか。
だが俺には、それが分からない。
剣は振れる。
槍も扱える。
身体能力だって並より少し上だ。
それでも、音の世界では「致命的に役に立たない」。
戦場で俺が守れるのは、目の前の一人だ。
見えない魔法の波からは守れない。
味方の詠唱が崩れた瞬間も、俺だけが気づけない。
――その事実は、優しい人間ほど残酷に扱う。
「君は悪くない。ただ、向いていない」
騎士団長はそう言って、笑った。
その笑いは剣より痛かった。
だから俺は、禁書庫に回された。
表向きは「護衛」。
実際は、都合のいい隔離だ。
禁書庫なら、音魔法の中心から遠い。
欠落者でも問題が起きにくい。
それに、禁書庫は静かだ。
静けさだけは、俺を裏切らなかった。
――そんな俺の禁書庫に、今日は騒ぎがあった。
「新しい司書見習いが倒れた」
「呪いが反応した」
「白うさぎになったらしい」
最初は、笑い話かと思った。
禁書庫には奇妙な逸話が多い。
本が勝手に開く。
封印符が夜に光る。
精霊が通る。
だが「呪い」と聞いた瞬間、俺の背筋は冷えた。
呪いは、音魔法と同じだ。
見えないのに、確実に人を壊す。
それが「音を聞くたび命が削れる」類なら――
この世界では、ほとんど死刑宣告に等しい。
俺は禁書庫の廊下を歩き、静養室の前で立ち止まった。
扉の向こうは、音が薄い。
厚布が掛けられ、窓は閉じられている。
それでも、扉の内側には「怖さ」が詰まっているのが分かった。
俺はノックを、最小限の力で叩いた。
返事はない。
もう一度。
今度は声も添える。
「……騎士団のセリスだ。禁書庫の護衛。入っていいか」
わずかな間。
布が擦れる気配。
そして、扉が少し開いた。
覗いたのは――白い影だった。
白うさぎ。
信じられないほど小さな身体。
なのに目だけが、剣を向けられた兵士みたいに警戒していた。
「……」
鳴き声は出ない。
ただ震えている。
俺は、膝をついた。
相手が人だろうと獣だろうと、視線の高さを合わせるのは礼儀だ。
それに、上から見下ろすのは嫌だった。
俺はずっと、見下ろされて生きてきたから。
「大丈夫だ。ここでは無理に音を出さなくていい」
その瞬間、うさぎの耳がぴくりと動いた。
――声が届いたのが分かった。
刺さっていない。
拒絶されていない。
この反応は、単に俺の声が優しいからではない。
もっと根っこの理由がある。
欠落者の俺の声は、魔法にならない。
普通の人間の声には、無意識に魔力が混じる。
詠唱でなくても、怒声や泣き声が魔法を揺らすことがある。
だが俺の声は、ただの音。
空気の振動。
この国にとっての“異物”。
だからこそ、呪いに触れにくいのだろう。
うさぎの向こうで、金髪の女性が慌てて説明した。
「セリス、よかった……! この子、ユメリアなの。呪いの発作で……」
ユメリア。
見習い司書。
禁書庫の階段から落ちたと聞いた。
俺は目を細めた。
「詠唱の練習をしていた?」
女性は顔を曇らせた。
「……そう言っていた。でも、本当は違うかもしれない。ユメリアは、詠唱を嫌がってた。怖がってた。なのに……」
なのに、禁書庫で倒れた。
禁書庫で詠唱をする理由は一つだけだ。
――音を抑えたかった。
つまり彼女は、王都の音から逃げるために、ここに来た。
そしてここでさえ、音に殺されかけた。
白うさぎのユメリアが、俺を見上げている。
その目には、言葉があった。
(生きたい)
ただ、それだけが詰まっていた。
俺はゆっくり立ち上がり、扉を少しだけ閉めた。
外の廊下の音をさらに減らすためだ。
「……司書長には、俺から話す。しばらくは禁書庫の最奥を使え」
女性が驚く。
「最奥は封印区画よ? 騎士でも許可が――」
「俺がついている」
俺は自分でも驚くほど、迷いなく言った。
最奥は、最も静かな場所だ。
同時に、最も危険な本が集まる場所。
そこに置くということは、禁書庫の中での「特別扱い」だ。
誰かが反対するだろう。
嫉妬も起きる。
でも、彼女は――音を聞くと命が削れる。
生きるための静けさが必要だ。
それに。
欠落者の俺が、初めて「役に立てる」場所でもある。
俺の声は魔法にならない。
俺の存在は呪いを刺激しにくい。
俺は音の世界の外側にいる。
だからこそ、音に殺される彼女の“盾”になれる。
白うさぎのユメリアが、少しだけ震えを止めた。
俺が何を言ったかは分からなくても、空気が変わったのを感じたのだろう。
俺は小さく息を吐く。
「……安心しろ」
言葉は短く、静かに。
「ここでは、誰もお前を急かさない。
音も、魔法も、祝祭も――全部、外に置いていい」
その瞬間。
白うさぎが、ほんの少しだけ前に出た。
一歩。
俺の足元へ。
怖いのに、近づいた。
それは信頼というより、もっと切実なものだった。
――生存。
その生存を、俺は守りたいと思った。
そして、もっと恐ろしいことにも気づく。
守りたいと思った瞬間、
それは任務ではなくなる。
欠落者の俺にとって、誰かの隣は危険だ。
いずれ必ず、音の世界が彼女を奪う。
そう分かっているのに。
白うさぎの目が、俺に訴える。
(あなたの声なら、聞ける)
その事実が、胸の奥を熱くした。
俺は答えを言葉にしなかった。
代わりに、ゆっくりと手を差し出した。
触れない距離で、止める。
選ぶのは彼女だ。
白うさぎは迷って、迷って――
それから、そっと鼻先を俺の指に寄せた。
温かい。
小さく震えている。
俺は思った。
音を知らない俺が、
初めて“誰かの旋律”に触れた気がした。
(欠落者の俺が、やっと「ここにいていい」と思えた。――彼女の静けさのせいだ)




