表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ヌルすべ温泉へ、いらっしゃい

作者: *桜花(怪談)*

ある日、突然、親友が死んだ。


この間、二人で温泉旅行をしたばかり。

帰って間もないのに、わざわざ一人で再びそこへ向かい、地上100m以上もある橋から身を投げたという。


なぜ?

毎日、充実していると言っていたのに。

笑顔で、将来の夢を語っていたのに。



その橋は、自殺の名所として知られている。

しかし、私たちが泊まった宿からは遠く離れており、親友も、その橋には興味がなさそうだった。


親友がなぜ死を選んだのか、私にはわからない。

葬儀に参列していた人々も、理由がわからないようだった。



葬儀で、親友と一番近しい関係だったという同僚と話をした。


「彼女、何か悩みとか、あったのでしょうか。私には、心当たりがなくて……」



同僚は、ハンカチで目頭を押さえながら、答えた。


「仕事も順調でしたし、毎日充実している様子でした。私も、見当もつきません……」



彼女には、死ぬ理由などなかった。

それがなぜ、たった一度行っただけの温泉地で、一人で……。



「……そういえば、最近、温泉に行ってきたと、嬉しそうに話していました。それから代謝が良くなったのか、やたらと汗をかくって言ってました。冷房をつけていても、汗がヌルヌルして気持ち悪いって……」



……汗?


確かに、夏だから暑いけど、ヌルヌルするほど汗をかくことなんて、私にはない。


体質の問題?


彼女とは高校からの付き合いだけど、一度もそんなことを聞いたことがない。



……そういえば、宿の人が、こんなことを言っていた。


「この宿ん中の風呂はえぇけども、裏にある湧き出る湯には、決して触れちゃいけねぇよ?ヌルがつくからな?柵はあるし蓋もしとるけども、触れるかもしれねぇから、近付いてもいけねぇよ?」



ヌルが付く?


「ヌルつく」の方言かと思ったけれど。

親友の汗と、何か関係があるのだろうか。



*******



次の休日、私は一人、宿に向かった。


「こんにちは。先日、お伺いした者ですけど……」



「あぁ、いらっしゃい。今日は一人かい?」


気さくそうな宿のご主人が、笑顔で迎えてくれた。



「……あの子は、亡くなりました」



ご主人はハッとし、表情が凍りつく。


「……もしかして、あの橋から?」



「そうです!なぜわかるんですか!」



「あぁ……ヌルが付いたんかぁ。あれほど近付くなと言ったんに……」


ご主人は、またかといった様子で、落胆の表情を浮かべる。



「いつからいるのかは知らんけども、この宿の裏には、ヌルが棲んでいると言われておってな……」


ご主人が語り始める。



この宿の中にある温泉は、一つの源泉で管理されている。

しかし、裏にある湧き出る湯には、源泉がない。



いつの頃からか、地面から直接ヌルヌルと湧き出ているのだ。


先代のご主人が知らずに触れて、数日後、橋から飛び降りた。


まさか、このヌルのせいだとは思わなかったが、一見して宿の温泉とは違うヌルつきがあるので、ご主人は触れないように、県に届を出した。


その後、調査に来た役人も、数日後、橋から飛び降りた。



検査の結果、少なくとも、ヌルは温泉ではないことがわかった。

しかし、当時の検査技術では、ヌルが何なのかまではわからなかった。



ヌルに触れた人間は、どこに住んでいても、数日内に、必ず橋までやってきては飛び降りる。


そんなことが続くので、ヌルの周りを柵で覆い、蓋もして、誰にも触れないようにしていた。



湧き出るヌルは、外側に広がるわけではない。

どういうわけか、その場所で循環しているようだ。

なので、近付かなければ触れないはずだった。


しかし、その日は雨が降っていた。

雨に溶かされたヌルが、柵の外に、少しだけ漏れ出してしまったのかもしれない。


それとも、好奇心旺盛な彼女が、直接触れた?



「ヌルって、何なんですか!!」


私は、声を荒げて叫んだ。



「……わからねぇ。突然現れて、ただ、そこにいるってこと以外は……」


ご主人の声が震えていた。

本当に、わからないのだろう。


困惑の表情を浮かべるご主人を責めるのも、何か違う気がした。



*******



結局、ヌルが何なのかわからないまま、親友が飛び降りたという橋に向かった。



そこには、中年男性が一人、佇んでいた。


あの人も誰かを亡くしたのだろうか。



中年男性は、こちらに気付き、穏やかに挨拶をしてくれた。


「こんにちは」


「あ、こんにちは……」



男性は、穏やかな表情のまま、続ける。


「あなたも、誰かを亡くしたの?」



「……はい、先日、親友が……ここから」




「そうですか……それはお辛いですね」



「……もしかして、あなたもですか?」




「はい。先日、妻が……」



この人も、同じなんだ。


謎の存在に、大切な人を奪われたんだ。



かける言葉がなくて、沈黙するしか、なかった。




言葉を交わすことなく、数分、経った頃だろうか。



突然、男性が息を荒げながら、早口で喋り出した。


「でもね、私、わかったんです。私は研究機関で働いてましてね、妻から出たヌルを調べたんですよ。ヌルがどこから入ってどうなるのか!ヌルはね、人間の毛穴から侵入するんです!皮膚のバリアなんか、ないに等しい!ただ触れただけで表皮を伝い、毛穴から入り込み、血管を通じて全身を回り増殖していく。それが溢れたのがヌルなんです!」


男性は、血走った目を見開き、焦点が合っていない。


「溢れたヌルが穴という穴から吹き出し、最期は泣いてたなぁ……ヌルを流して泣いてたなぁ!そして、カマキリに巣食うハリガネムシのように指令を出し、故郷を求めてこの橋から飛び降りて散らばるんですよぉ!知ってます?この下、川じゃないんですよ!ただの地面!だぁれもいない!警察も救急も、みんな完全防護でやってくる!ヌルの棲家っ!楽園っ!あははぁっ!」


狂ったように笑いながら、早口で捲し立てる男性を、私はただ、呆然と見守るしかなかった。



よく見ると、男性の衣類は濡れていて、べっとりと肌に貼り付いている。

汗なんかじゃない、あれは……ヌル?



「はぁっ、はぁ……私は、妻のところに逝くために、ここでヌルが出るのを待ってたんですよ!……ほぉら、出てきた、ヌルが!汗のようにヌルが出てくる!これでやっと、妻の元に逝けるよぉ!」



ビチャッ……ビチチ……


体の構造が変わっているのか。

ヌルで溢れる体表と、毛穴から吸い込まれるヌルの圧力なのか、水分の循環と骨の軋むような音がする。


驚いたことに、体内から溢れ出るヌルは、流れ落ちることはない。


体の表面と内部を、毛穴を通して循環しているようだった……体表のヌルがかすかに波打っている。

さながら、ヌルの宿主、ヌルの”容れ物”のように。



男は、ヌルを目からも垂れ流しながら、橋の柵に手をかけ、身を乗り出す。


泣いているのか、笑っているのか…そのどちらも、なのか。



「危ないっ!」


私は咄嗟に手を伸ばしたが、触れる前に、男性の体が柵の上でヌルッとすべった。



「あはははぁはあぇあぁあはっはぁーーーっ!!」


男性は、狂ったように笑いながら、堕ちていった。



パンッ!


狂笑が途絶えると同時に、叩きつけられた物体が、弾けて飛散するような音がした。




腰を抜かした私は、地面を這いながら柵を掴み、隙間から下を覗いた。


……闇。


100mほどの高さなのに、底が見えない。

まっ黒なモヤがかかっているようだ。


時折、生臭く生暖かい風が、漂うように噴き上げてくる。


ヌルという謎の生命体の匂いなのか……それとも。



私は、立ち上がれないまま、震える手で119番に電話するしか、なかった。


男性の言う通り、救急も警察も、完全防備の姿で現れた。


理由がわかっているのか、取り調べなどなく、私はすぐに解放された。




私は、男性に直接触れてはいない。


しかし、男性から撒き散らされたヌルに、侵入されてはいないだろうか。


数日後、またここに来ることに、なるのだろうか……。



生臭く生暖かい風に纏わりつかれながら、私は一人、家路に着いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ