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ヌルすべ温泉へ、いらっしゃい

作者: *桜花*
掲載日:2025/08/15

ある日、突然、親友が死んだ。


この間、二人で温泉旅行に行ったばかりだったのに。

帰ってきて数日も経たぬうちに、彼女はなぜか一人でまたあの地へと向かい、地上百メートルを超える橋から身を投げたという。


──なぜ。

毎日、充実していると言っていたし、笑顔で、将来の夢まで語っていたのに。

彼女の声や表情を思い返すと、胸が詰まった。


その橋は、自殺の名所として知られているらしい。

だが、私たちが泊まった宿からは遠く離れており、親友もその橋に特別な興味を示すことはなかった。


──だからこそ、おかしい。

彼女が死を選ぶ理由など、どこにもなかった。


葬儀の参列者たちも、思うことは同じだった。

悲しみの隙間から漏れるのは、決まって「どうして」という疑問ばかりだった。


葬儀の最中、親友と親しかったという同僚に、話しかけた。


「彼女、何か悩んでいたのでしょうか……私には、心当たりがないのです」


ハンカチを目元に押し当てながら、同僚は首を振る。


「仕事も順調で……毎日楽しそうでした。先日、あなたと温泉に行かれたのでしょう? そういえば、よく汗をかくようになったとは言ってましたけど……。冷房をつけていても、汗がヌルヌルして気持ち悪いって……」


汗――。


夏とはいえ、汗がヌルヌルとして気持ち悪いなど、私は一度も経験したことがない。

温泉から帰ってきても、私にそんな体調変化は見られない。

彼女とは長い付き合いだが、そんな体質だという話は、聞いたことがなかった。


その瞬間、旅館の主人の言葉が、脳裏でじわりと浮かび上がる。


「裏の湧き出る湯には、決して触れちゃいけねえよ? ヌルが付くからな……」


“ヌルが付く”。

あの時は、単なる方言だと思っていた。


だが――。



***



次の休日、私はひとりで宿へと向かった。

どうしても確かめなければならないという衝動が、背後から押すように私を動かしたのだ。


玄関に入ると、宿の主人が以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。


だが、私が「彼女が亡くなった」と口にした瞬間、ご主人の表情は水が引くように凍りついた。


「……あの橋か?」


私は息を呑んだ。


「どうして、それを……?」


「あぁ、ヌルが付いたんかぁ。あれほど近付くなと言ったんに……」


彼は深く、長い息を吐いた。

その目は、遠くの闇を見ているようだった。


「いつの頃からか、この宿の裏にはな……“ヌル”が棲んでいると言われとる……」


ご主人が語り出した声は低く震え、どこか湿り気を帯びていた。


この宿の中にある温泉は、一つの源泉で管理されている。

しかし、裏にある湧き出る湯には、源泉がない。


宿の温泉とは別の場所――裏の地面から、いつの頃からか“何か”が湧き出し始めた。


それは湯ではなく、ただヌルヌルとした液体で、絶えず脈打つように地表へ押し出されてくるのだという。


先代のご主人は、それを湯だと思って触れた。

すると数日後、理由もなく橋から飛び降りた。


次に調査に来た役人も、同じように数日後に転落死した。


ヌルは外へ広がらない。

なぜか一定の場所に留まり、湧き、引き、循環しているのだ。


触れた人間は、“必ず”橋へ行く。


湧き出るヌルは、外側に広がるわけではない。

どういうわけか、その場所で循環しているようだ。

なので、近付かなければ触れないはずだった。


しかし、雨が降った日は、ヌルは薄く溶けて地面を伝い、柵の外にはみ出すことがあるという。

私たちが来た日も――雨だった。


「……ヌルって、一体なんなんですか!」


私は声を荒げていた。


主人は首を振る。


「わからん……ただ、あれは湯でも水ではない。生きているんか、ただの物質なのかもわからねぇ……ただ、そこにいるってこと以外は」


その言葉は、説明になっていないのに、ひどく恐ろしかった。



***



ヌルの正体がわからないまま、私は親友が身を投げた橋へ向かった。

重い空気が橋に沿って流れ、遠くで鳥が不気味に鳴いていた。


橋の中央付近で、中年の男性がひとり、ぼんやりと下を覗いていた。


「あの……こんにちは」


声をかけると、彼は静かに振り返り、微笑んだ。


「……こんにちは。……あなたも、誰かを失ったの?」



「……はい、先日、親友が……ここから」


「そうですか……それはお辛いですね」



「……もしかして、あなたも?」


「はい。先日、妻が……」



数分、沈黙が続いた。

橋を渡る風が、肌にじっとりと絡みつく。


その沈黙を破るように、彼が急に呼吸を荒げ始めた。


「私、わかったんです! 私は研究機関で働いてましてね、妻から出たヌルを調べたんですよ! ヌルがどこから入ってどうなるのか!」


彼の声がひび割れ、目は血走り、焦点はどこにも合っていなかった。


「ヌルはね、人間の毛穴から侵入するんです! 皮膚のバリアなんか、ないに等しい! ただ触れただけで表皮を伝い、毛穴から入り込み、毛細血管を通じて全身を回り増殖していく! それが溢れたのがヌルなんです!」


彼の服は湿って張り付き、袖口からは液が滴っていた。


それは汗ではない。

どう見ても――ヌルだった。


「溢れたヌルが穴という穴から吹き出し、最期は泣いてたなぁ……ヌルを流して泣いてたなぁ! そして、カマキリに巣食うハリガネムシのように指令を出し、故郷を求めてこの橋から飛び降りて散らばるんですよぉ! 知ってます? この下、川じゃないんですよ! ただの地面! だぁれもいない! 警察も救急も、みんな完全防護でやってくる! ヌルの棲家っ! 楽園っ! あははぁっ!」


その瞬間、彼の体がビクンッと震えた。


「はぁっ、はぁ……私は、妻のところに逝くために、ここでヌルが出るのを待ってたんですよ! ……ほぉら、出てきた、ヌルが! 汗のようにヌルが出てくる! これでやっと、妻の元に逝けるよぉ!」


ビチャッ……ビチチ……。


彼の肌が波打ち、体の表面でヌルと脈動している。

それが毛穴へ吸い込まれ、また溢れ、吸い込まれ、絶えず循環している。


まるで“体がヌルの器”になってしまったようだった。


男は目からヌルを溢れさせながら柵によじ登った。

笑っているのか泣いているのかわからない奇妙な表情で、彼は叫んだ。


「今行くよぉ……! あぁぁああははははぁぁ!」


彼の体はヌルッと柵の上を滑り、真下へ吸い込まれるように堕ちていった。


パンッ。


乾いた破裂音が風に散った。


私は腰を抜かし、這いずって柵へ近づき、そっと下を覗いた。


……闇。


底は見えず、黒いモヤが蠢いている。

その闇から、ぬるい風が、ゆっくりと吹き上がってきた。


生臭さと、どこか鉄のような匂いが混じっていた。



私は震える手で119番に電話した。

救急も警察も完全防護で駆けつけ、何も聞かずに私を解放した。


帰り道、風が肌に触れるたび、私は身を震わせた。


私は、直接触れてはいない。

けれど、あの男が撒き散らしたヌルの粒が、風に乗って私の肌に触れていなかったと言い切れるだろうか。


数日後、私も……またここに、来てしまうのだろうか――。

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