君がいない世界
あの日、あたしの世界は壊れた。
突然の出来事に。
奪われた、ただ一人の家族と自由。
それがどうしようもない事故であったなら、諦めもついたのに、それは故意の出来事で。
病院のベッドで目を覚ましたあたしは世界の崩壊を告げられる。
悪意をもって吹き込まれた毒をあたしは飲んで、彼を罵り憎んだ。
……彼が本当に悪いわけじゃないことなんて分かってる。
分かってるけれど、他にどうしようもなかった。
たった一人残され、誰かの手を借りてやっと日常生活が送れる。
そんな身体になったあたしが八つ当たり出来るのは、こんな境遇になる原因となった彼しかいなかったのよ。
全ての保証を申し出た彼を、下僕のように扱いながら、
どんなに我儘を言っても、理不尽な言葉を投げつけても、微笑む彼しか。
「彼を解放してちょうだい? 貴女には不自由がないよう、私が責任持って、手配するから」
ある日、悲壮な顔で、彼の恋人だとかいう女があたしの前に現れた。
車椅子のあたしは書斎で本を読んでいた。一人きりだった。
彼女は屋敷の使用人に金を掴ませて、入り込んだらしい。
お願いよ、と土下座までしそうなその大人の綺麗な女に、苛立ちがつのる。
「…いいですよ。
……なんてあたしが言うと思ったんですか?
お兄ちゃんを殺しておいて、
あたしをこんなにしておいて、
あいつが幸せになるなんてこと許さない。
一生、幸せになんてさせてやらない……!」
このいつまでたっても薄れない、憎しみは何処から来るんだろう。
こんなあたしをお兄ちゃんはけして喜ばない。
自分から不幸になって、誰かを不幸にするあたしを、悲しく思うはず。
だけど、彼があたしと話すため膝をつくたび、どんなに罵倒しても微笑むたび、あたしの胸の奥、溜まっていくものがあって。
どんどんあたしをイヤな子にする―――……
「……どうして、」
冥い目をした女が、持っていたバッグから光るものを取り出した。
どうしてあの時死んでしまわなかったの、と虚ろに呟いて、あたしにそれを向けた。
そうね、あたしもそう思う。
だったら、こんな気持ちも知らず、
お兄ちゃんに、ごめんなさいと言い続けながら、
生きていかなくても済んだのに。
……でも、
もう楽にしてくれるんでしょう?
さあ早く。
彼をあたしから解放して。
あたしを彼から解放して――――………、
「っ……お怪我は、ありませんか」
温かいものに包まれて、あたしは思っていた衝撃が訪れなかったことに一瞬茫然とした。
彼に抱きしめられている。
女は警備員に取り押さえられ、どうして、と叫び続けていて。
あたしに降り下ろされる筈だったナイフは、転がって床の上に―――、
「………!」
「? ああ、大丈夫です。かすっただけですから――すみません、私のせいでまた貴女に傷を付けるところだった……」
青ざめたあたしの頬をそっと撫でる、右手。
左腕から血を流しているのは自分なのに。
「…っかじゃないの…!」
ドン、と拳で彼の胸を叩く。
あたしから解放されるチャンスだったのに。
どうして庇ったりするの。
どうして、恋人だった人よりあたしの方を、愛しそうな瞳で見るの。
やめて、
これ以上貴方のこと―――
「こんな傷大丈夫ですよ。慣れていますから」
……本当に、何でもないことのように笑って言うのに、あたしの何かが切れた。
くだらない争いで命を狙われているひと。
何度も危ない目に遭っているひと。
未だ、危険に曝されているひと。
巻き込まれたお兄ちゃんみたいに、いつ死んでもおかしくないひと……、
「――――…っ!!」
衝動のまま、手近にあったクッションを投げつける。
近くにあるものは、全部、彼に向かって投げてやった。
戸惑いながら、止めようとせず、不思議そうにあたしの癇癪を受け止めて。
初めて会った、あの日みたいに。
投げるものがなくなって、爆発しそうな胸の苦しさを誤魔化せなくなって、ボロボロ泣き出したあたしに、そっと近寄ってくる。
恐る恐る、伸ばされた手にかじりついてその胸に顔を押し付けた。
――お兄ちゃん、ごめんなさい。
あたし、あたしはいつの間にかこのひとを――、
もう、ダメなの。
考えられないの。
貴方のいない世界。
貴方を無くせば、今度こそあたし、なにもかも無くなってしまう。
「馬鹿っ…、アンタが怪我なんかしたら、あたしの髪、誰が洗うのよ……!」
「ああ…そうですね、すみません」
いつも通り悪態をつくあたしにクスリと苦笑する気配。
一生憎んで、
一生許さない、
一生責め続けるから、
お願い、罪滅ぼしでもいい、
……傍にいて。
それがどんなに間違っていることだとしても。
あなたのいない世界に、
あたしをひとり、置き去りにしないで―――………