ヌルすべ温泉へ、いらっしゃい
ある日、突然、親友が死んだ。
この間、二人で温泉旅行をしたばかり。
帰って間もないのに、わざわざ一人で再びそこへ向かい、地上100m以上もある橋から身を投げたという。
なぜ?
毎日、充実していると言っていたのに。
笑顔で、将来の夢を語っていたのに。
その橋は、自殺の名所として知られている。
しかし、私たちが泊まった宿からは遠く離れており、親友も、その橋には興味がなさそうだった。
親友がなぜ死を選んだのか、私にはわからない。
葬儀に参列していた人々も、理由がわからないようだった。
葬儀で、親友と一番近しい関係だったという同僚と話をした。
「彼女、何か悩みとか、あったのでしょうか。私には、心当たりがなくて……」
同僚は、ハンカチで目頭を押さえながら、答えた。
「仕事も順調でしたし、毎日充実している様子でした。私も、見当もつきません……」
彼女には、死ぬ理由などなかった。
それがなぜ、たった一度行っただけの温泉地で、一人で……。
「……そういえば、最近、温泉に行ってきたと、嬉しそうに話していました。それから代謝が良くなったのか、やたらと汗をかくって言ってました。冷房をつけていても、汗がヌルヌルして気持ち悪いって……」
……汗?
確かに、夏だから暑いけど、ヌルヌルするほど汗をかくことなんて、私にはない。
体質の問題?
彼女とは高校からの付き合いだけど、一度もそんなことを聞いたことがない。
……そういえば、宿の人が、こんなことを言っていた。
「この宿ん中の風呂はえぇけども、裏にある湧き出る湯には、決して触れちゃいけねぇよ?ヌルがつくからな?柵はあるし蓋もしとるけども、触れるかもしれねぇから、近付いてもいけねぇよ?」
ヌルが付く?
「ヌルつく」の方言かと思ったけれど。
親友の汗と、何か関係があるのだろうか。
*******
次の休日、私は一人、宿に向かった。
「こんにちは。先日、お伺いした者ですけど……」
「あぁ、いらっしゃい。今日は一人かい?」
気さくそうな宿のご主人が、笑顔で迎えてくれた。
「……あの子は、亡くなりました」
ご主人はハッとし、表情が凍りつく。
「……もしかして、あの橋から?」
「そうです!なぜわかるんですか!」
「あぁ……ヌルが付いたんかぁ。あれほど近付くなと言ったんに……」
ご主人は、またかといった様子で、落胆の表情を浮かべる。
「いつからいるのかは知らんけども、この宿の裏には、ヌルが棲んでいると言われておってな……」
ご主人が語り始める。
この宿の中にある温泉は、一つの源泉で管理されている。
しかし、裏にある湧き出る湯には、源泉がない。
いつの頃からか、地面から直接ヌルヌルと湧き出ているのだ。
先代のご主人が知らずに触れて、数日後、橋から飛び降りた。
まさか、このヌルのせいだとは思わなかったが、一見して宿の温泉とは違うヌルつきがあるので、ご主人は触れないように、県に届を出した。
その後、調査に来た役人も、数日後、橋から飛び降りた。
検査の結果、少なくとも、ヌルは温泉ではないことがわかった。
しかし、当時の検査技術では、ヌルが何なのかまではわからなかった。
ヌルに触れた人間は、どこに住んでいても、数日内に、必ず橋までやってきては飛び降りる。
そんなことが続くので、ヌルの周りを柵で覆い、蓋もして、誰にも触れないようにしていた。
湧き出るヌルは、外側に広がるわけではない。
どういうわけか、その場所で循環しているようだ。
なので、近付かなければ触れないはずだった。
しかし、その日は雨が降っていた。
雨に溶かされたヌルが、柵の外に、少しだけ漏れ出してしまったのかもしれない。
それとも、好奇心旺盛な彼女が、直接触れた?
「ヌルって、何なんですか!!」
私は、声を荒げて叫んだ。
「……わからねぇ。突然現れて、ただ、そこにいるってこと以外は……」
ご主人の声が震えていた。
本当に、わからないのだろう。
困惑の表情を浮かべるご主人を責めるのも、何か違う気がした。
*******
結局、ヌルが何なのかわからないまま、親友が飛び降りたという橋に向かった。
そこには、中年男性が一人、佇んでいた。
あの人も誰かを亡くしたのだろうか。
中年男性は、こちらに気付き、穏やかに挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは……」
男性は、穏やかな表情のまま、続ける。
「あなたも、誰かを亡くしたの?」
「……はい、先日、親友が……ここから」
「そうですか……それはお辛いですね」
「……もしかして、あなたもですか?」
「はい。先日、妻が……」
この人も、同じなんだ。
謎の存在に、大切な人を奪われたんだ。
かける言葉がなくて、沈黙するしか、なかった。
言葉を交わすことなく、数分、経った頃だろうか。
突然、男性が息を荒げながら、早口で喋り出した。
「でもね、私、わかったんです。私は研究機関で働いてましてね、妻から出たヌルを調べたんですよ。ヌルがどこから入ってどうなるのか!ヌルはね、人間の毛穴から侵入するんです!皮膚のバリアなんか、ないに等しい!ただ触れただけで表皮を伝い、毛穴から入り込み、血管を通じて全身を回り増殖していく。それが溢れたのがヌルなんです!」
男性は、血走った目を見開き、焦点が合っていない。
「溢れたヌルが穴という穴から吹き出し、最期は泣いてたなぁ……ヌルを流して泣いてたなぁ!そして、カマキリに巣食うハリガネムシのように指令を出し、故郷を求めてこの橋から飛び降りて散らばるんですよぉ!知ってます?この下、川じゃないんですよ!ただの地面!だぁれもいない!警察も救急も、みんな完全防護でやってくる!ヌルの棲家っ!楽園っ!あははぁっ!」
狂ったように笑いながら、早口で捲し立てる男性を、私はただ、呆然と見守るしかなかった。
よく見ると、男性の衣類は濡れていて、べっとりと肌に貼り付いている。
汗なんかじゃない、あれは……ヌル?
「はぁっ、はぁ……私は、妻のところに逝くために、ここでヌルが出るのを待ってたんですよ!……ほぉら、出てきた、ヌルが!汗のようにヌルが出てくる!これでやっと、妻の元に逝けるよぉ!」
ビチャッ……ビチチ……
体の構造が変わっているのか。
ヌルで溢れる体表と、毛穴から吸い込まれるヌルの圧力なのか、水分の循環と骨の軋むような音がする。
驚いたことに、体内から溢れ出るヌルは、流れ落ちることはない。
体の表面と内部を、毛穴を通して循環しているようだった……体表のヌルがかすかに波打っている。
さながら、ヌルの宿主、ヌルの”容れ物”のように。
男は、ヌルを目からも垂れ流しながら、橋の柵に手をかけ、身を乗り出す。
泣いているのか、笑っているのか…そのどちらも、なのか。
「危ないっ!」
私は咄嗟に手を伸ばしたが、触れる前に、男性の体が柵の上でヌルッとすべった。
「あはははぁはあぇあぁあはっはぁーーーっ!!」
男性は、狂ったように笑いながら、堕ちていった。
パンッ!
狂笑が途絶えると同時に、叩きつけられた物体が、弾けて飛散するような音がした。
腰を抜かした私は、地面を這いながら柵を掴み、隙間から下を覗いた。
……闇。
100mほどの高さなのに、底が見えない。
まっ黒なモヤがかかっているようだ。
時折、生臭く生暖かい風が、漂うように噴き上げてくる。
ヌルという謎の生命体の匂いなのか……それとも。
私は、立ち上がれないまま、震える手で119番に電話するしか、なかった。
男性の言う通り、救急も警察も、完全防備の姿で現れた。
理由がわかっているのか、取り調べなどなく、私はすぐに解放された。
私は、男性に直接触れてはいない。
しかし、男性から撒き散らされたヌルに、侵入されてはいないだろうか。
数日後、またここに来ることに、なるのだろうか……。
生臭く生暖かい風に纏わりつかれながら、私は一人、家路に着いた。