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潮流

作者: 風雅ありす

「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」

地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンの『支那旅行日記』より


  * * *


潮の匂いがする。

不規則に揺れる新幹線の窓に頭を預け、そのリズムを身体に刻み込もうとするように私は目を閉じた。

東京から目的地の広島まで新幹線で約四時間。駅弁を買って乗り込んでからまだ1時間半ほどしか経っていない。

大学進学で東京へ出て以来、実家へ帰るのは、年にお盆と正月の二回だけ。

それが三年目ともなれば、今どのあたりを走っているのか、窓の外を見なくても体の感覚で大体は判る。

山とトンネルの応酬、延々と続く田園風景。

それらを見る度、自分がとても遠い場所へ行ってしまったのだということを痛感する。


『おばあちゃん、もう危ないんよ』


 大学三年生の夏は、バイトと就活で忙しく、今年の盆の帰省は見送ろうかと考えていた矢先のことだった。

母は電話口でいつもより声の調子を落とし、申し訳なさげにそう告げた。


 母も私の事情を気遣い、それまであまり祖母の容態について話さないようにしてくれていたのだろう。

春先に体調を崩して入院したことは聞いていたが、それほど深刻な様子でもなさそうだったので、すっかり忘れてしまっていた。


 帰ってきなさい、とは言われなかった。

ただ、どうする、とだけ聞かれたので、私は一瞬迷った末に、今週末に帰ると答えた。

バイト先に事情を話すと、快くすぐに代わりの人を手配してくれたので、私はとりあえず一週間ほど休みをもらうことにした。


 帰ってきた。


そう強く感じるのは、駅のホームに降り立った時に肌で感じる瀬戸内海特有の湿気を含んだ空気でも、駅中のお土産屋さんで売っているもみじ饅頭でも、お好み焼きの匂いでもない。


 閉じた瞼の裏にじわりと熱を持って浮かび上がる黒い塊。

静かだが、その存在を確かに主張する耳障りな音。

ねっとりと肌に纏わりつき、ざらりと舌の上で砂が転がるような匂い。

それらは、私が実家のことを考えたり思い出す時、必ず私の身に再現される。

訳もなく感じる静かな苛立ちとともに。


 私の実家は、山を切り崩して作った高台にあり、海は見えないが、家の裏手にある坂道を下った先に入江になった小さな湾が現れる。

普段は潮の匂いなどしないのに、時折海から吹く風に乗ってやってくるその香りが私は嫌いだ。

どこかの釣り人が捨てていった魚の死骸を見つけた時のような気分になる。

私は、ペットボトルに入ったお茶と共にその感覚を飲み下すと、座席に深く身を沈めた。

新幹線の揺れは不規則だが穏やかで優しく、いつしか私は眠りに落ちていた。


「おかえり」


新幹線の改札を出たところで母の笑顔が私を迎えてくれた。

半年ぶりに娘に会えた嬉しさと、それを素直に喜んでいいのか複雑な面持ちでいる。それでも、不安げな表情の中にどこかほっとした顔を見つけると、ここへ帰ってくることを一瞬でも迷ったことに少し胸が痛んだ。

病院を訪れると、祖母の意識はなく、ただ静かに病室のベッドで仰向けに横たわっていた。

身体から延びる幾本もの管やコードがなければ、ただ眠っているだけにしか見えない。

穏やかな寝顔だった。

今にでも起きて、よく帰ってきたね、といつもの優しい笑顔で私を迎えてくれそうな気さえする。

ただ、久しぶりに見た祖母の顔は、記憶のものより白く痩せ細っていた。


 祖母の容態は一旦落ち着いてはいるが、いつどうなるかわからない状態らしい。

だからと言って、このままずっと病院にいるわけにもいかない。

そこで、何かあったらすぐに連絡をもらえるよう家で待機することになっている、そう母から説明を聞かされた私は、後ろ髪を引かれながら再び家へと戻った。


「就職活動はどう? 順調に進んどる?」


 少し早めの夕食に、母が作ってくれたお好み焼きを味わっていると、母が唐突にそう切り出した。

父は仕事で帰りが遅くなると連絡があったため、今は母と二人きりだ。

他に話題もないので致し方ない。

私は、急に味のしなくなったお好み焼きのそばを飲み込むと、うん、まあぼちぼちね、と箸を動かしながら答えた。


「今はどこも就職難じゃろう。

 やっぱり母さんは、公務員の試験を受けるのが一番良いと思うんよね。

 幸乃は、昔から勉強がよう出来とったし、父さんに似て責任感も強いマメな子じぇけえ、きちんと勉強すればきっと受かるんじゃないかねぇ」


 リビングのテレビからは、最近人気が出てきた芸人がつまらないギャクで笑いを取っている。

反応のない私に何かを察したのか、それか、と母は続けた。


「もしそっちでうまくいかんようなら、いつでも帰ってきてええんよ」


 私はテレビの音で聞こえないフリをした。


 夜の九時を過ぎた頃、妹の舞が制服姿で帰って来た。

今年中学三年生になる舞は、夏休み中も高校受験のために塾へ通っているらしい。

こんな時でも、周りの人の時間はいつも通りに進んでいくことに私は軽い空虚感を覚えた。

おばあちゃんは、と舞が訊くと、母は眉尻を下げて首を振った。

今のところ家の電話は沈黙を守っている。


 舞は、夕飯に塾で食べたらしい空のお弁当箱を出すと、台所で洗い物をしている母に聞こえないよう私のすぐ耳元まで来て言った。


「お姉、ちょっと話があるんだけど」


 そのただならぬ様子に私が目で頷くと、舞は二階にある自分の部屋へと上がっていった。

続いて私も、二階にある自分の部屋へ行くフリをして、舞の部屋をノックする。

中からどうぞ、と声がするのを待って中へ入ると、舞は制服姿のまま勉強机に向かって腰かけていた。


「どしたん、んな怖い顔して」


 振り返った舞の顔があまりに真剣で、私は少し茶化すように笑った。


「ミセンにある霊薬の話、知っとる?」


あまりにも唐突だった為、私は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。

舞が、宮島の、と付け足してはじめてそれが弥山という山の名前であることに気が付いた。

宮島で手軽に登れる山として観光スポットの一つとなっている。

まず広島住人で知らない人はいないだろう。しかし、 “霊薬”という聞きなれない言葉に私は眉根を寄せた。


「霊薬って?」


「千年以上も消えんで燃え続けとる“消えずの霊火”っていうのがあるんじゃけど、その火で沸かした霊水には、万病を癒す効果があるんよ」


私は、舞が言わんとしていることにすぐ気付いたが、無言で話の先を促した。


「それを飲めば、おばあちゃんの病気、治るかもしれんじゃろ。

 だからお姉、今から一緒に取りに行こう。

 お姉も、おばあちゃんにまだ生きてて欲しいじゃろ?」


「今からって……今何時だと思っとるんよ。

 いつ病院から連絡が来るかもわからんし、今はそんな所に出掛けとる場合じゃないじゃろ。

 それに、そんなもの飲んだからっておばあちゃんの病気は……」


 私は、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

舞の私を見る目があまりにも真剣だったから。


「ウチ、おばあちゃんを助けたいんよ」


 舞の目には、不安と怯えの中に確固とした揺るぎない強い意志の力があった。

それは私の心を甚く揺さぶったが、行動を起こすまでには至らなかった。

舞は、私の賛成が得られないと判ると、肩を落として目を伏せた。


「お姉ならわかってくれると思っとったのに」


 いつも明るい舞が項垂れる姿を見るのは胸が痛んだが、私にはどうしようもない。

馬鹿なこと考えてないで、受験生は受験勉強でもしてなさい、とだけ言って部屋を出た。


 その夜、舞が消えた。

明け方近くにトイレに起きた私は、なんとなく妙な胸騒ぎを覚えて、そっと舞の部屋を覗いた。

電気の消えた部屋は真っ暗だったが、私にはそれだけで舞が部屋にいないと判った。

子供の時分から舞は、寝る時に小灯を点けていないと眠れない。

灯りをつけて確かめてみたが、やはり部屋はもぬけの殻だった。

一応、舞の携帯に電話をかけてみるが繋がらない。

電源を切っているようだ。


 舞の行先は決まっている。

 私は、急いでタクシーを呼んで身支度を整えると、舞を連れ戻すために広島駅へと向かった。


(ばかなことを……)


まさか本気で霊薬などという胡散臭い代物を信じているのだろうか。

昔から素直で人を疑わない少し危うい性格ではあったが、もう少し賢い子だと思っていた。

所詮まだまだ子供だったということか。 


(もっとちゃんと話を聞いてやればよかった)


 それほどまで舞が祖母のことを真剣に想いやっていたことに私は初めて気が付いた。

三年前に祖父が亡くなって一人になった祖母を、うちの両親は快く家へ迎え入れた。

私は、大学進学と同時に家を出て上京していたので、祖母との関わりは薄かったが、その間、舞は祖母との交流を深めていったのだろう。


私は、まだ薄暗く灰色に染まる街並みを横目にため息をついた。

まだ早い時間帯なので道路は空いている。

タクシーは、二号線を抜けて、マツダ本社工場の前を過ぎるところだった。


 小さいなぁ、と思う。

この小さくてごみごみとした町が嫌いで、私は家を出た。

両親や祖父母のように、このままここで一生を終えたくはない。

私が古い決意を改めて胸に刻んでいる間、タクシーは猿猴川沿いの道をすいすいと進み、やがて古びた石造りの橋が見えてきた。

この猿猴橋を越えると広島駅はすぐ目の前だ。


 広島駅南口のタクシープールで下車した私は、広場の噴水脇に腰掛けている舞の姿を見つけた。

ここまで歩いて来たのだろう。

赤いリュックサックを背負い、紺色で半袖のポロシャツにGパン、スニーカーという出で立ちだ。

私が舞、と声をかけると、舞は、ぱっと顔を上げてこちらを見た。

その顔が驚きの表情から一変し、おねぃ、と泣き出しそうな顔で言った。


「財布忘れたぁ~」


 私と舞は、JRの始発に乗り、宮島口駅へと向かった。

本当のところは、舞をなんとか説得して家へ連れ戻すつもりだったのだが、舞は頑として譲らない。

 結局、私が折れた。


「舞の気持ちはわかるけど、身内が危篤状態だっていう時にこんなことするの、あんたくらいのもんよ。

 第一、霊薬だかなんだか知らんけど、本気で信じとるん? あんたあほなの?」


「あー、あほって言った方があほなんよ」


「ってか、あのまま私が来なかったら、どうするつもりだったん」


「まあ、どうにかなったんだからええじゃろ」


 あはは、と呑気に笑う舞に、私は彼女との血縁関係を疑いたくなった。

さっきまで泣きべそをかいていたことなどなかったかのように、駅中で買った二重焼きを美味しそうにぱくついている。まるで遠足気分だ。 


 電車を待っている間、母には事情を説明するべく携帯へメッセージを送っておいた。

おそらくまだ寝ているだろうから、姉妹が揃って家を抜け出していることを知ったらきっと驚くだろう。

父は古い考えの人なので、年頃の若い娘が二人揃って家を抜け出すなんてと怒る姿が目に浮かんだが、そこは母に宥めてもらうしかない。


 宮島口駅まで行くには、路面電車を使う方法もあるが、そちらでは時間がかかりすぎるためJRを選んだ。

とにかく一刻も早く宮島へ行き、霊薬とやらを手に入れて家へ帰るしかない。

それまで祖母の容態が急変しないことを祈るばかりだ。


「おばあちゃんが教えてくれたんだけどね」


 舞が二つ目の二重焼きに手を伸ばしながら、先ほどの私の質問に答えてくれた。

昔、祖母の子供――つまり私たちの父親だ――が赤ん坊の時に高熱を出したことがあったらしい。

当時はまだ今ほど医療技術が発展していなかったので、産まれてきた赤ん坊が死んでしまうことはよくあったそうだ。

 そのため祖母は、父を助けるため、その霊薬を手に入れようと父を背負って弥山を登った。

そして、手に入れた霊薬を飲ませると、父の熱は嘘のように引いていったという。


「つまり、その霊薬を飲んだおかげで父さんは死なずに済んだ、そう言いたいん?」


 私の不信感溢れる視線などものともせず、舞は、瞳を輝かせながら大きく頷いた。


「奇跡が起きたんよ」


 どうやら私の妹は、正真正銘のあほのようだ。


「今、ウチらがこうして生きていられるのも、ぜーんぶ、あの時おばあちゃんが苦労して霊薬を手に入れてくれたおかげかもしれんのよ。

 どう、ありがたみが沸いてくるじゃろ」


 得意げに話す舞には悪いが、現実主義の私には到底信じられない話だ。

祖母の作り話か、もしくは、霊薬の効果ではなく単にタイミング良く病が快方に向かったというだけのことだろう。

真偽のほどは判らないが、私は頭に浮かんだ別の懸念を口にしようとしてやめた。

奇跡は二度は起こらない。


 宮島口駅には約三十分ほどで到着した。

ここからは、フェリーに乗って宮島へ渡る。

フェリー乗り場前にある売店では、あなご飯やもみじ饅頭などの看板が出ていたが、まだ店は閉まっていた。

舞は、それらを物欲しそうに見やりながら、帰る時のお土産にしようと言うので、私は呆れてしまった。

どうせなら楽しみたいじゃん、というのが舞のポリシーらしいが、単に自分が観光したかっただけなのではと疑ってしまう。

受験勉強の息抜きに、と舞ならやりかねない。


 フェリーでは、風を受けたいという舞に付き添いデッキへ出た。

舞は始終楽しそうにしていたが、私は潮風に踊らされる髪の毛がべたべたと頬に張り付くのを鬱陶しく感じて仕方なかった。

出発して5分も経たないうちに前方に赤い鳥居が見えてきた。

小さな頃から当たり前のように思ってきたが、改めて見てみると異様な光景だ。

今は満潮時で海の上に建っているように見えるが、干潮時には鳥居の足元まで歩いて行くことができる。


 鳥居のある厳島神社は、ユネスコの世界文化遺産として登録されている。

このことは世界的に有名だが、これが広島県に含まれていることを知っている人は意外と少ないということを、私は家を出てから初めて知った。


フェリーを降りたところで宮島の観光マップを入手し、弥山への道のりを確認していると、私の携帯が着信を告げた。

母からだ。私が出ると、予想通りの反応を示す両親に私はただ一言、私に任せて、と言った。

父は納得していなかったが、母は思うところがあったのだろう、舞をお願いね、と言うと電話を切った。


 その舞はと言うと、餌目当てにわらわらと集まってきた鹿と戯れ始めていたので、無理矢理引き剥がし、足早に弥山へ向かった。

観光マップから一番早い登山ルートを選び、もみじ谷公園を通っていく。

登山口前には、ロープウェイの案内が出ていたが、朝早い時間帯なので動いていない。

自分たちの足で登るしかない。


 弥山は、標高五三五Mの山だ。登ったことはなかったが、大したことはないだろうと高を括っていたら、登り始めて早々に後悔することとなった。

とにかく斜面が急なのだ。

密に乱立している木立のお陰で真夏の炎天下に直接晒されることは少なかったが、舗装されていない山道は一人分の歩く幅しかなく、岩が隆起している箇所も多くて歩きにくいことこの上ない。

観光スポットの割に経費削減してんじゃねえ、と心の中だけで悪態をつきながら登ったが、弥山の山麓は、ユネスコの世界遺産『厳島神社』の登録区域の一部となっているため手を加えられないのかもしれない。

私は、歩き始めて数分で汗だくになっていた。


 舞は、部活動のソフトテニスで多少鍛えているからか、常に私の先を行く。

何度私が待ってと声を掛けたか分からない。

その度に舞は、早くと私を急かしつつも私が追いつくのを待ってくれた。

若さの違いだとだけは決して思いたくない。


(なんでこんなことに……)


 やはり舞を無理矢理にでも家へ連れて帰るべきだったのだ。

舞の気持ちはわかる。

大好きな祖母のために何かしたいというもどかしい程に健気な想いに、姉として見守ってやりたいという妙な矜持を抱いたが為に、こんなことになってしまった。


 本当は、こんなことをしている場合ではないのだ。

母に言われるまでもなく公務員試験の勉強もしてはいるものの、本当に自分がしたいことは何なのか、未だ見い出せずにいる。

そんな状態で就職活動がうまくいく筈もなく低迷している。

舞の為だと言いながら本当は自分こそが現実逃避をしたかっただけなのかもしれない。

それにしては厳しい現実逃避だ。

祖母もこの道を登ったのだろう。幼い乳飲み子を背負い、子を助けたい一心で。

まるで今の私とは真逆な境遇に自己嫌悪を覚えた。


 しばらく無心で登り続けた。どれくらい経っただろうか。

突然、舞が立ち止まった。

頂上に着いたのだろうかと舞の肩越しに顔を覗かせて、私は息が止まった。

声が出ない。肺が酸素を欲しているのも忘れた。


 それは、ただただ美しかった。

 眼下に紺碧色の海が広がっている。

対岸までぷかぷかと幾つかの島が浮かんでいる様は、まるで天空に浮かぶ大きな湖のようだ。

同じ海でも、東京で見る荒々しい海とはまるで違う。

穏やかな海面は一見凪いでいるように見えるが、その体内では、激しい潮流が川のように幾つも流れており、要所要所ぶつかり合い渦潮をつくる。

この激しい潮流差によって海底部の養分が巻き上げられ、この瀬戸内海を豊かな漁場とたらしめているのだ。

何十年、何百年経っても色褪せない美しさ。

それこそこの景色の真価だと思った。


 胸のすく想いがした。これまで悩んでいたことが全て些末なことに思えた。

それだけ目の前の情景が圧倒的すぎたのだ。

身体が熱いのは単に山を登って来た所為だけではないだろう。

心が震える。景色を見て感動したのは生まれて初めてだった。

これが瀬戸内の海なのか。


「おばあちゃんも、この景色見たんよね」


舞が呆然と呟く。今では祖母の気持ちが解る気がした。

こんなに美しい景色を目にしたら、ここで生きていきたいと強く想っただろう。

子供にもこの景色を見せたいとも思うだろう。

そして、その孫にも――。

私は、初めて自分が生まれ育ったこの地を誇りに思った。


 霊火堂で舞は持参した水筒に霊薬を入れてもらうと、大事そうに背中のリュックに仕舞った。

しかし、その表情は堅い。

本当は舞にも解っているのだ。

霊薬を持って帰っても、祖母の病気は治らないと。

それでもここへ来たのは、他に縋りつけるものがそれしかなかったからだ。

帰りはロープウェイで降りようと話していた時、再び母からの電話が鳴った。

私たちは互いにはっと顔を見合わせた。

切羽詰まった声で母は言った。


『おばあちゃんが……』


私たちはロープウェイで下山するとフェリー乗り場へと走った。

来た道順を逆に辿り広島駅まで戻ると、タクシーを拾い、祖母の入院している病院へ向かう。

そこには、意識を回復した祖母の笑顔が待っていた。


「そう簡単に死にゃあせんよ」


舞が泣きながら手に入れた霊薬を渡そうとしたが、祖母は笑顔でそれを辞退した。


「ようけえ生きたけえ、はぁええ」


その三日後、祖母は眠るように静かに息を引き取った。


「おばあちゃん、幸せだったんよね」


通夜と葬式が終わった夜、舞が初めて口を開いた。

私は、最後に見た祖母の笑顔を思い出しながら、ほうじゃね、と答えた。

すると舞が突然、あっ、と声を上げる。


「お土産忘れた」


 私はそんな舞に呆れつつも笑みを返した。


「また行けばいいよ」


 そう、ここで生きていればいつでも行ける。


 父に霊薬の話を聞くと、そんなこと言ってたっけなあと頭をかいていた。

本人は信じてないようだったが、その時、霊火堂で撮った写真が残っているというから登ったことは事実だったのだろう。

霊薬の効果が嘘か本当かは解らないままだが、それで良かったのだと思う。

舞は、自然といつもの調子を取り戻しつつあったし、それこそが祖母の最後の思惑だったのではないかと思えたからだ。

 そして私は、広島の公務員試験を受けることに決めた。

祖母が愛し、一生を過ごしたこの地を私も愛おしいと思うようになっていたからだ。


 瀬戸内の海は、今日も静かに私たちを包み込むように横たわっている。


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