猛暑
誰かに届けたいわけじゃない。
届いたところで誰かを振り向かせることはできない。
これはただの自己満足だ。それは分かっている。
この一方通行の感情はどこで終点を迎えるのか。それすらも分からないまま僕は今日も意味を持たない言葉の羅列を書き続ける。
僕はそれで十分だった。
6月初旬から例年通り梅雨に入った。夏を見据えた25度超えの暑さと身体に纏わりつく梅雨特有の湿気に佐藤は朝から苛ついていた。
毎朝電車通勤の佐藤はあと1分程で発車する二両編成の午前6時29分発鞍馬行き叡山電車に乗り遅れまいと改札を小走りで抜けた。電車は佐藤が乗り込んだ直後に扉が閉まり重い車体を動かした。
普段ちらほらと席が空いている電車内も今日はなぜか乗車人数が多く、佐藤が通勤の際決まって座るシートはスーツを着たサラリーマン風の男に取られていた。
寝坊したことといい今日はツイてない日だと佐藤は心の中で舌打ちをした。
乗車時間約15分程で佐藤の職場である徳明小学校の最寄り駅に着く。電車を降りて、駅から小学校までの間にあるコンビニでエナジードリンクを買って飲み干してから出勤するのがお決まりのルーティーン。基本的に朝食は摂らない佐藤はこのエナジードリンクを朝食の代わりにしていた。
小学校教諭の免許を取得して3年。20歳の冬に高卒で就職した自動車関係の会社を自己都合という理由で辞職した佐藤はそこから児童館の臨時職員のアルバイトをしながら夜間大学に通った。前職を辞めた理由はありきたりだ。このまま、やりたいことが特にないからという理由で入社したやりがいを見出せない仕事に一生を尽くすのが嫌になったのだ。実家に戻り次は何をしようかとニート生活を送っていたところ、13歳下の弟の面倒を見ているうちにこの小学校教諭という安定した公務員の仕事に就こうと考えたのだ。
午前7時、職場に到着し先に出勤していた先生方に一通り挨拶した後、自身のデスクですぐさまパソコンを開く。昨夜は一昨日行った小テストの添削をしていたため今日の授業準備が進んでいなかった。今日は1時間目から体育、国語、算数、図画工作、社会となっている。1時間目に体育をする日は後の授業で子供たちは疲れて集中力を失う。そのため体育後の授業については少し工夫しながら進めなければならない。4年間大学に通いながら勤めた児童館のアルバイトスキルにより学習に対するやる気の出させ方は知っている。だが自身が準備をしっかりと行っており心に余裕がある場合でないとスキルは発動しない。そこまで頭が回らなくなるのだ。そのため、今日のような授業過程の日はいつもこなすだけのようになってしまっていた。
パソコンの起動を待つ間コーヒーでも淹れようかと席を立ち上がったところ、学年主任の小林に手招きされた。
「おはよう佐藤先生。今日ね、2時間目国語でしょ?その時に授業の最初だけ体育館に残っててくれないかな?生徒は教室に帰して自習でもさせておいてさ。ていうのも夏に6年生の思い出作りのために行う学校宿泊体験の箸休めイベントでしようと思ってる跳び箱チャレンジの限界段数を調べておきたくてね。ほら、最近佐藤先生のクラスで8段まで跳べる子が少しずつ出てきたでしょ?この調子だと9段10段と跳べるようになって、それはいいんだけどこの宿泊体験は親同伴だから跳べるとこまで跳ばすと怪我の心配で親があまり楽しめないなんてこともあると思うんだ。後からクレームが来ても困るし。だから学校側としては事前に教師が試して限界段数を決めてますって形で保険をかけておこうってことになったんだ。だから佐藤先生には体育館に残って跳び箱を跳んでもらいたいんだ。学生時代ずっとバスケしてたでしょ?だから頼むね。」
2時間目の前半を自習にするのは授業準備が少し楽になるから良いとして、佐藤は自身が跳び箱を跳べるかどうか心配だった。跳び箱なんて何年ぶりに跳ぶのだろう。近年まともな運動を行なっていないため怪我がとても心配だ。バスケも高校から始めたもので現役時代大して結果も残さず、使用していたボールは現在実家の押入れのどこかの段ボール箱に埃を被って眠っている。というか試すだけの用ならその時間に授業がない他の先生がやればいいのではないか。小林はいつもそういった誰でもいいような仕事を使いやすい佐藤に回してくる。小林が佐藤に向けた嫌な笑顔が頭の中で何度も思い返された。佐藤は自身の席に座り直し起動したパソコンに向かう。自分が立ち上がった理由は既に忘れていた。
「とりあえず8段でいこうか。」
小林の年齢の割に高い声が体育館内に反響する。佐藤は体育倉庫から自身が跳ぶ跳び箱を運び出していた。人員としては小林もいるのだが「暑い」と言いながら小林は手にした扇子を離す素振りすら見せない。湿気のせいもあってか佐藤はとても汗をかいていた。
運び出した跳び箱を体育館中央に積み上げ、怪我防止のためのマット、跳躍のためのロイター版を設置して準備は整った。佐藤は入念にストレッチを済ませ十分な助走距離を取る。何度か頭の中で踏切りのイメージを繰り返し次に実際に走って正確な距離を確認する。走り出す時少し床で足を滑らせたがそれについては目の前の事で心に余裕がなく、深く考えることはできなかった。踏切のタイミング、跳び箱上での手の着き方、着地の際の膝のクッションなどイメージと動作確認を繰り返した。
「さぁ跳んでみようか!」
小林の高い声が響く中、佐藤は8段の跳び箱に向かって勢いよく走り出した。助走は中間地点を通過したあたりでトップスピードに乗り、勢いは衰えない。
よし、まずは完璧な踏切を、、。
佐藤がロイター版直前で踏み込んだ時だった。注意深く考えていれば防ぐことができたはずの事故が起こった。今朝から続く湿気のせいか、体育館の床表面には少量の水分が付着しており、佐藤は足を取られる。トップスピードで左足を滑らせた佐藤は前のめりになり、勢いそのまま跳び箱中段に頭を激突させた。霧に覆われていく意識の中で、佐藤は改めて思った。
あぁ、やっぱり今日はツイてない。
霧の中、どこか遠くの方からくすくすと何者かに笑われているような気がした。
佐藤の意識はそこで途絶えた。
「よ!おはよう佐藤!知ってるか?今日転校生が来るんだってよ!さっきのぞみんとブーが話してるとこ聞いちゃったのよ〜楽しみだよな!女がいいな〜」
「おはよ!それほんとかよ白井!中2の夏に転校生、頼むから女の子であってくれ!」
夏休みを2週間後に控えた教室はまるで動物園だった。中学2年生と言えば受験勉強に追われることもなく、他に制限されることも特にないため夏は遊び尽くそうと皆予定を立てるのだ。教室の至る所からプールや海、キャンプにバーベキューと夏特有の単語が聞こえてくる。その中で誰も知らない転校生の話をするのは佐藤と白井だけであった。
キーンコーンカーンコーン
「皆席についてねー」
教室前方の扉から担任の寺本のぞみが入ってきた。教室内は静まり、各々席に着き出した。
「のぞみん!今日転校生が来るってほんと?」
「えぇ、この教室に新しい友達が増えるので皆仲良くしてあげてくださいね〜、入っておいで〜」
寺本の声で扉が開いた。入ってきたのは真面目そうな男だった。
「中谷透です。今日からよろしくお願いします。」
「はーい、皆仲良くしてあげてね。中谷くんの席はあの後ろの空いてる席ね。」
転校生を迎える一連の流れを見届けた後、白井と佐藤は顔を見合わせがっかりした。
「男じゃん。」
「くそ〜!転校生ガチャ外れたぜ!」
「最高の夏を過ごせると思ったのにな!」
田園の中に走る一本の農道で2人は自転車を引いていた。開発されず残った豊かな自然が町の特色である京都府北部の与謝野町は来るもの拒まずという雰囲気で住民はとても温かい。そんな町で来たばかりの転校生の愚痴を言い合う2人の中学生は少し浮いた存在なのかもしれない。
「佐藤はさ、最近気になってる子とかいねーの?」
「んー、そんな子いたらとっくにお前に言ってるよ」
「だよなー。あと少しで夏休み始まるってのに、俺らこの調子だと休み期間もずっと2人で会ってるよ」
「俺はそれ結構楽しいからいいけどな(笑)」
「やっぱりしてみたいでしょ、夏から始まる恋!昨日徹夜で夏がテーマの恋愛映画見たばかりだし」
「映画みたいな恋はそんな簡単にできないと思うけどな〜」
実際佐藤は白井に隠しているわけでもなく本当に好きな女などいない。今までに付き合った女は1人いるがそれは中学1年生の時であり、1週間ほどで別れた。別れた理由もどちらから振ったのかもあまり記憶にない程度だ。今は毎日こうして保育園からの親友と農道を歩いて帰るだけで佐藤は十分楽しかった。
「そういえば2組の仁科っているだろ?顔は可愛いけど笑ったところを誰も見たことがないっていうあの子。なんか佐藤のこと気になってるらしいって噂聞いたよ。まぁ仁科が人と話してるところを見たことがないしどこから漏れた情報なのか分からないけどな」
「なら信用できない情報だな〜」
「けどさ!もし本当にお前のこと好きだとして告白なんかされたりしたら佐藤はどうする?こうゆうのは考えておくことも大切だからな」
「んー、その時俺も仁科のこと好きになってるのならそれは付き合うかな(笑)」
「当たり前のこと言ってる」
健全な中学生。思春期の男同士の会話は互いの家への分岐点まで続いた。佐藤はまた明日と白井に手を振って自転車を漕ぎ始めた。
町は夕陽のオレンジで温かく包み込まれていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日で佐藤はゆっくりと目覚めた。時刻は午前10時37分。夏休み1週間前の日曜日だ。特にすることもないためアラームをかけず昼まで寝ようと思っていたが体はこれで十分と言っているのか思ったより早く目が覚めてしまった。2階の自室から1階のリビングへ降りると朝の家事を終えた母親が合革製のソファに座ってテレビニュースを眺めていた。おはようと挨拶して洗面所で顔を洗う。早く目覚めたために二度寝をするのが勿体無いものと感じた。今日は何をしようか。母親に習ってテレビニュースを見るのはありきたりだし、読みかけの小説でも読もうかと考える。しかし外が晴れていたため普段しないような運動をすることに決め佐藤は走ることにした。
外はとても気持ちのいい風が吹いていた。自宅から中学校まで普段自転車で通学する道を自分の足で走る。部活には所属していないため一般的な中学2年生より筋力や肺活量は衰えているがそれでも風を受ければどこまでも走っていけそうな気がした。次第にスピードも上がっていく。体内から湧出する塩分を含んだ汗は額から頬をつたり口元へと流れる。その濃度に佐藤は驚きつつ、現在行なっている運動が自身の身体を健康にしていくものだと実感し嬉しくなり足の回転数は増した。
中学校に着いた頃には全身から汗が湧出し、佐藤の身体は熱を帯びまるで覇気を纏っているようになっていた。10分程度呼吸を整える時間を取り再度自宅へ向け走り出そうとした。すると、中学校の敷地内グラウンドの端に設置されたブランコが前後に少し揺れているのが視界に入った。誰かいるらしい。休日に同じ学校の生徒と偶然出会うというのは、例えそれが会話したことのない相手であったとしても胸が高鳴るものだ。佐藤はバレない程度に近づき顔を確認する。それは仁科だった。風に靡く黒髪、普段見慣れない女の子らしい私服の襟から見える白い首筋、シミの一つもない整った横顔。佐藤は胸を高鳴らせていた。
仁科は佐藤のことが気になっている。
先日聞いた噂話が佐藤の頭の中を何周も駆け回る。胸の高鳴りも次第に勢いを増していく。目の前で下を向きブランコに腰掛けながら揺れている女の子はそれほど可愛く、平日学校内ですれ違う程度の関わりしかない佐藤は今まで気付くことのなかった彼女の魅力について深く知りたいと思った。
仁科の横顔を伺える佐藤の位置取りは俯く仁科の視界の外であった。このまま気付かれず離れるのは容易であろう。しかし、佐藤の内から湧出した彼女に対する好奇心はこの場からの離脱を拒み、尚も観察を続けさせる。気付かれるなら早く気付いてほしい。佐藤はきっかけを求めた。
「2組の仁科さんだよね?何してんのここで」
「、、!?」
俯いてばかりの仁科からきっかけは生まれないと直感した佐藤の好奇心は自ら話しかける行動へと移っていた。仁科は驚き声の主を数秒間見つめていたが、それが佐藤と意識した瞬間恥じらうように視線を下へ戻した。
「ごめん急に話しかけて!学校でも話したことないのにね(笑)ブランコに誰かいるのが見えて見に来たら仁科さんだったからなんか珍しいなと思ってさ」
「、、、。」
会話をする意思がないのか、仁科は佐藤の声に反応しない。ただ自分の足元に生える短い雑草の集合体ばかり見ている。噂話はやはり嘘だったか。佐藤は明らかに自分に興味を持っていない仁科の丸い背中を見て悲しくなる。高鳴っていた胸の鼓動も徐々に本来のペースを取り戻していく。
「まぁ気を付けてね!最近暑くなってきてるし!それじゃ!」
(これ以上この空気に耐えられない。なにより嫌悪感を抱かれるのは嫌だ。まぁ休日に私服姿の仁科を見れたのは激レアのモンスターをゲットしたようなものだし明日白井に自慢してやろう。)
その場の空気に背中を押されるよう佐藤が走り出した時だった。
「あ、の、ちょっとまって、、」
初めて耳にするその声にペースを取り戻したはずの鼓動がまた忙しく音を立て始める。振り返ると仁科と目が合う。他人とコミュニケーションを取ることは佐藤にとって苦ではない。むしろ得意分野であった。しかし先程の様子から仁科にとって他人との関わりはなるべく避けたいものなのであろう。佐藤は仁科に他人として許された気がした。
「ん、どうした?」
「いや、やっぱり今日日曜日だよね?」
「うん、そうだよ。それがどうかした?」
「私、学校に忘れ物しちゃって、、。昨日ちょっと取りに行けなかったから今日来たんだけど。学校閉まってて、、。」
「あー、学校日曜は閉まってるもんね(笑)結構天然?なのかな仁科さんは(笑)」
天然という言葉に反応したのか、仁科の顔はすぐ赤くなった。とても可愛い。
「何忘れたの?」
「それは、、ノートなんだけど、、。これ以上は言えない!けど、あれが手元にないととても不安で。絶対に中は人に見られたくないの。でも、このままここにいても中に入れないもんね。もう帰るね。」
「待って、俺が取りにいくよ。仁科さんの机の中にあるのかな?」
「え!取りに行くってどうやって?」
「知らないの?秘密の出入り口のこと。結構有名なんだけどねー。絶対に中は見ないって約束するし!」
「うーん、、。」
仁科はしばらく悩んでいたがノートが手元にない不安が拭いきれず、結局佐藤に取りに行ってもらうことにした。絶対に中身を見ないで欲しいというお笑いのフリのような言葉を何度も佐藤に言って。
有名な秘密の出入り口というのは校舎1階の東の端に位置する美術室の窓の1つである。この窓の鍵は壊れており、学校側もその事実に気付いているはずだが今年で築50年を迎えるこの校舎は欠陥部分がとても多く、鍵の修理については後回しにされていた。佐藤は今日初めてこの秘密の出入り口を使用するが日曜日で教師はおらず、侵入はあっさりと成功したため見つかるかもという焦りはなかった。美術室を抜けすぐ左手にある階段で2階に向かう。普段は動物園のような教室も廊下も休園の様子で、よくファンタジー系の漫画やアニメで主人公が言う「世界に自分1人だけしかいなくなったみたいだ」というセリフを言いたくなった。
2年2組の教室に入り教卓上の座席表を確認する。仁科の席は最後列の窓際だった。仁科の忘れ物であるノートはA4サイズの茶封筒に入っているということであったため机の中を確認すると確かに茶封筒が出てきた。封筒の口はテープで閉じてある。決して剥がして中を見ないようにという仁科の言葉を復唱し、中身を見たがっているもう1人の自分を抑え込む。時間を掛けると仁科に封筒の中身を見たと事実のない冤罪を掛けられ信頼をなくすかもしれないと怖くなった佐藤は、封筒を小脇に抱えて教室を出ようとした。その時、何かが足元に落下する。下に目を向けるとページが数枚捲られたノートが一冊床に落ちていた。佐藤が少し軽くなった封筒を片手に中身であろうノートを拾い上げると捲られたページにはある人物の顔が描かれていた。その人物はとても繊細に描かれ白いノートの中で笑顔を見せており、絵画に興味がない佐藤でも惹かれるようなものだった。
「あ、、。」
佐藤しかいないはずの教室の扉付近から声が聞こえ佐藤は一瞬身構える。そこには先程以上に顔を赤くした仁科が佐藤の所持するノートに目を向け立っていた。佐藤はなぜこの場に仁科がいるのかという疑問より先にこの状況はまずいと直感した。
「仁科!これは違くて、、!なぜか封筒のテープが剥がれててノートが床に、、、」
「絶対に見ないでって言ったのに、、。最低っ!」
佐藤が説明する時間を待たず、仁科は佐藤の左頬に渾身の力で平手打ちをした。鈍い痛みが佐藤の顔面を襲う。平手打ちを受けたのは初めてだった。佐藤の脳内で仁科から獲得したはずの信頼が崩れる音がし、その音ともに佐藤は膝から崩れ落ちた。
南の空に昇った太陽は容赦なく全てを照りつけている。間もなく正午を知らせる役場のチャイムが町内全域に流れるだろう。与謝野町はこの日気温35度を記録した猛暑日となった。そんな暑さの中、陽炎が立ち上る道を佐藤は肩を落として歩き帰路に就いた。