檻の中の魔女
下水道のような穢れに満ちた廊下を進んでいくと、少し開けた空間に出る。そこには、他よりも一際大きな牢屋があり、中には一人の美女がいた。
ドス黒く重たい空気が充満する中、その女は場違いのごとく光り輝いていた。不思議と艶のある桃色の髪に柔らかそうな白い肌、そして燃えるように赤い瞳――――敷居の高い風俗店でも、お目にかかることはできないくらい、美しい女であった。
それほどの美女が今、こんな悪臭漂う腐った部屋の中に一人、囚われている。実に劇的なシチュエーションだ。
女は一言も発さず、三角座りのまま微動だにしない。飯にも手を付けず、同居人のネズミかゴキブリが代わりに食していた。
「食わないのか?」
担当看守――――ハロル・ベックマンが退屈しのぎに声をかけた。
「せっかくお国のご厚情で飯が出されてるんだ。ありがたく食っとけよ――――まぁ、それを飯と言っていいかは知らんけど」
女の前に置かれているのは、カビに侵食されたパン一切れ。無期服役身分以上の重犯罪者には、必ずこれを出す決まりである。
「平気。ていうか、これ食べて栄養とれると思う?」
至極真っ当な問いに、ハロルは無言を貫いた。酒の蓋を開け、ボトルから直接飲み始める。
「ま、そんなもん食うくらいなら、お前さんの好物の方がまだマシかもな」
「そういうこと。だったら、ほら。早く」
「へいへい、わかったわかった」
ハロルは胸ポケットから白い小箱を取り出すと、それを牢屋の中に投げ入れた。女は「きたきた」と嬉しそうに呟きながら、その小箱の蓋を開けた。
中には、木くずのようなものがギュウギュウに詰まっていた。
女は近くに置いてあったパイプの中にその木くずもどきを入れ、これまた近くに置いてあったマッチを使い、木くずもどきに火をつけた。
「スゥゥゥ〜〜……プハァァ〜〜!! ああ〜、極楽極楽ぅ」
「相変わらず旨そうに吸うよな、お前」
「だって実際旨いんだもの。は〜〜、生き返るぅ」
「お前以外に見たことねぇよ、そんな風に吸うやつ」
「そぉ? 結構いると思うよ? 愛好家」
「いやまぁ、愛好家は山ほどいるだろうけどさあ」
そんなのんべえみたく吸う輩はいないだろう――――と心の中で呟く。そもそも、煙を吸うことが目的で吸っている人間がどれほどいることか。少なくとも、ハロルの周りにそれらしい人物は思い当たらない。
「てゆーかさぁ、看守殿ぉ、もうちょいタバコの数増やしてくれないですかねぇ?」
「勘弁してくれ。これ以上増やすと長官に殺されちまう」
「そこはほら、ハロルちゃんの魅力をフルに使ってさ、オネガイしてみたら?」
「ちょうか〜ん、おねがいしますぅ〜。どうかあの哀れな魔女に御慈悲をお与えになってくださいませ〜〜、ってか」
「うわキモっ。私だったら即殺すわ」
「ひっぱたくぞばあさん」
彼女の担当になってから十余年。いつの間にか、互いに軽口を叩けるくらいの仲になってしまった。看守として正直それでいいのかと思うが、どうもこの女の前ではつい気が和らぐ。
酒のせいか、あまりにも退屈だからか、あるいは自分の人生に何も求めなくなったからか……いずれにせよ、ハロルにはどうでもよかった。
牢の中の魔女は変わらず、煙を旨そうに吸い続けている。さっきまでこの世の終わりみたいな表情をしていたくせに、今ではスイーツを味わう少女の如く瞳を輝かせている。
「ねえハロル、あんた今いくつだっけ?」
煙を吸って調子付いてきたのか、今度は魔女がハロルに声をかけてきた。
「あん? んなこと聞いてどうすんだよ」
「いいじゃん、で何歳?」
「俺の意思は無視かよ……今年で二十九」
ため息をつきながら答えるハロル。それに対し、魔女は少し驚いたように目を見開いた。
「はえ~~、若いねぇ。人生油乗ってる頃じゃ〜ん。うらやましいねぇ」
自分より遥かに若く見える奴にそう言われても、皮肉にしか聞こえない。
「こんなしみったれた所に勤務してる時点でお先真っ暗だよ。それに二十九なんかもうおっさんだよおっさん」
「ああーーまあ、ねぇ……確かにちょっと髪薄くなったし、皺も見えてきたから……ピッチピチとは言えないかもね」
「げっ、まじかよ……自覚あったとはいえ、他人に真っ向からそう言われるとガチでへこむな……」
あからさまに肩を落とすハロルに、魔女はクスッと小さく笑った。
「何? 気にしてんの?」
ニヤニヤ笑みを浮かべる魔女をジロッと睨みながら、ハロルはゴクゴクッと勢いよく酒を飲んだ。
「大丈夫だって、確かに老けてはきたけど、まだ全然若いよ。その程度、誰もわかんないって」
「お前に指摘されてる時点でもうなぁ……」
「クヨクヨしない! 人間誰しも老けるもんです」
「そういうお前は全然老けないな」
「まあ、あなたたちと違ってワタクシ、魔女ですし?」
「うらやまし」
恨み節を込めてお返しするハロル。すると、檻の中の魔女はますます嫌らしい顔つきになった。
「え、何? ハロルくん女性願望あんの? さすがに引くわ」
「んなわけねぇだろ、老けないことにうらやましいって言ったんだよ」
煙のせいか、魔女はハイになっているらしい。少し慌て気味になっているハロルを見て、ギャハハハと下品な笑い声をあげている。悪酔いババアを見ている気分だ。
「そっかそっかぁ、ハロルももうおっさんかぁ」
「あんま『おっさん』を強調するんじゃあない」
「事実なんだし、別に恥じることなくない? 鼻垂れ小僧って呼ばれるより全然いいでしょ」
「……まあ、そっちよりは」
「でしょう? おっさんになったぶん、ハロル坊やは成長したということですよ」
「…………」
この年になっても子供扱いかよ――――
ハロルはどことなく納得がいかなかった。こっちは順当に年をとっていく中、この女は時が止まったかのように変わらない。十年以上経ても、初めて会った頃のまま――――若くて愛らしい少女顔だ。
いずれ、ハロル自身がヨボヨボの爺さんになったとしても、目の前の魔女様は今と変わらぬままなのだろう。
本当に、本当に羨ましい限りだ。
「なあ」
いつもよりぶっきらぼうに――――普段からぶっきらぼうな口調なのだが――――ハロルは魔女に呼びかけた。
「んん? なぁに?」
「お前、いまいくつだよ?」
「えぇ〜? 女性に年聞くのは重罪だよキミ〜」
「うるせ。お前だって聞いてきただろ」
「女はいいの。男なんてあんま年のこと気にしないじゃん」
「偏見だな。男も年のことは気にするんだよ。口に出さないだけで」
「そんなものかねぇ」
「そんなもん。百年近く生きてるくせに、知らねえのかよ?」
「う~ん、私の知ってる男どもは皆気にしない性質だったからなぁ……てっきりその程度のことなんだって、ちょっとうらやましく思ってたよ」
「そうかい」
どこかもの寂しげな表情を浮かべる魔女を見やりながら、ハロルは酒を口に含んだ。今度は少量で、ゆっくりと。
ここに赴任されて二年、ハロルはいまだこの魔女のことを掴めないでいた。名前も知らないし、そもそもどんな罪でここに放り込まれているのかもわからない。
何か重大な、関わったらまずいレベルの秘密を抱えてるのは確かだが、この通り、普通に会話する分には無害なので、ハロルも気を楽にしている。
何より、これ程の美女とこうして二人きりで過ごせること自体、男として何よりの幸せではないだろうか。特にあれこれ考えず、好きな酒を飲みながら美しい友と雑談を楽しむ……最高のシチュエーションだ。
「つーかさ、前々から思ってたけど、勤務中に酒飲んでいいわけ?」
「いいんだよ、誰も来やしないんだから」
「そんなふうに油断かましてると、お偉いさんとか来ちゃうぞ〜」
「そのお偉いさんは今頃、俺の同期と仲良く乾杯してるよ」
「ああ、アルくんも不真面目看守筆頭だったね」
「アルくん」とは、ここの刑務所を管轄している看守長――――ハロルの上司にあたる人物だ。魔女とは昔馴染みらしく、お互い愛称で呼び合う仲なんだとか。
不思議な気分だ。この美女とあのハゲオヤジが同い年などと誰が想像できよう? 魔女は歳をとらないとわかっていても、簡単に納得できるものではない。
魔女とは一体何なのか?
不老の肉体を持つ女性であることと、少し特殊な能力を持っていること。それ以外は他の人間と変わらない、少し特異な生命体。その正体は謎に満ちており、当の魔女自身も自分達が何者なのか上手く説明できない。
太古の昔に存在したとされる異人類の生き残り、という説が濃厚らしいが……いずれにせよ、一看守に過ぎないハロルには関係ない話だ。
確かなのは、この魔女は囚人であり、自分は彼女を監視する管理人だということ。結局のところ、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「アルくんの元で育つとろくな大人にならないからね〜。ハロルくんも気をつけなよ? あのクズは反面教師として見るように」
「罪人が堂々と所長の悪口を言うとはな」
「いいじゃん、別に。聞いたからって死ぬわけじゃないんだし」
魔女はケラケラ笑いながら、再びパイプを口に近づけた。豪華な楼閣の女主人みたいな佇まいに、ハロルは思わず息を飲んだ。本当に、憎らしいほど美しい。
「そういえばさ」
ハロルはグラス内の酒を一気に飲み干した後、こう切り出した。
「結局、あんたの罪状って何なんだよ?」
「へっ?」
酔いがいつもよりまわっているのか、ハロルにしては珍しく勢いのある質問だった。魔女にとっても予想外なのか、初めて心底驚いたような顔をハロルに見せた。
「意外。そういうややこしいことには首を突っ込まないと思ってたけど」
「たまには看守らしさも見せておこうと思ってな」
「ふ〜ん……」
途端、魔女の雰囲気が変わった。
さっきまでの能天気さは消え失せ、凍てつくような冷たい視線を、酔っ払ったハロルに向ける。ハロル自身も変化を察したのか、思わず息をのんだ。
「本当に、知りたいの? わたしのこと」
ヒタ、ヒタ、と四つん這いで魔女が近づいてくる。檻の中にいるのはわかっているのに、ハロルは思わず後ずさりした。それくらい、ただならぬ気配だった。
「わ、悪いかよ……」
「ううん? 確かに、何も知らないまま仕事するのも嫌な感じよね? あなたの気持ち、よく分かるわ」
ニコッと魔女が微笑む。今までで一番美しく、邪悪な笑みだ。
「じゃあ、なんでそんな怒るんだよ……」
「ううん、怒ってないよ? でも、知りたいんでしょ、わたしのこと。なら、わたしの本当の姿、見てもらわないとね」
そうして、魔女は真っ白な肉体を露わにした――――
☆ ☆ ☆
「またやってくれたな、アムゥ。あまり若いもんをからかわないでくれ」
数日後、魔女ことアムゥのもとにハゲ頭の看守長がやってきた。葉巻の煙を深く吸い込み、ため息と同時に思い切り吐き出す。常に苛立っているかのように眉をひそめ、相手に圧を与える。典型的な怖い上司だ。
「え〜〜、わたしはお勤めを果たしただけだよぉ?」
「うるせぇ! あんなに精気搾りやがって! おかげでハロルのやつ、一ヶ月も病院生活になったんだぞ! ただでさえ人手不足だってのに……」
「最近の若者は軟弱だねぇ、アルくん」
「……時代が変わったんだ。もう少し手加減してやれ」
「やだ、わたしが満足できない」
アムゥは決して手を抜かない。いつだって任務に忠実、そして自分の欲望に忠実な女だ。看守をもてなす魔女としての自分に誇りを持っているし、これからもその誇りを大事にするだろう。
「十年ぶりの上玉だったんだけどなぁ……ハロルくん。復帰したらまた来てくれるといいけど」
アムゥはハロルとの夜を思い出しながら、心底ご満悦な表情を浮かべるのだった。