ええと?あなたはどなたでしたか?
「あっ」
アリサはびっくりして、足を止めようとした。
「ごめんなさい」
前を歩いている人が急に立ち止まったため、足を止めきれず、ぶつかってしまった。
「問題ない。突然申し訳ない」
振り向いたのは、リュエル・イルマンだった。
アリサはもう一度びっくりした。
輝くプラチナブロンド、スフェンという宝石のような緑の瞳。
つい見惚れてしまう。男性よりも女性に見間違えるような美形だ。
アリサの婚約者も美形だが、リュエル・イルマンには敵わないだろう。
「アリサ・バーグマン子爵令嬢、どうした?私にぶつかって怪我をしたか?」
「ちがいます。大丈夫です。ただびっくりしただけです」
「そうか。驚かせて悪かった」
大丈夫の言い合いになりそうだったから、どちらからともなく、別方向に歩き出した。
そう、この時アリサはリュエルと自分の人生につながりがあるとは思ってなかった。
リュエルはイルマン公爵の次男なのだ。
子爵のアリサが近寄っていい相手ではない。
「アリサ」
しばしリュエルに見惚れていたアリサは機嫌の悪そうな婚約者に気づかなかった。
いつの間にここに?などのんびり構えていたら、ミゲルのいつもの注意が始まった。
「アリサはまた、僕のことを尊重できないんだね。婚約者なのに。あんな公爵家だからといってもてはやされてる男がいいのかい?アリサだけはちがうと思ってたのに。アリサだけは、このミゲル・ファイアットの婚約者として伯爵家を大切にしてくれると思ってたのに」
アリサは子爵の長女だが、弟がいるため、嫡男であるミゲルに嫁入りする予定だった。
2人の仲はよいとは言えない。
ミゲルは金髪に碧眼で、とてもモテる。
対してアリサは茶髪に灰色の目をしていて、不細工ではないが、地味だ。
どうして2人が婚約者なのかと思うが、
その理由は金銭問題に尽きた。
バーグマン家は大きな商会を運営し、多大な利益を上げている。困窮している伯爵家にとって、アリサとミゲルの結婚は経済的に絶対に必要なのだった。
「どうして君はそんなに地味なんだ。
少しでも自分を飾ろうと思わないのか?
僕にふさわしい外見に少しでも近づく努力をするべきだ」
これはアリサとミゲルの婚約が整った時からずっと言われ続けている。
婚約が10歳の時だから、5年。
アリサは思う。
「5年もこんなくだらない男によく耐えたなぁ」
アリサは口に出さないだけで、気が強い。本気で言い返したら、ミゲルは泣きだすような気がするので、黙っているだけだ。
ミゲルは、正直なところ、外見は90点で中身はマイナス100点だとアリサは思っている。
学園で人気がある理由がさっぱりわからない。くどくどうるさい男の何がいいのか。
ミゲルの唯一の取り柄は外見だ。
その外見にたくさんの令嬢が擦り寄ってくる。
アリサはそれを見ても嫉妬したことはない。だいたい子爵家にとって重要なのは格上の伯爵家と結びついて、商会の客層を上位貴族にまで広めることだ。
それができるなら、伯爵家に多少資金を貸したところで、困りはしない。
しかし、アリサはそろそろ限界だなと思っている。ミゲルの説教じみた言葉に疲れてしまった。1番多いのは、アリサの外見への不満なのだ。ある程度努力するにしても、そんなに大変身したりはできない。それにミゲルには最近、ずいぶん仲の良い令嬢がいる。
マーシャ・ソリアート侯爵令嬢。銀髪紫瞳の見目麗しくおっとりとした令嬢だ。
それはそれでいい。
アリサには問題ない。
婚約解消するなら、それが一番いい。
けれど、ミゲルから、その話はなかなか出てこない。
「はぁ、やっと終わった」
ミゲルが満足するまで話を聞くのは、商会で厳しい仕事相手とやりとりするより疲れる。
「疲れたかい?無理はしないでいいんだよ」
父の優しい声に顔を向けると、最近任され始めた女性向け商品のことで、アリサが疲れたと思ったらしい。
「いえ、仕事は順調よ。来週にはだいたい決まります。でも、ミゲル様がちょっと」
「あぁ。恋人がいると聞いているよ。だから、婚約解消の申し出を待っているんだけどね。アリサもそれで構わないだろう?」
そんなにわかりやすかったかしら?
アリサは自分の気持ちが父に伝わっていたことがちょっと悔しい。ポーカーフェイスはうまいはずだったのに。
「はい。大丈夫です。お父様」
「まったく。向こうの有責にもかかわらず、まだ何も言ってこない。やはり親戚にならなくて正解だ」
父がいいと言ったから、アリサは気持ちが楽になった。ミゲルが何を企んでいても、自分には強い味方がいる。
父は、優しい人だが、長年商会で会頭を勤めているだけあって、物事へのさじ加減がうまい。
今度のことも任せていれば解決するだろう。
「すまなかったね。アリサには余計な苦労ばかりさせて」
「お父様、大丈夫です。楽しいときもありました。夜会で素敵なドレスをプレゼントされて、ダンスしたり」
婚約がだめになったアリサにはもう素敵な結婚の道はない。後妻か第二夫人か。
それでも、このまま、ミゲルと結婚するより、ずっといい。
その日アリサは商会の仕事で、馬車で長時間移動する予定だった。
だが、面会相手から、アリサが時間になっても現れないと連絡が来た。
鳥を使っての手紙のやりとりだから、
実際にアリサの消息が絶えたのは少し前のことだ。
子爵家の少ない護衛の中から、馬車についていくように命じたのだが、
「大丈夫よ、お父様。御者と私だけで」
この通りにしてしまったことを後悔したが、道順に沿って探すしかない。
崖の下に子爵家の馬車を見つけたときは
子爵は真っ青になった。だが、アリサの姿はなかった。
御者は気絶していて、たいした怪我もしていなかったが、アリサがどこに行ったかはわからなかった。
その時アリサは、大変なことになっていた。
「まず、怪我の手当てを頼む」
リュエルが慌てた声で横抱きにしたアリサを公爵邸に連れ帰っていた。
子爵家より高度な治療が受けられると思ったのだ。アリサの怪我はかなり深く、できれば治癒魔法も使いたかったのだ。
慌てていて、アリサの家に連絡することを失念してしまったのも仕方ない。
リュエルがアリサの馬車を見つけたのは偶然だった。
アリサは意識がないままだ。
一通りの治療が終わると、怪我は治癒され、あとは目覚めるのを待つことになった。そこでやっと、バーグマン家に連絡を入れた。
「すぐ迎えに行きます」
と返答されたが、まだ様子を見たかったリュエルは意識が戻ってから連絡すると伝えた。
「アリサ様が目を覚まされました」
リュエルは急いでアリサのいる部屋に向かった。
「痛いとこはないかい?」
リュエルの質問に、アリサは少し考えて答えた。
「痛いところはありません。でも、私は誰ですか?あなたは?全然思い出せなくて」
リュエルはびっくりした。
「君はバーグマン子爵家のアリサだ。
私はリュエル・イルマン。
しばらくここですごそうか。君の実家にはすぐ連絡をする」
アリサは頼りない表情でリュエルを見上げた。瞳がうるうるとして、涙が盛り上がっている。
「大丈夫だよ。心配ない。お医者さんも呼ぶからね」
リュエルは庇護欲がじわじわと体を蝕むのを感じた。
いつものアリサ令嬢も気に入っていたが
またちがう魅力を感じてしまった。
そして、不自然な馬車落下のことを調べるよう指令を出した。
人為的な細工がされている可能性が高かったからだ。
アリサの命を狙うのは、婚約者のミゲルの可能性が高いが、まさかと思う。
事故死させる必要はないからだ。
アリサはいつもとちがって、なんだか可愛い。いつもの姿も密かに気に入っていたが、ギャップがあって、
どちらも可愛い。
診察の結果、アリサは身体的には時々激しい頭痛に見舞われるが、それ以外は問題なかった。公爵家での高度な治癒魔法のおかげだ。頭痛以上に問題なのは、記憶喪失だ。医者が確認したが、かなりひどい記憶喪失で、名前どころか、日常生活に支障をきたすほど、覚えていない。
令嬢として教育された所作はもちろん、簡単なカトラリーの使い方すら覚えていない。小さな子に戻ってしまっている。
感情もそれに引っ張られるのか、アリサらしさはほとんど残っていなかった。
「しばらく様子を見るしかありませんな」
そう医者に言われて、リュエルはバーグマン子爵に連絡した。
駆けつけたバーグマン子爵は取り乱していたが、アリサと対面して、さらに取り乱した。
「こんにちは。おじさんはだれ?」
実の娘に名乗る日が来るとは。バーグマン子爵は、衝撃を受けた。
「アリサ。おじさんじゃないよ。アリサのお父様だ」
「そうなの?」
頼りな気に揺れる瞳はリュエルだけを映している。
それでも、バーグマン子爵は、公爵家のおかげで命拾いしたことへの感謝を告げ、改めてアリサを連れ帰りたいと申し出た。
見知った場所の方が、アリサの記憶が、戻ると思ったのだ。
リュエルはバーグマン子爵を応接室に案内した。
「アリサ嬢は今、小さな子どものようだ。子爵家に戻るのがよいのか、正直わからない。ここなら、治癒魔法はすぐ使える上、医者はすぐ呼べるし、メイドを張り付かせて24時間対応できる。それにアリサはここで目覚めた。今の状態のアリサには邸を変えるのはよくない気がする」
バーグマン子爵も考えた。先ほどのアリサの様子。実の父よりもリュエルを見ていた。
「私もどちらがよいのか迷っています。ただこちらに長くいたら、公爵家に迷惑をかけてしまいそうです。リュエル殿。
アリサには婚約者がいます。噂は勝手なものです。リュエル殿に変な迷惑をかけてしまうのではないでしょうか?」
「それは心配ない。ただ、ファイアット家については調べる必要を感じている。
アリサを乗せた馬車は落下するようなところではなかった。馬車に細工がしてあったのではないだろうか?」
トルイン・バーグマン子爵は、自分も同じことを考えていた。
また、リュエル・イルマンが魔法の天才で、治癒魔法も得意なことを考える。
「しばらくアリサをお預けしてもかまいませんか?リュエル殿に迷惑がかからないのであれば」
「問題ない。学園はしばらく休みます。なるべくアリサと一緒にいます」
こうして、アリサは公爵家に滞在することになった。
「リューさまは、働かなくていいの?」
アリサはリュエルと発音できなくて、呼び名はリューさまに落ち着いた。
話す内容もいつも子どもみたいなわけではなく、目覚めたときのように年齢相応なときもある。記憶がバラバラになってしまったようだ。
「今はね。アリサが元気になったら、一緒に学園に行こうね」
公爵家の使用人たちはひそかに驚いていた。リュエルはあまり表情が変わらない。それがアリサと話しているときだけは生き生きとしている。
笑顔なんて初めて見た、という侍女が多かった。
自然とアリサへの対応も変わってくる。
公爵家令息が大事にしているアリサ。
となると、子爵家の令嬢とはいえ、アリサは公爵家の最上級のお客様と認識され始めた。
「リューさま、アリサこれ嫌い」
昼食を一緒に食べているときに、アリサはピーマンをなんとかフォークで捕まえてリュエルに見せている。
「ピーマンだね。好き嫌いはよくないよ。ほら、あーん」
リュエルがチーズを多めにからめたピーマンを差し出すと、少し躊躇ったアリサだったが、口を開けた。
リュエルが餌付けって楽しいと変な趣味の扉を開け始めた頃、アリサのお皿にあったピーマンはなくなっていた。
「リューさま、この絵本を読んでほしいの」
アリサは読み書きができなくなっていた。教えてもいいのだが、元はできるのだから、焦らなくてもよいだろうとリュエルが読み聞かせていた。
読み聞かせのときのアリサの定位置は、リュエルの足の間だ。小さな子よりは大きいアリサだったが小柄なので、背の高いリュエルとの身長にはかなり差がある。
「うん、いいよ。アリサはこの本が好きだね」
「だって」
「うん?」
「おうじさまが」
「声が小さくて聞こえないよ、アリサ」
「王子様がリューさまに似てるの」
そう言うとアリサは真っ赤になった。
リュエルもだ。
「読もうか」
しばらく沈黙していた2人だが、リュエルは絵本を読み始めた。
「アリサ、庭を散歩しようか?」
リュエルが声をかけても、返事がない。
アリサはすやすやと眠っていた。
しばらく寝顔を見ていたが、今日はそれほど暖かくはない。
風邪をひいては大変だ。
リュエルはそうっとアリサを抱き上げると、ベッドへ運んだ。
起きてしまわないか心配だったが、アリサはぐっすり寝ているようだ。
また寝顔をしばらく見ていた。
アリサの婚約者であるミゲルはアリサの外見が気に入らないようだが、リュエルには理解できなかった。茶色い髪に今は閉じられている灰色の瞳。優しい色合いで、リュエルは気に入っている。
ミゲルは、青ざめていた。
「そこまでするつもりじゃなかった」
たしかに馬車に細工するように命じた。
でも、崖から落ちるなんて思わなかった。少しこわい思いをさせてから、こちらに有利なように婚約破棄するつもりだったのだ。
ミゲルはマーシャに夢中だし、平凡なアリサとは縁を切りたかった。でも、家の金銭的問題を解決した上で婚約をとりやめたかったのだ。
ミゲルの足りない頭で考えた方法は大失敗だった。その上、アリサは公爵家にいる。どうしてかわからないが、ミゲルにとっても格上の公爵家まで介入してきたら、ミゲルの身はどうなるのだろう。
マーシャにも内緒にしていたため、相談できる相手もいない。
公爵家では、アリサはケーキを一生懸命食べていた。ほんの一切れだが、今のアリサの感覚だとものすごく大きいらしい。リュエルは甘いものが苦手だから、アリサの隣でコーヒーを飲んでいた。
先ほど、興味を持ってリュエルのカップから一口飲んだアリサには不評だったコーヒー。使用人たちは、ざわめいた。
リュエルの行動も表情もケーキより甘い。
うちの坊ちゃんあんなだっけ?誰もが顔を見合わせる。
今までは、坊ちゃんなんて呼び名を使うなんて思わなかったけど、最近使用人の内緒話では、坊ちゃんが定着している。
「うちの坊ちゃん、最近変わったよね?」
「甘く優しく?私たちにも優しくなってない?前はもっと無表情だったわよね」
「それってアリサ様が来てからよね。アリサさま尊い」
「アリサさま可愛すぎるよね。この間なんて、私の名前がカミカミで、マーガレットがまーぎゃれっとってなっちゃって、うるうるしながら、謝られた。名前覚えてくれてるだけでもうれしいのに」
「私はお花もらったわよ。リルナに似合いそうだから、だって。隣で坊ちゃんはちょっと不機嫌そうだったわ。アリサさまにあげた花束だから、一本でも許せなかったみたい」
うふふふふ、侍女たちはなんだか楽しかった。
アリサはまだケーキを食べている。リュエルはそっとアリサの口についたクリームを指で掬った。そのまま自分の口に入れる。
一連の行動の自然な流れに、また使用人たちがざわっとした。だが、公爵家の使用人たちはぐっと耐えた。これくらいで態度に出すような使用人は公爵家にはいない。だが、内心はみんな、かなりの衝撃を受けていた。あれ、本当にうちの坊ちゃん?
アリサはリュエルにくっついて、邸の中のいろんな場所に行った。
最近のお気に入りは厨房だ。
厨房に行くと料理長のサムが味見と称してお菓子や一口サイズのキッシュなどをくれる。リュエルは、「食べすぎないように!」と毎回チェックしてから、味見を許可してくれる。
リュエルは、今の自分の感情がわからなくなっていた。今まで異性を意識したことはなかった。けれど、アリサはちがう。いつもいつも気になる。ただ、最初はアリサがすっかり幼くなっているから、守ってあげなくては、と反応しているだけだと思っていた。
けれど幼い言動とはいえ、アリサの本質は変わらないのではないかと思う。
誰にでも優しくて、しっかりしていて、人を幸せな気持ちにさせたい人。今のアリサから、リュエルはそんな風に思っていた。それが正しいかはわからない。リュエルが感じた姿だ。
リュエル・イルマンは公爵家の次男に生まれた。プラチナブロンドにスフェンのようにキラキラした緑眼。
生まれにも容姿にも恵まれた。家族にも恵まれ、16歳の今まで、何かに本気で困ったりつらい目にあったことはなかった。婚約者がいないのは、18歳の兄の婚約者が決まらないためだ。
兄も両親も高望みをしているわけではない。
ごく普通の花嫁を探していた。兄の容姿もリュエルほどではないが、なかなかの美男だった。
だから、申し込みは捨てたくなるほど来ている。だが、公爵家に縁づきたいだけで、本人達の相性重視のイルマン家にとってよい縁談がなかなか見つからないのだ。
リュエルは学園の二年生で、将来をどうするか真剣に悩んだ結果、魔力が強いのを生かした宮廷魔術師を目指している。
一年生で学んだ魔法の中に治癒魔法があり、適正は真ん中くらいだが、ある程度の傷なら治せるようになった。アリサの怪我は深すぎて、リュエルの魔法では応急処置しかできなかった。
本物の治癒魔術師が来るまで、ハラハラしたのを思い出す。
学園に戻ったら、もう少し治癒魔法を習いたいと今は思っている。
アリサとの出会いは、一年前になる。アリサが入学してすぐの頃だ。
バーグマン子爵の商会はかなり羽振りがよく、その娘だったら、プライドの高い嫌なタイプかもしれないなと思っていた。その日リュエルは、普段あまり人のいないところで昼食を食べようと思って、中庭に行った。
そして見てしまった。
制服姿の少女が木に登っていた。
上の方から、にゃーにゃーと猫が鳴いている。猫を助けようとして木に登っているのだとわかったリュエルは、危ないから、自分がかわろうとした。
だが、変なタイミングで声をかけてしまうと、令嬢が危ないかもしれない。
女子の制服はスカートだから、下から覗くわけにもいかず、悪いタイミングでないことを祈りつつ、声をかけた。
「危ないから、私が登ろうか?」
「ありがとうございます。あと少しだから、大丈夫ですわ」
そして、少し待っていると、猫を連れた少女が降りてきた。
リュエルは、少女に好感を持った。
イルマン公爵家にいるアリサは、時々やって来るお父様にもだいぶ慣れた。
「公爵家のみなさんに、感謝を忘れてはいけないよ。使用人の方々にも、丁寧に接しなさい」
「リューさまは、いつも褒めてくれるよ。みんなと仲良しでえらいねって」
「それならいい。そろそろバーグマン家に帰らないかい?」
「リューさまがそうしろって言ったらそうする」
バーグマン子爵は、すでにリュエルと話している。リュエルはアリサが帰りたいなら仕方ないと言った。
たしかに子爵家では新しい使用人を雇わないと四六時中一緒にいるのは難しい。
今、アリサから目を離すのは危ないだろう。結局ご好意に甘えることにした。
「アリサ、また来るからね」
「はい!」
アリサは基本的には邸内にいて、リュエルにべったりだが、その日はリュエルはどうしても外せない用事で外出していた。
アリサはお絵描きをしていた。
動物の絵を描いては、侍女たちに何の動物か当ててもらうのだ。
アリサの絵は独特なため、なかなか当たらない。
「豚さん!」
「当たり!マーガレットが優勝!」
アリサはやっとマーガレットと呼べるようになった。
ちなみに優勝者には料理長サム特製のお菓子詰め合わせが贈られた。
「アリサ様、お茶にしましょう」
マーガレットとリルナは支度を始めた。
お茶菓子には先ほどの優勝賞品の一部も入れた。マーガレット用にはかなり量が多かったのだ。
「アリサ様、次は何をいたしましょう?」
「リューさまはまだ帰って来ないの?」
不安そうなアリサにあわてて、
「もうすぐです。あと少し」
言ってみたものの、いつ帰るかはわからない。
アリサは泣き出してしまった。
一生懸命泣くのをこらえていたが、ついに止められず、号泣という困ったことになった。
マーガレットとリルナはアリサの気を引くため、綺麗なリボンを机の上に並べ始めた。もしアリサが泣き出したら、使うように坊ちゃんが用意していたのだ。
「リュエル様からのプレゼントです。
どれがよろしいですか?お気に入りを髪に編んで、お帰りを待つのはいかがですか?」
ぐすっぐすっと泣きながら、アリサは机の上を見た。
それぞれ凝っていて、見飽きない。
「これはいかがでしょう。緑はリュエル様の色ですし、今日のドレスにも合いますよ」
緑色のリボンにはレースが上品についていて、とても可愛い。
「アリサ、これにする」
「かしこまりました」
リルナが、アリサの髪をとかし、リボンを髪に編み込んでいく。
「さあ、どうですか?」
「わぁ!」
アリサはその日、リュエルが帰るまでご機嫌に過ごした。
リュエルはアリサの馬車に細工した人物を探させていた。見つかったとの報告を受けて、確認に出向いた。もちろんその人物も憎い。だが、命令したのが誰かを解明したかった。
「俺はやってない」
「俺はやったかもしれないが、脅されて仕方なく」
のどっちかだと男は言う。
後者なら、と手を出した。
その手に金貨を握らせると、
「ミゲル・ファイアット」
そして、男は去って行く。
「追いましょうか?」
「いや、いい。お前の死体は見たくない」
相手が悪い。証言などさせられない。
ミゲルを糾弾することはかなり難しくなった。
邸に帰ると使用人たちの目がなんだか冷たい。
「何があった?」
「アリサ様はずっと起きてお待ちになっていました。リボンを見せたくて。
リュエル様がなかなか帰って来られないため、泣きながら、やっとお休みになりました」
「あー。こんなに遅くなるつもりはなかったんだ」
使用人たちは冷たい眼差しのまま、リュエルの手伝いを始めた。
翌日の朝、いつもより早めにアリサのところへ行くと、アリサは抱きついてきた。
「リューさま」
「うん。昨日はごめんね。そのリボンよく似合っている」
「リューさま」
「うん」
そうしてしばらく抱き合っていた。
使用人たちは静かに見守った。
「えっ、アリサとですか?」
朝ご飯の後に呼び出されたリュエルに公爵夫人はにこやかに続けた。
「そう。私とふたりでお茶をしたいの」
「母上、アリサは子どもです。お茶の作法も、母上への言葉遣いもわかっていません。失礼があるかと心配です」
「それは構わないわ。リュエルがあんなに大切にしている令嬢ですもの。ちゃんと会っておきたいだけよ」
リュエルは、母に弱い。優しい人だが、一癖あるし、リュエルの女性関係にも目を光らせている。
「私も同席していいですね?」
「あら、ダメよ。女性同士で話したいのだから」
そう押し切られた上、今日のおやつタイムに決行と言われて、リュエルは慌てた。
「アリサ、僕の母上がね、アリサとお茶をしたいんだって。急だけど、大丈夫かな?」
あんまり大丈夫じゃないよなあと思いながら、尋ねてみる。
「わかった。お着替えしてくる」
あれ?と思うほどアリサは乗り気だ。
お母様だ!アリサにはいないもん!
リューさまのお母様なら、きっと優しいもん!アリサの本来の記憶が混ざっているのか、アリサはバーグマン家に母親がいないことを覚えていた。
アリサが3つのときに弟を産んで亡くなった母。
父は再婚せずに2人を育ててきた。
決して口にはしなかったが、アリサには母親という存在に特別な思いがある。
リリアス・イルマン公爵夫人は、複雑な思いでいた。女性に興味がなかった次男の思い人アリサ・バーグマン。家格の釣り合いは取れないから、親戚筋の侯爵の養女にしてから結婚。それはかまわない。次男であるリュエルならば。
しかし、問題はアリサの記憶喪失にある。記憶が戻ったら別人ということもありうる。
リュエルと同じように仲睦まじく暮らせるかわからない。
それでも、会ってみようと思うほど、アリサの存在がリュエルの中で大きくなっているのだ。
「そんなに緊張しなくていいわ。おばさんとちょっとお話してほしいだけよ」
そう声をかけてみると、
きれいなカーテシーで、
「アッアリサ・バーグマンです。リューさまのお母様」
カーテシーだけ思い出したのかしら?
リリアス夫人は緊張しすぎのアリサをチラッと観察した。
今日は気合い入れておめかししてきたらしい。化粧はしていないが、本来の15歳の若さが溌剌としていて、ちょっとうらやましい。
リリアス夫人は今も美しいが、リュエルと色が似ており、若い時は男達の憧れで、誰が射止めるのかと注目の的だった。
なんてことを思い出しつつ、アリサは目立たないがずいぶん愛らしい顔立ちだなと思った。磨き方次第だ。
リリアス夫人ならば、アリサを別人のように美しく育てることができる。
その点でも、興味をそそられた。
「お菓子は何が好きかしら?」
「なんでも!サムの料理は何でも好きです!」
なんだか緊張だけじゃなく気合いも入ってるわね、とリリアス夫人は不思議に思った。
「緊張していて、あとはどうしたのかしら?私がこわい?」
「アリサにはお母様いません。リューさまのお母様うらやましいの」
目に涙が溜まっていく。あらあら。リリアス夫人は意地悪をしてるつもりはないのだが、アリサには実の母がいないことを思い出す。
「こちらにいらっしゃい」
リリアス夫人は持っていたハンカチで、
アリサの涙を拭いた。
「アリサのお母様になってくれますか?この邸にいる間だけ」
リリアス夫人はニッコリ笑った。
「期間限定はないわ。ずっとお母様と呼んでいいわ。アリサちゃん」
「お母様、ありがとう」
輝く笑顔。さっき泣いてたのが嘘のようだ。
「では、お茶とお菓子をいただきましょう」
ふたりの優しいお茶会が始まった。
お茶会に関わっていた使用人たちも緊張していたが、アリサが無事にリリアス夫人に好かれたようで安心した。
人目がなければ、よっしゃ!と言いたいところだった。
アリサは公爵家使用人のかなりの数を味方にしていた。
その夜、アリサは頭が割れるように痛いと泣き出し、医者に来てもらった。
治癒魔法もかけた。それでなんとか寝れるくらいの頭痛になったのだが、完全には痛みが消えなかった。
そして目が覚めると、の知らない天井の見たこともない豪華なベッドで寝ていた。
あれ?
そう思いながら、アリサは今日の仕事の予定と、学園に行く時間を考えた。
そして、1か月くらい記憶がないことに
気づいた。
あれ、あれ?
そして、滝の水のように一気に記憶が蘇った。この1か月。
アリサは子ども帰りして、リュエル公爵令息に大切にされていた。
まるで親子のように。
アリサがずっとできなかった甘え方が
記憶喪失のアリサにはできたのだ。
甘えも大事だなとアリサは思った。
それにしても、甘すぎる記憶に赤面が隠せない。
もう一度ベッドに潜って、バタバタと暴れた。
リューさまって何よ
定位置が足の間っておかしくない?
あーんてほぼ毎日やってなかった?
どんな顔してリュエルに会えばいいのだ。
リュエルはがっかりするだろうか。
記憶を取り戻したアリサは甘え下手で気の強い、外見はごく平凡な15歳だ。
トントンとノックがされた。
「アリサ様、入ってよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
マーガレットとルリナが入室し、朝の洗面や着替えなどを手伝ってくれる。
一通り終わったあたりで、アリサは告白した。
「あのね、私記憶が戻ったみたいなの」
「やっぱり、そうじゃないかと思ってました」
「え、なんで?」
「そうですね。表情とか言葉遣いとか」
「じゃあ、リュエル様もすぐ気づくかしら?」
「ええ。たぶん顔を見ただけで気づかれるかと」
アリサは黙り込む。どうしたらいいだろう。正直に話すしかないけれど。
トントンと優しく扉をたたく音がした。
リュエルだ。
「はい、どうぞ」
「記憶が戻ったんだね!」
顔を見るどころか、ノックへの返事だけでわかったらしい。
「おはよう」
リュエルはアリサの部屋に満面の笑顔でやってきた。
「おはようございます。大変お世話になりました」
「ってことは、この1か月の記憶もあるんだね?消える時もあるらしいから」
「はい。後から一気に思い出しました」
「それはよかった」
「そうなんですか?」
「だって忘れてたら、一からやり直しでしょ」
何を?とアリサが首をかしげると、
「どうやら、元の完全なアリサより、ちょっと可愛い成分多めに中和されたんだね」
まだ納得できないアリサだが、リュエルや他の人々への感謝は変わらない。
「本当にありがとうございました。なんだか生き直した気分です」
ミゲルは、毎日不安だった。雇った男と連絡が取れなくなった。もしかしたら、馬車に細工したことがバレたのかもしれない。今のところどこからも反応はないが。
マーシャとの仲は順調だ。それにマーシャの家もわりと裕福なのだ。
婚約の相談をすると、うちから賠償金は払うから、バーグマン家とは完全に切れてほしいと言う。
バーグマン家に婚約解消の申し入れがあり、当主であるトルインは賠償金は、普通の婚約解消で必要な最低額でかまわないと返事をした。有責に持っていくのはやめた。なぜなら、アリサのことがあったから。こちらの浮気ととり、向こうから有責になるのはこちらと指摘される可能性もあるのだ。
まあ何にせよ正式な婚約解消となり、アリサは自由になった。
記憶が戻ったアリサにはまだ会っていないが、アリサが喜ぶ事態になってよかったと思う。記憶が戻って1週間、アリサはまだ公爵家にいる。
花嫁修行だという。
アリサは一度侯爵家の養女になり、そこから公爵家に嫁ぐ。
トルインはさみしいが、婚約がダメになった娘にこれ以上ない素晴らしい話だ。
商会には公爵の手広すぎる人脈を使いたい放題でかまわないとお墨付きをもらっている。
こんなこともあるものなのかと、
不思議な気持ちだ。
ただアリサが幸せならそれでいい。
「アリサ。それではだめよ」
リリアス夫人による公爵家のお作法をアリサはリリアス夫人中心に習っている。
ダメ出しもあるけれど、本当のお母様のように優しい。それに、
「アリサはセンスがいいわ」とうれしい言葉ももらっている。
努力することは苦にならない。
リュエルは時々やってきては、
「つらいことはない?大丈夫?」
と激甘だ。アリサもそうだが、今回の記憶喪失では周囲がびっくりするほど人が変わったのはリュエルもだ。
婚約はもうすぐと決まっているけど、
リュエルはもうすぐにでも結婚したいらしい。それを止めて公爵家にふさわしい振る舞いを覚えてから、と言っているのはリリアス夫人。
だから、アリサも一生懸命覚えている。
飲み込みが早いから助かるわー
うちの息子なんかごめんねーと
リリアス夫人は苦笑いしていた。
アリサ的にはどこにも問題はない。
リュエルは問題だらけらしい。
ちょっと他の男性と話していると
「さっきは何を話していたの?」
「母上とばかり仲良くしないでね」
嫉妬するって気持ちを初めて知ったとリュエルは言う。
まああまりひどかったら、叱るつもり。
今はうれしいって思うけど。
アリサはなかなか面白いところに自分は着地したと思っている。
これからの毎日が楽しみだ。
アルファポリスさまにも掲載しています。