SD 0404 ── AD 2691 ガイ Ⅱ
ベットから杖まで約五メートル。
そう、たかが五メートルの距離である。
健康な人間にとっては何でもない距離である。
しかしそれは、遠いのだ。自分で歩けない人間にとっては、とてつもなく遠いのだ。
イーサムは、下唇を噛みしめて宙を見つめている。
その脳裏には、先ほどの己の、非情さのよく似合う無表情な顔が浮かんでいるのだろうか。
やがて、ベットの端に上半身を動かしていざり寄り、床へ、いっぱいまで伸ばした両手を付く。
イーサムの腰より少し低めに合わされているベット。
二本の杖の力を借りれば、造作もなく立ち上がれるはずの高さであり、落ちても大きな怪我をしない高さ。
イーサムは、受け身をとれる体勢をとって、そこから床へと──落ちた。
降りたのではない。落ちたのである。
リハビリをサボったために上半身の筋肉が弱り、うまく体重の移動を行えず、バランスを崩してしまったのだ。
ひっくり返った亀ようなかっこうで、イーサムは床に伸びる羽目になった。
うまく着地したつもりであっただろうに、失敗したのだから、無理もない。
したたかに背を打ちつけたらしく、生理的に出てきたらしい涙をぬぐっている。
先ほど己に向かって、片方の杖を投げつけてしまったために、杖が一本足りない。二本の杖がなければ、こういう結果を招くことになるのは学習していたはずであった。
「仕方ないだろ! こうなるってわかってても止められなかったんだから!」
癇癪を起したように、イーサムが叫ぶ。
こうなったのが、短気のせいだと反省して、自分に言い聞かせているようだ。
『わかる』ことと『できる』ことは、違う。
口癖のように、イーサムは言う。
どうやらそれは、自分を納得させる呪文らしい。
「負けるもんか……」
両手を床について身体を起こすと、ベットの脇に残していた残る一本の杖を掴む。
そして、おもむろに己によって床に置かれた杖の方へと押しやった。
それで引き寄せるつもりは、無いようだ。
二本の杖を共に、五メートル先へと置いたのである。
己から課された罰ではなく、自分で自分のとった行動に対する責任をとるつもりだろう。
この三年間でイーサムは、そんな少年へと成長していた。
甘ったれで、わがまま放題だった御曹司が、この三年で、よくここまで成長したものだ。
「負けるもんか」
床にうつぶせになって両肘をつく。うまく肘を動かし、腕の力で身体を前進させる。
昔よりも鍛えられた上半身に、少しずつではあるが、前へ進む速度が速くなった。
肘の皮も厚くなって、もう擦りむけることがなくなって久しい。
一メートル。二メートル。
少しきつそうだ。
己が留守にしたのが気に入らなくて、二週間前からリハビリをやめていたのに加えて、ここ三日は、ろくにベットから離れなかったと聞いている。
三メートル。
半分を超えたことが嬉しそうだ。
けれど、もう息が切れているのは情けない。
四メートルを超える頃には、腕が悲鳴を上げているのが見て取れた。
無理な体勢を強いられている背中が、軋んで見える。
五メートル。
もう少しで、杖に手が届く。
伸ばした手が、汗にまみれている。
「このやろー!!」
自分自身を罵倒しながら、大きく上体を前に押し出す。
そうしてようやく、指先に杖が触れた。
ブルブルと震えの走る腕で、二本の杖を抱えこむ。
「ハハ……」
上向きに寝ころんで、大きく息を吸いこむ。
「やっぱ、サボると、すっごく鈍る」
荒い息にまぎれたつぶやきと同時に、くるりと視線がこちらを向く。
「何分かかった?」
当然のような問いにあきれながら、扉の影から部屋へと入る。
「四分五十三秒。思ったより鈍っていませんよ。前の時より、二十四秒速くなりましたね」
だが、ほめると同時に差し出した己の手の中の物を、凝視している。
ほうきと塵取りと……雑巾、バケツ。昔なつかし、お掃除アイテム。
そして、己の視線の示す先を、イーサムが追う。
そこには、先ほどイーサムの当たり散らした惨状があり──。
示すところは、掃除しろと言うことで……。
「悪魔」
ぼそりとした小さなつぶやきに、己の背に、一瞬にして暗雲が発生する。
「そーいう憎まれ口を叩く元気があるのなら、手伝う必要はありませんね?」
語尾にハートマークが飛んでいそうな口調で言い放ち、くるりと扉へときびすを返す。
「俺……じゃなかった、僕が悪うございましたっ!! 頼むから見捨てないでっっ!!」
イーサムが、立ち去ろうとしていた己の足に縋りついていた。
見上げてくる瞳が、切羽詰まっている。
先ほどの五メートルの匍匐前進に、全身の筋肉が笑っているようだ。その状態で、あの惨状を一人で片づけたらどうなるか。
それこそ今度は、やりたくてもリハビリをやれなくなるだろう。
そうなった場合でも、原因が原因だけに、己が容赦しないであろうことが、身に染みているらしい。
「……最初からそうやっておとなしく言うことを聞いてくださると、よろしいんですけれど」
そう言って、杖を突いて立ち上がるのを手助けしてやる。
が、一度立ってしまうと、後は見向きもせずに惨状の方へと歩いて行く。
イーサムを甘やかすつもりは、毛ほどもない。
そのことを承知しているイーサムは、うまく杖を操りながら、愚痴一つこぼさずについて来る。
「片付けが終わったら、おやつにしましょうね」
その一言には、絶大な効果があった。
イーサムは、いそいそと片付けに精をだした。
*
目の前で、盛大な存在感を示す一つの物体を征服すべく、イーサムの握りしめたフォークが休みなく動く。
そんな様子にあきれるでもなく、己は三杯目の紅茶をいれてやる。
が、イーサムが四切れ目に手を出したところで、さすがに己の声がかかった。
「サム……。一体いくつ食べる気です?」
平板で、感情を込められないはずの声に、はっきりと感情が込められている。
あきれではない。心配である。
イーサムが、先ほどから執心し征服にいそしんでいるのは、己が作ったチョコレートケーキである。
それも、直径二十四センチはあろうという巨大な代物である。
それが、見る見る内に減っていくとなれば、イーサムの胃の心配をしないわけにはいかない。
そんな己の問いも聞こえていない勢いで、イーサムのフォークは動き続ける。
「サム……」
思わずイーサムの顔を覗き込む。
……完全にトリップ状態である。
「サム? イーサム!」
強い呼びかけに、ようやく気づいたらしいイーサムがフォークを止める。
「あ……何、ガイ?」
のほほんと幸せそうな笑顔付きで聞き返された日には、もう何を問う気力も根こそぎになってしまいそうだ。
「……」
ため息が吐けるものならば、さぞや盛大なため息を吐いていたところである。
「なんでもないんだったら、後でね」
喜々としたさまで、再度ケーキに挑もうとするイーサムの前から、その征服欲の対象を取り上げる。
「ガイッ!!」
本気で腹をたてたようすで、イーサムが己に食ってかかる。じたばたと手をのばして、しまいこもうとするケーキを取り返すべく必死の形相である。
食べたいさかりの子供ではあるが──
「食べすぎです!」
本気で心配している己の気も知らず、ケーキを取り戻そうとするイーサムに、だんだん腹がたってくる。
「美味しい物食べたいっていうのは、人間の本能じゃないか!」
両の頬を見事なまでにふくらませて、イーサムが叫ぶ。
「『人間』には、理性というものがありませんでしたか? 本能だけで生きるのは、『ケダモノ』というんです」
咎められて、それがわからないような子供ではないはずなのに。
その視線は、己の背後、移動プレートの上で燦然と輝くチョコレート色から逸れることがない。
「だって……」
「だって、なんですか?」
「だって! ガイの作るおやつー!! 絶品のチョコレートケーキーっ!! 喰い逃したら──」
「『食べられなかったら』です」
「食べられなかったら、泣いても喚いても戻ってこないーっ!!」
律儀に言い直しながら、イーサムがわめく。
「おほめいただいて光栄ですが、お腹をこわして苦しい思いをするのはサムなんですよ。『足るを知る』ということを覚えなさい」
フォークをにぎりしめたままのイーサムの姿がとても幼い。見上げる瞳がぷっくりとした涙を浮かべる。
「泣きまねしても、無駄です」
本当に、いつからこんな手を覚えたものなのか。時々こういう真似をする。
最初のうちこそだまされもしたが、三度もやられた日には……。
己の学習機能は、伊達ではないのだ。
「だって、二週間ぶりのおやつー! ガイのチョコレートケーキーっ!」
「……」
双方ゆずらぬにらみ合いが続く。
頑としてゆずらぬ構えのイーサム。
どうしたものかと、少し首をかしげて、両手を胸の前で握りしめる。
内心、困りきっているのだ。ムキになるイーサムが、かわいくて……。
「サムは、甘え方が上手すぎます」
根負けするのは、いつも己の方だ。
取り上げていたケーキを、テーブルの上に戻す。
「……後、一個だけにする」
そこで、譲ってしまうのもイーサムだった。
「大丈夫。この後のリハビリでうんとお腹すかせるから。夕飯もちゃんと食うよ」
「『夕食もきちんととります』です。……まったく、これだから」
己がどれだけのことを考えて行動しているのかを、イーサムはきちんと読んでいた。
異常なほど、聡いのである。
相手が何を望んでいるのかをいち早く読み取って、行動に移してしまう。
人はそれを「かわいくない」と、言う。
だが、その行動が、イーサムの持つ飢えの表れであるならば、どうであろうか?
褒めてもらいたいから、かまってもらいたいから、人の先を読んでいるのだとしたら?
イーサムの父親は、ロボット擁護派として知らぬ者はなく、銀河の半数に関連企業を持つ名士だ。
その有数の資産に支えられ、物質的には何の不自由もなくイーサムは育ってきている。
けれど、とても寂しい子供である。
生まれて間もなく、医療過誤により、母親を失った。
父親は、忙しい仕事のために、なかなか顔をあわせる機会に恵まれない。
その父親の持つ影響力の大きさに、人間の使用人たちはどうしても一歩ひいた態度をとってしまいがちだ。
そして、ロボットの使用人たちには、人間との交流のような複雑な感情のやりとりは、いまだ期待できない。
身近に居て、親密に接してくれる相手を持たぬイーサムが、それでも愛情に飢えたときに選んだ方法を、誰が責められよう。
イーサムは、人の先を先をと読み、相手を喜ばせるという道を選んだのだ。
一見器用そうな方法であるが、本人の見えないところにかかる負担は大きい。
それが、時々噴き出す。今回の一連のわがままも、それが原因だ。
幼い子には不似合いな、そんな不器用な甘え方を、どうして否定することができるだろう。
そんな形の甘え方しか、イーサムは知らないのだ。
己は、一心にケーキをぱくつくイーサムの姿を、少なからぬ哀しみとともに見つめた。
「この一切れでがまんするけど。でも、ガイまた作ってくれ……、作ってね」
語尾に巨大なハートマークを飛び散らすようにしてねだる。それもとびきりの笑顔のおまけつきとくれば、イーサムがかわいくて仕方ない己に、断れるはずもない。
「わかりました」
それに安心したように、イーサムが約束の最後の一口にかぶりつく。もごもごと、満足げに口が動かされる。
「んー、うまい」
ブラウンの瞳が、綺麗な三日月を描く。父親に似て、愛嬌のあるほんのちょっぴり下がり気味の目尻が、喜びにさらに下がる。
「『美味しい』です」
「とーっても、美味しい時は、『旨い』って言うんだって教えてもらった」
自由に動けないイーサムに与えられているコンピュータ。それを使って、多くの人間とコミュニケーションをとるイーサムは、時々とんでもない人間と友達になる。
怖くて聞きたくないが……。
「誰に?」
「輸送船のパイロットしてる、おじさん」
その荒っぽい職業柄、彼らの口の悪さには、定評がある。
「間違いではありませんが、子供が使う言葉じゃありません」
答えが、苦しい。
「だって、みんなも言ってた」
「みんな?」
「うん! みんな、俺と同じくらいだった。どうして、ダメなんだ?」
「『僕』です。『どうして、いけないの?』もしくは『どうして、いけないのですか?』です。同じ年頃のお友達がいらっしゃるのなら、どうして教えて下さらなかったんですか?」
今まで用意されてきた『お友達』候補を、片端から放り出していたのだ。
まあ、父親との利害関係を断ち切れぬ子供たちや、障害を持つイーサムを憐れんでしまうような子供たちである。
この誇り高い少年に、受け入れろという方が、無理だろう。
だがイーサムは、まだ、一〇歳だ。同じ年頃の友人は、ぜひとも欲しい。
この際、多少のガラの悪さには、目をつぶるしかないだろう。
「昔まだ、自分で動けていた時に、街で作った友達。もう、だいぶ会ってないなぁ」
寂しそうな表情に、己は決断した。
「遊びに来てもらいましょう。住所を教えてください」
「ないよ」
即座に返った答えに、一瞬反応が遅れた。
「……ない?」
「うん。みんな、倉庫とか、空き家に潜り込んで寝てるって言ってた」
あっけらかんとした答えに、思わず頭を抱えたくなった。
つまり、SPの目を盗んで繰り出した街で作った友達は、いわゆるストリートチルドレンというわけである。
この三年。どうにも育ちに合わない言葉の矯正をすることしばしばであった原因に、ようやく合点がいった。
「いいよ、ガイ。俺、自分で動けるようになって、自分で会いにいくから」
これまた、どうしようかと困っていた己に、先読みしたイーサムの返事。
もう、言葉を正す気力さえも奪われてしまった。
思わず、テーブルに縋る。
「でさ、ガイ。約束してくれたんだから、これからは、もっと作ってくれよ」
最後の一口を呑みこみながら、イーサムが言う。
「『もっと作ってください』です。……そんなにたびたび作っては、サムの歯が虫に喰われてボロボロになってしまいますよ」
半分泣きたいような気持ちで答える己の声に、力が入っていないような気がする。
ストリートチルドレンが居るような危険な場所に入り込むことを怒っていいのだか、分け隔てのない自由な考えを褒めていいのだか、希望を失わぬ考えに喜んでいいのだか、わからない。
そんな己の気持ちも気付かず、半分ほど残っているケーキを見つめながら、イーサムが続ける。
「だってさ……、もったいないよ。こんなに綺麗で美味しい物、たまにしか食べられないなんて」
イーサムの視線の先には、己特製のチョコレートケーキ。
ビターチョコレートとホワイトチョコレートを溶かして薄く伸ばした、マーブル模様のチョコレート。
大きめに割られたマーブル模様のチョコレートの板が、木の葉が重なるような層になって、ケーキの側面と上面を飾っている。
その内部には、子供でも食べられる程度に抑えられた、ブランデーのきいたシロップがほどよくしみこんだココアスポンジ。
それが三層に渡って挟みこまれている、生クリームとチョコで作られたガナッシュになじんで、絶妙の味わいを醸しだしている。
このチョコレートケーキは、イーサムの、今一番のお気に入りである。
それで、こういう時の切り札に使える。
「ガイってさ、自分のことをすごい旧式だって言うけど……。こんだけ器用で繊細な作業ができるロボットって、今の技術使ったってそういないじゃないか?」
「『これだけ器用で繊細な作業が出来るロボットは、現在の技術を使っても、なかなか作れないでしょう?』です」
「『いる』でいいの。ロボットは物じゃないんだから」
反論しながら、イーサムの好奇心いっぱいの瞳が己を見上げる。
「言ったことありませんでしたか、私がいつ作られたロボットだったか?」
「聞いたことないっ!!」
飛びつくようにして、イーサムの瞳が迫ってくる。
大人ぶっていても、まだまだ子供だ。
好奇心でいっぱいになった時は、妙に幼い。
ケーキを、保存モードにセットし、椅子に座る。
「では、昔のことでもお話しましょうね。ちょうど、ロボット発達の歴史の勉強にもなりますし。でも、リハビリまでの少しの時間だけですよ──」
そうしてガイはイーサムに、自分の過去を初めてくわしく語ったのである。