Revior
日常に一杯のコーヒーを。
あれはいつだっただろうか。それを思い出すのも嫌だった。いつまで経っても終わらない仕事。終電まで続く残業の日々。僅かなミスでも長時間続く叱責。それらが積み重なって会社と家をただ行ったり来たりするロボットになった。食事もまともに取れず、目からは覇気がなくなった。通勤で乗っていた電車で悪寒を感じて、駅で休む回数が増える。余裕もなくなって、まるで会社でのストレスを紛らわすように家の物に当たり散らすようになった。身体も精神も部屋もどんどんぐちゃぐちゃになっていく。そして、俺はついにオフィスで倒れ、天敵から逃げる小動物のように社会から逃げた。
そこからはずっと死んだ目でうずくまってばかりの日々が続いた。光を恐れてカーテンはずっと閉めていた。真っ暗な部屋の中、当たり散らしてそのままの部屋を何の感情もなく眺めて一日が終わる。食事も思ったように食べられず、みるみるうちにやせ細っていった。いつも同じ夢で、毎朝ぐっしょりと嫌な汗にまみれる。そんな日々を繰り返していた。
息が出来なくて目が覚めた。久しぶりに嫌な夢を見た。
起きるとあの頃のように嫌な汗がべったりと貼りついていた。真っ暗な部屋のなか、揺らぐ地面を裸足で歩き店の冷蔵庫からやっとのことで水を取り出して貪るように飲んだ。水を飲むと息は楽になっていった。
「なんでまたあの時の夢が……」
そのまま俺は床にへたり込んだ。店を開いてからは全く見ていなかったあの頃の夢。
でも、へたり込みながらも人生を変えたあの一日も思い出していた。
あの日、訪ねてきた友人に「一緒に食事をしないか」と誘われた。友人は「無理だ」と言う俺を半ば強引に外に連れ出す。久しぶりに見た陽の光に目が眩む。その日は爽やかな風が香る初春だった。外の空気を吸うと雨上がりの草葉の匂いやアスファルトの匂いがする。ただ、雑踏と車と電車が通過する音は怖くて震えが止まらなかった。そんな様子を見て、友人はそっと肩に手を添えてくれた。
しばらく歩くと大通りから路地に入り、目の前に昔ながらの喫茶店が現れる。入口の扉のベルがカランと音を立てると芳醇なコーヒーの香りが店内を包み込んでいた。軽食とコーヒーを頼み、席で待つ。友人は何も聞かずになんてこともない話をしてくれた。それが救いだった。ほどなくして運ばれてきた料理は美味しそうで、あんなになかった食欲が嘘のようにぺろりと平らげた。それを見た友人はとても得意げな表情をしている。そして食後のコーヒーを飲んだ瞬間、ぼろぼろと涙が止まらなくなった。
それはとうとう嗚咽へと変わった。コーヒーが今までの辛かった自分を優しく包み込んで、みるみる感情がほぐされていく。
「ご、めん……」
「いや、連れてきてよかったよ」
その時の友人の顔が輝いて見えた。俺が生きる場所はここなのかもしれない。そう思って次の日から料理とコーヒーを淹れる勉強を始めた。その日々は楽しくて、死んでいた目にはまた光が戻っていた。まるでロボットから人間に生まれ変わったかのように。
あれからしばらく経った頃。俺は緑に包まれた場所にカフェを開いた。街中ではなく敢えてここに構えた。
店名は「Revoir」。
社会に疲れた人々が、束の間でも本来の自分と「再会する」場所にしたいという意味で名付けた。何より俺が本来の自分と再会したかったのかもしれない。開店祝いには友人がちらほらときてくれた。ただ、あの期間に相当数の友達が俺の元を離れたから数人だけだったが、それでも嬉しかった。立地の関係上、お客さんは多くなかったが幸せな毎日だ。何よりやっと自分を取り戻せたのがこの上なく嬉しかった。穏やかでゆったりと流れる時間に、お客さん達の笑顔。そして店を包む芳醇なコーヒーの香り。
それが何よりの癒しだった。経済的には前より圧倒的に厳しくなったが、心はどんどん豊かさを取り戻していくのを感じている。あの頃の嫌な夢も気づけば見なくなっていた。
だが、柔らかな想い出よりもあの日々の苦しさの記憶が勝ってしまったようだ。変な汗はずっと出続けている。もし、この扉を開けてあの散らかった部屋が現れたら、この日々が全て噓だったら。
水分補給をしつつ眠れるようにあれこれと工夫してみたが、嫌な胸の鼓動は止まらずその日は全く眠れなかった。
眠れないまま迎えた朝。カーテンを開けると柔らかな日差しが部屋に入ってくる。
昨日の心配は当たり前だが杞憂だった。重たい身体を起こし、眠い目をこすりながらいつものようにエプロン姿に着替え、カフェに併設された俺の部屋から出勤した。店の清掃をして、机やカウンターをピカピカに拭いて扉の「Closed」を「Welcome!」に裏返す。お客さんはちらほらしか来ないから、常にカウンターにいるわけではなく好きな場所で思うように過ごしていた。初春の陽気が気持ちのいい日だったから、窓際のテーブルに腰かけて窓から外を眺めていた。小鳥のさえずりや新緑があたたかい光に包まれて、一層美しく感じた。あたたかで、自然がまるで子守歌のようだった。そう、子守歌のようで……
高校のバスケの練習試合。蒸し暑い体育館で指示の声やシューズが床をこすり立てる音が体育館中に響いていた。シュートが決まり、選手が応援席を見る度に黄色い歓声が上がる。毎回黄色い歓声が上がるなんて凄いな、なんて呑気なことを思いながら試合を続けていた。バスケの楽しさが上回っていた俺は黄色い歓声にあまり興味がなかった。とうとう俺にパスが回りシュートを決める。チームメイトに促されて応援席を見ると相変わらずの黄色い歓声。そんな中、一人の「少女」へスポットライトのように光が差した。
そんな「少女」は絵画のように美しく見えた。「少女」は黄色い歓声を上げることもなく「ナイスシュー!」とだけ言って嬉しそうに応援をしていた。一年の時に同じクラスだった女の子。あの時は会話を少し交わしたくらいだった。そのはずだったのに、今までとは明らかに違う胸の鼓動に戸惑いをおぼえながら試合に戻った。
「……みません」
「すみません」
まだ意識も曖昧な中、顔を上げるとお客さんと目が合った。そこではっきりと目が覚める。しまった、と思った。営業中に寝てしまうなんて初めての経験だ。まだ微かに残る社会での恐怖がうっすらと変な汗をかかせる。しかし、目の前のお客さんは予想と反してふっと笑った。そのお客さんの笑顔が「少女」と重なって思考が一瞬止まった。
でも、それどころではないと慌ててメニューを取りにカウンターへ戻った。注文はパスタとデザートとコーヒーのセット。この春の爽やかな日にぴったりのセットだ。
「かしこまりました」
その時、柔らかな光がお客さんにふっと当たる。あの頃に見た光景と同じで胸の鼓動がぶり返した。
パスタが出来上がり、カウンターに載せる。目の前のお客さんが美味しいと言ってくれて良かった。
この言葉は何回言われても嬉しい。その時、何故か「このお客さんと一緒に食べたい」という感情が湧いてきて、食器棚からもう一つお皿を取り出してパスタを盛りつけた。いつもと同じ良い香り。でも、目の前にお客さんがいるという状況だけは違っていた。
お腹も気持ちも満たされたところでデザートとコーヒーの準備に取り掛かる。今日のデザートはホットケーキ。甘いホットケーキと苦みのあるコーヒーの組み合わせは相性が良いのでお気に入りだ。
ホットケーキを焼き終えて、コーヒーの準備に取り掛かる。いつもこの時間が至福だった。豆を挽いて、コーヒーが完成に近づいていくにつれて芳醇な香りが増していく。その匂いを目一杯吸い込むと、どんなに嫌なことでもすぐに忘れられるのだ。また二つ分のお皿とカップを用意して、カウンターに置く。
「今日はホットケーキを焼いてみました」
デザートとコーヒーを美味しそうな顔で味わうのを見て幸せな気持ちになった。お客さんのこの顔を見る度にお店をやって良かったと心の底から思う。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
一期一会のこの空間。だからこそ満面の笑みで「ありがとうございました!」とお客さんを見送っている。一回きりのお客さん、度々来るお客さん、よく来てくれるお客さん、どのお客さんも等しく大好きだった。
それから何か月か経ったある日。今日はお客さんが特に少ない日だった。
俺はカフェの右奥に置いたバスケットゴールを使ってひたすらシュートを打っていた。学生時代を思い出して楽しくてしばしの間続けていると、後ろから
「ナイスシュー!」
と聞こえてきた。それがとても懐かしくて振り向くと、あの時起こしてくれたお客さんが立っていた。「少女」の声と重なって聞こえて胸の高鳴る音が聞こえた。それをごまかすように
「バスケ、やってらっしゃるんですか?」
と言った。目の前のお客さんは少し照れくさそうに
「いや、ちょっと応援の方を……」
気が付けばお客さんにボールをパスしていた。お客さんは危ないながらもしっかりとキャッチしてくれた。そしてシュートをするように促すと、お客さんがゴールの前に立ってシュートを放つ。するとそのボールは美しい曲線を描きながらゴールに吸い込まれていった。
「ナイスシュー!」
と言うとお客さんは振り向いたが、先ほどまでの笑顔が嘘のように何か考え込むような表情を見せた。いきなりシュートを要求したから困らせてしまったのだろうか、とお客さんの方に歩みを進めた。
「大丈夫ですか?」
「あ、いえ、何でもないです」
と答えると先ほどの困り顔は消え失せて、笑顔を見せる。ホッとしたところで、店に戻り接客を終えた。
いつものように
「ありがとうございました!」
と見送った。見送った後、「Welcome!」の看板を「Closed」に変えて店の清掃を始めた。そして食器棚に向かった時に、飾ってあった写真にふと目が留まった。楽しそうに写る四人の写真。
一人はチームメイト、二人は女の子だった。その中に「少女」がいた。
引退試合が終わった後、あちこちで女の子達との撮影会が行われていた。俺にも女の子が写真を撮ってくれと声を掛けてきた。それもそろそろ落ち着いてチームメイトと話していると、女の子二人が近づいて来た。一人の女の子が写真を撮ってくれとチームメイトに声を掛けている。もう一人の女子はあの時の「少女」だった。また胸が音を立てた。これが何を意味するのかずっと分からなかった。そして、一人の女の子はチームメイトの隣に並んだ。俺は自然と「少女」の横に立つことになった。
「一年生の時以来だよね。凄い久しぶりな感じするな」
なんて自然と話し掛けていた。人見知りの俺が無意識に放った言葉に自分で驚いていた。
「少女」は、
「そう……だね」
と控えめな声で答えた。いきなりこんな話をしても困るよなと思っていると、チームメイトが「撮るよ」と声を上げた。皆でカメラに向かってポーズする。その時の「少女」の笑顔がとても眩しく見えた。
そんなことを思い出しているうちに、また胸が無意識に音を立て始めた。あの頃よりも強く、鳴りやまない音にようやく気が付いた。俺は「少女」に恋をしていたと。あまりにも遅い気づきだった。
恋という感情に鈍感過ぎた己を悔やんだ。悔やんだところであの日々は帰ってこない。だけどそれと同時に、度々来る「少女」によく似たお客さんのことを思い浮かべていた。今度は胸が苦しくなった。そんな気持ちをごまかすように、久しぶりに冷蔵庫から取り出した缶のプルトップを開けた。その缶は俺の心と真逆の温度だった。それを一気に飲み干してその日は泥のように眠った。
あれから平穏な日々が続き、春も終わりに近づいていた。この日は妹のように可愛がっている美桜の誕生日。美桜は隣に住んでいて、何かあれば「にい」と付いて回ってきていた。母親も美桜を本当の妹のように可愛がっていた。関係は住む場所が変わっても続いている。相変わらず会う度に「にい」と言ってくる可愛い妹。毎年誕生日プレゼントは欠かさず送りあっていた。
陽が傾き始めた時、バタンカラカラ!と平穏なカフェに似つかわしくない音が響いた。
「おい美桜!入る時は他のお客さんもいるかもしれないから静かに開けろっていつも言ってるだろ!」
「窓から見たら人がいるかいないか位分かるもん!」
そう言われてぐうの音も出なかった。
美桜は「にい」の様子を見て勝ち誇ったような顔をする。
「で、プレゼントどこ?」
「お前びっくりするくらいせっかちになったよな……」
と言いながら、棚に入ったリボンのかけてある包みを渡す。
「やったー!ありがとー!」
と包みを持ちながらクルクル回り始めた。傍から見たら明らかに子供だ。クルクル回り終えるとカウンターに座って、
「で、最近どうなの」
「まあ、何事もなくゆっくり過ごしてるよ」
「ちぇっ、つまんないの」
「そういう美桜はどうなんだよ」
「え?最近は彼氏できたよー!」
いきなりの彼氏出来た発言に思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「ひひ、先越しちゃってごめんね」
なんて言われたら返す言葉もない。
「にいは好きな人いるの?」
「こんなんでいると思う?」
「はは、確かにー」
だなんて笑っていたけど、食器棚の方を見て急に真面目な顔になった。
「あの写真、まだ飾ってるんだ」
「ああ、あれね。バスケ楽しかったからさ、その思い出にずっと飾ってたらしまう機会を失っちゃったんだよね」
と食器棚に飾った写真を見ていると、また胸が締め付けられた。女の子は勘が鋭くて油断するとすぐに気づかれてしまう。わずかに変わった表情に、
「写ってる女の子、好きだったの?」
と言われてしまった。やっぱり美桜には敵わない。
「実は最近気づいた」
と正直に話した。
「はー!?なにそれ最近気づいたって!にい、鈍感通り越してるってそれ!」
「いや、しょうがないじゃん……」
「あーあ逃しちゃったね。でも、覚えてるなんて珍し」
「あ、そんな事言うんならもうあげないからね」
「えー、じゃあごめん」
「じゃあって何だよ!じゃあって!もの目当てかよ」
「それじゃ駄目なの?」
「この馬鹿」
と、言って美桜から取り上げた包みで頭を叩いた。
「いった!もう、冗談だってば」
その時、扉の方にいたお客さんと目が合った。それもよりによって「少女」によく似たお客さんだった。息が詰まるような思いがこみ上げる。
「……いらっしゃいませ」
「あ、どうも……」
と、お客さんが遠慮がちに席に着く。美桜が唐突にお客さんに声を掛ける。
「私とどこかで会ったことありませんか?」
お客さんはあっけにとられながら、
「え!?……いや、多分無いと思います」
「あれ、おかしいな……」
と、しばらく考えてから美桜は自分の腕時計を見てぎょっとした。
「やばい、帰らないと怒られる!ごちそうさま!あ、あと誕生日だから今日はにいの奢りね」
と、言って慌てて出ていく。
「実桜待て、肝心なもの忘れてる!」
と誕生日プレゼントを慌てて渡すと
「あ、本当だ。ありがと、じゃあね!」
と言って風のように去って行った。
陽はもうすっかり沈んで、星々が瞬いていた。お客さんは呆然と彼女が去って行った扉を見つめていた。
「初めて会ったらびっくりしますよね。あの子、隣の家に住んでた子なんです。もう、凄い小っちゃい時から知ってて。本当の兄妹みたいなんですよね」
と言い訳をするように話していた。言い訳をすることなどないのに。それから、お客さんに注文を聞いた。頼まれたのはもう少しで終わる春らしいパスタとデザートとコーヒーのセット。 用意をしていると、急にお客さんが俯いて動かなくなってしまった。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
体調不良かもしれないと作る手を止めて聞いた。それでもお客さんは顔も上げず声も発することなくじっと俯いたままだった。その時、ひらりとお客さんの鞄から何かが滑り落ちた。それは写真のようだった。でも、ただの写真じゃない。食器棚においてある思い出の写真だった。急に心拍数が上がるのを感じる。目の前にいるのは間違いなくあの「少女」だった。立っていられず、高めの椅子に座る。どう話せばいいか分からなかった。頭が真っ白になる。静かになる店内。心臓の音だけがやけにうるさく響いた。こんな偶然があってもいいのか。ドラマのような展開に眩暈がした。「Revoir」という店名がまさか本当の意味でのRevoirになるなんて。それと同時に、きっともうこれが最後のチャンスだと思った。
このタイミングで言いたいことを言わなければ、もう「少女」はこの店に来ないという予感がする。目の前の「少女」がもう一人のチームメイトに好意を寄せていようとも言うしかなかった。思い出話を語るだけだ、と必死に自分に言い聞かせた。手は怖くてずっと震えている。言葉を紡ぐことがこんなにも怖いと思ったことは初めてだった。でも、それを悟られないようにエプロンをきつく握りしめる。そして意を決して話し始めた。
高校時代にバスケ部だったこと、応援席にいたある少女に初めての感情を抱いたこと、引退試合の後で写真を撮った時に隣の少女の笑顔が眩しく見えたこと、その少女とお客さんを次第に重ねて見てしまうようになったこと、そして重ねて見る度に胸が苦しくなったこと、ある日食器棚に飾っている写真を見てようやくそれが恋だったんだと気づいたこと、落ちた写真を見て目の前にいるのはお客さんではなく「少女」だと確信したこと、
全てを話すと目の前の「少女」は顔を上げて、俺を見つめていた。その顔は驚いて泣きそうで、そして愛おしそうに俺を見つめていた。そして、目の前に居る「少女」は俺の名前を呼んだ。
その時、世界の音が止まった。虫の囁きも、鳥のさえずりも、葉擦れの音も、何もかもが姿を消した。聞こえるのは一つになった胸の音だけ。月の光が差し込み、まるで絵画のように二人を照らした。
そして、ずっと言いたかったバカ真面目でベタな言葉を口にした。
「ずっと、ずっと貴女の事が好きでした」
「少女」の目から涙が零れ落ちる。 その目にはこの世で最も綺麗な星空が広がっていた。
「私も、ずっと貴方が好きでした」